iPhoneは普遍性をもつか

 柄谷行人の『トランスクリティーク*1を読んでいるせいか、普段の生活の中で、「普遍的なものとはなんだろう」とぼんやり考えることが増えた。時間と空間は普遍的な存在であると、とりあえずは言える。両者はいたるところで、常に、変わることなく存在し続け、宇宙や、人類や、その辺に生えている草木や、アルフォートや、Googleや私など、内側にあるものだけがどんどん変わっていく。普遍的なものについて考えるために、私は普段何気なく使っているiPhoneに注意を向けてみた。改めて、この一物がもつ特質について考え直した。

歴史と普遍性

 普遍性ということについて考えるために、いささか脈絡がないように思われるかもしれないが、iPhoneそのものについていきなり語り始めるのでなく、まずは歴史について考え、そこから政治制度、思想・哲学の領域を経て、iPhoneそのものについて考えるという順序を辿ろうと思う。歴史上の出来事について、特定の立場の人間の声に偏ることなく、そこに関わる当事者たちの声をバランス良く語ることのできる人間というのが、成田龍一さんのいう円熟した歴史家*2であるが、歴史家が誰かに代わって何かを語るとき、その語りの妥当性・真実性は、語られる者の同意によっては基礎づけられない。語られる者たちの多くは、すでにこの世にいないからだ。このように、歴史について誰かが語るとき、そこには過去の他者をどう捉えるかという想定が必ず挟まれることになる。それでも、語られる者たちの声を確かに代理することができていると、いかなる基準によって判断することができるのだろうか。

 また、仮に何らかの基準によって、語りの妥当性が保証されるとしても、それはせいぜい「語られる者にとっての現実」(「そうそう、私が言おうとしていたのはまさにそのことなんですよ。」の如き)でしかなく、真実とは異なる可能性が常につきまとう。それでは、歴史家が語りに終始するとき、真実を明らかにする役割を引き受けるのは、誰になるのだろうか。最後に審判を下すとされる神か。人々が宗教の言説や、宗教そのものを信じられなくなった後に信頼を得るようになったところの、科学者か。或いはジャレド・ダイアモンドのような理系出身の歴史家か。以前*3にもダイアモンドの議論を少し取り上げたことがあったが、彼の議論は総じてマルクス主義的な色が強い。つまり、歴史の展開を、銃と病原菌と鉄などの分布や、人間の移動といった、いくつかの基礎的な条件に還元して説明しようとするため、下部構造による決定論を想起させるような記述が目立つ。それは『銃・病原菌・鉄』から『文明崩壊』、そして『昨日までの世界』に至るまで、一貫した視点である。まさにその一貫性が、彼に対する人々の高い評価の源泉になっているのだろう。

 しかし、こうした下部構造に還元して歴史を捉えるだけでは、歴史上に生きた様々な人々の内実の方が、どうしても手付かずになってしまう。銃の使用が戦争において果たす役割を描くことができても、それが人々にとってどのように捉えられていたのか、そしてその認識というのが、歴史になんの影響も及ぼさなかったと本当に言えるのか。そこで、成田さんの言うような意味での歴史家と、ジャレド・ダイアモンドのような歴史家との間で対話がなされ、それによって総合的な歴史像というものが浮かび上がってくればいいのだが、そういう横断的な議論がどれくらい進んでいるかと考えると、どうもそれほど対話は進んでいないように思えてしまう。過去の他者は代理される者、歴史家が代理する者という関係によって両者が関わるとき、代理する者が抱える原理的な代理可能性の問題は、過去という時間のある一部においてだけでなく、現在や未来といった他の部分においても生じる。

 過去の他者だけでなく、現在や未来の他者に対しても代理を通してその意思を汲み取ろうとする営みとして、代議制という政治制度はどの程度うまく機能するのだろうか。この点については、以前*4に幾つかの記事で取り上げた。これらの記事の中では触れなかった点に限定して、ここではマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日*5で扱われている問題意識を取り上げておこうと思う。マルクスは、ルイ・ボナパルトがいかにして皇帝の地位に立ったかという過程に注目した。そこでは、選挙権の拡大が、代理する者と代理される者との関係を、必然的なものから恣意的なものへ変えてしまう状況が生じているとされる。普通選挙によって選挙権を拡大した農民たちは、それまで自分たちが社会の中で一つの階級をなしているとどの程度自覚していただろうか。おそらくそういう自覚はほとんどなかっただろう。しかし代議制の成立以降、自分たちを代理する者を選ぶことで、その代理する者が、一人一人の農民たちではなく、階級としての「農民」を代理するようになることで、階級の存在が自覚されたのではないか。しかし、一度こうした代理の関係が生まれると、主客の転倒が起こる。代理する者の方が、階級についての言説を生み出すことを通して、農民たちに階級意識を芽生えさせ、同時にそれを制御するという意味で、主人の立場に立つようになる。こうした主客の転倒が、代理する者の側からの働きかけを生み出し、代理する者とされる者の間の関係を恣意的なものへ変えてしまう。代理する者の考えいかんによって、代理される者の意識は変わっていくという意味での恣意性である。これによって、代理する者は単に代理される者の意思を集約して体現するという受動的立場から、自ら代理関係を操作する能動的立場へと変化する。これが歴史的にはルイ・ボナパルトだけでなく、ドイツにおけるヒットラーや、日本における大政翼賛会、或いは現在の安倍総理に至るまで、綿々と続く反復的な現象であることは間違いない。それはしばしば否定的に語られる。

 ここで、歴史という次元から政治制度の次元を経て、哲学・思想の次元へと問題の場をずらしていく。哲学・思想の次元において、歴史における普遍性と政治制度における普遍性とが、統一的な視座のもとで捉え直されると考えられるためである。普遍性の問題は、一般性と普遍性とを峻別し、物自体について考えることを通して、ある対象からいかに普遍性を見出すかということを考えた、カントの問題意識とも通底する。カントにとって、普遍的なものというのは超越論的、あるいは超経験的であって、仮に何かについて、すべての人々がそれに同意したとしても、それはせいぜい一般性の獲得でしかないのに対し、ある個人=単独者が、集団的でなく、まさに個人的に、普遍的なものを見出す可能性がある。

 ルソーが『社会契約論』の中で述べた、全体意志と一般意志の区別もまた、カントによる一般性と普遍性の区別に対応するものである。全体意志は個別意志を集約したものとして定義されるが、それが普遍的なものであるという保証はない。いくら世論調査をしても、その中に普遍的な解があるとは限らない。それでは社会における決定に際して、民衆の中から普遍的な解をいかにして見出すか。そこでルソーが想定したのが一般意志であった。ルソーが同書で、社会における価値判断の基準として措定したものが、一般性でなく普遍性であったという点には注目すべきである。先に政治制度に関して、マルクスを引き合いに出しながら代理関係について少し触れた。ルイ・ボナパルトは、代理関係の必然的な縛りから解放されたところから出てきたために、単独者の立ち位置を得ることができた。それでは彼は単独者として一般意志を汲み取ることに成功しただろうか。歴史的には彼は失敗しているし、それはヒットラーの場合も、大政翼賛会も、また安倍総理の場合も同様である。代理する者とされる者の間の関係が必然的なものから恣意的なものへ変化するときには、代理する者が単独者になる瞬間が訪れるが、歴史的にはそうやって単独者になった代理人が、一般意志を明らかにすることに失敗し続けている。代議制が機能不全であると私が考えるようになったのは、主にこの点がきっかけであった。

 普遍性は、個人=単独者のもっている個別性とどう結びつくのだろうか。普遍性は、個人の経験を超えたところにあると想定されることが多く、その超越的な想定ゆえに、個人との接続が断たれたもののように捉えられがちであるが、普遍性が単独者によって見出されるとすると、普遍性を個別性と対応させることができる。

iPhoneとアメリカンヒーロー

 iPhoneというのは普遍性を持った製品だろうか。それは多くの消費者の意見の集合としてボトムアップ的に生み出された製品ではない。一般性というものが、しばしば特定の個別性から出発していくつかの他の個別性との出会いを通して見出されるのに対して、普遍性は必ずしもそういう過程を辿るとは限らない。普遍性が見出されるときには、大きな跳躍がある。それは、製品開発チームのような集団の活動によって生み出されたのではない。スティーブ・ジョブズというたった一人の、単独者の洞察によって生み出され、現在に至る高い評価を獲得した。そのビジネスモデルや税金対策などは、iPhoneという製品の本質と普及において、中心的な要素ではない。あくまでも製品自体が持つ普遍性が問題である。

 日本国内では、負け惜しみのようにiモードが取り上げられ、日本人の方が先にインターネット付きの携帯電話を作っていたと主張されることがあるが、私はiPhoneとiモードは全く別物だと考えている。確かに機能の面では同じであるが、デザインという面も併せて考えなければならず、その側面を抜きに機能だけを比較して得意顔をしているところに、日本人がiPhoneを生み出せなかった理由が潜んでいるとすら思う。昨日というものが、デザインと併せて形になって初めて、国境を越えて多くの人々に受け入れられる一般性を獲得するのだろう。しかし、私はここで「一般性」と書いたが、普遍性をもつものではないと考える。やはりiPhoneもまた、特定の時代の特定の文脈、環境、状況の中で人気を勝ち得ているにすぎず、その意味で一般性の次元にとどまり、普遍性の次元にまで至ってはいないのだと考える。

 アメリカという国における普遍性とは、一般性の拡張として現れる。つまりアメリカ国民が良しとするものが、世界にとっても良きものであると素朴に信じられていることが、アメリカの外交や世界におけるアメリカの立ち位置を規定している。アメリカ国民のレベルの一般性が、そのまま世界全体にとっての一般性に結びつくのだ。それは例えば、科学界の言説を見ているとよくわかる。科学界で展開される言説に与えられる、或いは期待される、我々は科学を通して、非科学的な事柄を信じる人々を啓蒙するのだというような役割意識は、一般性と普遍性とを混同する意識に由来する。

 またアメリカ一国における一般性が拡張されて想定されるのは、あくまでも世界全体の「一般性」であって、普遍性とは限らないという点に注意が必要である。「限らない」と控えめに書いたが、実際には自国の一般性を盲目的に世界の次元にも適用しようとするその姿勢は、むしろ普遍性からは遠いのではないか。

 そしてアメリカの外交や立ち位置は、単に地政学的、経済的条件に還元できないものである。最近は地政学の書籍をよく見るようになったが、そういう条件に還元する議論というのは、確かに具体的な根拠を伴って展開される分、実証的(positive)であって、何が正解であるかについての判断が下しにくい現代では、他のアプローチによる言説に比べて、相対的に説得力を持ちやすくはあるが、依然としてアメリカという国の本質を描ききれているとは言い難い。

 月並みな認識かもしれないが、あえて言えば、アメリカの意識を象徴するものは、ヒーローであると私は考える。アメリカにおいても、或いは日本や韓国においても、スティーブ・ジョブズはヒーローのように扱われている。アメリカにおける彼の評価は、スーパーマンスパイダーマンのような、ヒーローの伝統という文脈の中から生まれてきたと考えられる。民衆は常に潜在的に、ヒーローの登場を待望し、そこに資本という具体的な存在を通して関わろうとする。シリコンバレーを見ているとよく感じさせられるが、アメリカにおける投資というのは、ヒーローとの接続を可能にし、人々はヒーローの持つ大きな存在感によって、アメリカという共同体の大きさを自分の内側に抱えることで、精神的支柱を獲得する。これは宗教における儀礼と重なる側面をもち、その意味で資本は、いかに経済学的な論理によって脚色されていようとも、その本質において宗教的な側面をもっている。

 それでは、こうしたアメリカ国内の文化的象徴としてのヒーローという観念と、iPhoneの誕生とは、何か必然的な結びつきがあったのだろうか。逆に言えば、日本においてiPhoneが生まれなかったことは、ヒーローについて、アメリカほど深く長い伝統を持たないということと、何か必然的な結びつきがあるのだろうか。この点については、今の所私の中では判然としない。だからここでは、ひとまずiPhoneそれ自体に限定して目を向けることで、その普遍性を考えてみようと思う。ここまで、歴史、代議制、カント、ルソー、象徴としてのヒーローと、ずいぶん迂回的な筋道をたどってきたが、ようやく本題である。

 実はすでに結論は述べたが、iPhoneという製品は普遍性を持たないと私は考える。それはジョブズの死後、Appleという企業からイノベーション的なもの、或いは革新性、或いは新製品の発表のたびにワクワクさせられるような何かがなくなってしまったこととも、少し関係している。「少し」という形容詞を付けたのは、それが普遍性を持たないことの主な原因ではなく、むしろその主な原因から派生的に生じた事態に過ぎないという私の認識ゆえである。それでは主な原因とは何か。それは人々の共通感覚は1通りであるとは限らないのではないかという懐疑に関わる。

 iPhoneが他のスマホに比べて使いやすいというときに、そこには人々が「どういうものを使いやすいと感じるか」ということについてのある共通感覚が潜んでいる。この共通感覚は普遍性をもっているだろうか。一般性と普遍性の違いについてすでに述べたところと対応させて言えば、ジョブズは単独者として人々の中にある共通感覚を掴み取ってうまく形にすることができたという意味では、普遍性の側に近いように思える部分もある。

 ある製品が登場して、それがとても使いやすいという評価が与えられる時、本当はいつでも、他の使いやすさというものが潜在的にはありうるはずである。しかし、一旦ある製品が出てしまうと、人々はそれこそが使いやすさの正解であったのだと錯覚してしまう。iPhoneもまた、そういう錯覚に成功した製品の一つにすぎないのではないかと私は考える。もっと使いやすい、もっと洗練されたコンピュータというものがありうる。「携帯電話」でも「スマホ」でもなく、「コンピュータ」と書いたのは、iPhoneの本質は電話なのではなくて、モバイルのパソコンというコンピュータとしての側面にあると私が考えているためである。

 今後、どんなモバイルコンピュータがiPhoneにとって変わるのか、その交代の可能性はある。そしてそれは、誰の手によって生まれるかもわからない。むしろ、私たちがまだ知らないような名もない誰か=単独者が、あるとき普遍性を獲得するのだ。

*1:

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

 

 

*2:この歴史観には、「今ここにいない他者に代わって、私は他者についてどう語ることができるのか」という問題意識が背景にある。以前に他者について書いたときには、木村敏の『時間と自己』を読んでいた時期であったこともあって、精神現象学的な観点から考えていたが、最近は少し他者についての見方が変わってきたように思う。

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*3:

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*4:

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*5:

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

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