ソーシャルメディアの反応と政府の反応

 現代ビジネスで哲学者の内山節の記事を見つけた。

gendai.ismedia.jp

 記事についていうと、テロ自体が正当化されることはないが、それを産み出した責任はヨーロッパやアメリカの側にもあるという事実を彼らが認めなければ、問題は完全には解決されないだろうという基本認識に立って、論が展開されている。この認識は私のそれとも重なるもので、共感しながら読んだ。

 と同時に、私の中ではそれとは別の視点も新たに浮かび上がってきた。記事中で政府の責任を問う箇所を読んでいて、今回のテロ事件後の、ヨーロッパやアメリカの人々のソーシャルメディア上での反応と、各国の政府の反応との間には何か食い違いがあるのではないかという視点である。

 それは、この記事を読む前に、別のある記事を読んでいたことも関係しているのだろう。別の記事というのは、シリア難民の人々が世界各地の移住先で、現地のホームレスの人々を助ける活動を行っていることに、多くの人々がソーシャルメディア上で共感を示していることを取り上げたものだ。この記事を読んだことが、冒頭の記事を読むときにある種の文脈を作っていたのではないかと思える。

www.huffingtonpost.jp

 こういう記事を見ていると、ヨーロッパやアメリカの人々の中にも、難民に対して肯定的な評価を与える人々も一定数いるという事実がはっきりとわかる。記事で紹介されているアレックス・アサリさんの写真は290万回以上閲覧されているらしい。また彼の行動を記録した彼の友人のタベア・ブーさんのFacebookでの投稿は2000回以上シェアされているらしい。そしてこのハフィントンポストの日本語の記事自体もまた、Facebookでの1093の「いいね!」と106のシェアを獲得している。

 真の世論は一体どこにあるのだろうということを考えさせられる。ソーシャルメディア上では、難民を暖かく迎えるような投稿と、彼らへの共感が集まっているという事実がある一方で、各国政府の対応を見ていると、難民受け入れは難航し、その背景には難民受け入れに否定的な国民感情があるように見えてしまう。どちらかが真実ということでもなく、国内には賛成派も反対派もいるというのが現実であるとは思う一方、政府レベルの対応が議論される場合には、難民受け入れの困難さと、その責任を指摘するものが多い。その一方で、TwitterFacebookを見ると、難民の人々への共感を示す投稿を目にする。この食い違いは何に由来するのだろうか。

 以前に社会契約論と代議制の関係について記事*1を書いた。そこでは、何が正しいのかということを見抜く*2一般意志を決定に反映させるシステム(ルソーの社会契約論)と、国民それぞれの立場を投票によって表明してもらい、それによって選ばれた議員が国民の代理人として決定を行うシステム(代議制)との間に、食い違いが起こっているという点を中心に論を展開した。

 こうしたシステム的な観点から見て、ソーシャルメディア上での人々の反応と、政府レベルでの対応との間に見られる食い違いには、代議制というものの問題点が潜んでいるのではないか。世論を吸い上げる仕組みとしての代議制が、実際には十分に機能していないということなのではないか。これはあくまで私が考える、あるいは想定する一般意志であるが、それに基づいて難民問題の対応を考えると、難民は受け入れるべきであり、また現在ドイツで議論になっているように、難民に対しては最低賃金の適用外とするようなことはすべきでないということになる。しかし現実に各国の政党は支持基盤への目配りから、一般意志がなんであるかということよりも、自らの党の支持基盤の人々の感情を代理することに汲々とし、世論は分裂状態に陥り、その中で実際に実行される対応はちぐはぐなもの、中途半端なものになりがちである。それは代議制としてはうまく機能しているといえなくもないが、一般意志を反映した政策決定のシステムの方はうまく機能しているようにはみえない。

 もちろん、ソーシャルメディア上にも難民受け入れに否定的な評価を示す投稿はいくらかあるだろう。しかし全体としてみると、受け入れに肯定的な評価を示す投稿の方が優勢であって、否定的な投稿はされにくいという同調圧力がはたらいている可能性もある。あるいはソーシャルメディアでの人々の反応が、統計的に世論の不偏的なサンプルにはなっていない可能性、端的に言ってサンプリングバイアスの可能性もある。もともと肯定的な立場の人々の方がソーシャルメディア上には多いということがあるかもしれない。この辺については、自然言語処理に基づく社会の分析という工学的なアプローチが近年盛んになってきているので、研究の動向をフォローすると同時に、私自身でもこうした分析ができるようになりたいと感じた。せっかくフリーターで時間が有り余っているので、有効に使わなければと思う。

 また、ソーシャルメディアそれ自体には中間集団を形成する機能はないという点も重要だと考える。例えばシリアからの難民の問題に関して、個人では受け入れに肯定的な人間がそれなりの規模で存在し、ソーシャルメディア上ではそれが「いいね!」の数やシェアの数によってある程度可視化されるものの、それだけで意見を同じくする者たちが連帯して現実に活動を起こすほどの力はTwitterFacebookには存在しない。あるいはもし活動を起こしたとしても、それが現実を変えるほどの影響力を持つことはほとんどない。

 中東のジャスミン革命の際には、Twitterが盛んに活用されたことが指摘されたが、それは「連帯したい」というモチベーションがまずあって、その上で連帯を実現するツールとしてソーシャルメディアが利用されたという順序であって、ソーシャルメディアの登場自体があの革命の原動力となったわけではない。だからソーシャルメディア上の反応を世論として政党や政府により有効に反映させていくためには、中間集団を形成する別の力が必要になる。中間集団の活動を通じて、世論は偏りなく国政のレベルに反映されると考えられるからだ。

 難民問題に限らず、世界や社会で起こる色々な問題が議論されるときに 、あれかこれの二者択一ではなく、それぞれの立場の人々がどの程度の規模で存在しているのかということがもっと可視化され、人々の間で共有されていると、議論が進めやすい。そしてそういう環境づくりを担うのはメディアということになる。いわゆる情報強者・情報弱者という競争原理的・自己責任論的な思想に基づく二分法では問題は解決しない。その手の思想は、多くの知識人が雑誌の特集などで繰り返し主張し続けているが、それで人々の考えなり行動なりが変わったかというと、どうもそうは思えない。それならばいっそ視点を変えて、中間集団を作るのにメディアの立場から技術的に関われることは何かないかということを考える方が、いくらか建設的なのではないか。

*1:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*2:何が正しいのかを見抜くためには、一般意志がなんであるかということがわかればよいという立場をこの記事ではとっている。もし一般意志などというコンセプトを持ち出さずに、賢い個人や少数の賢い人間たちが集まってできた合議体が正しさを見抜けるのであれば、それに任せてもいいかもしれない。現実にはそういう判断を下せる個人や合議体は存在するだろうと私は考えるが、それでも一般意志のコンセプトを使うのは、賢い個人や賢い人間たちの合議体に正しさの判断を委ねると、そこに腐敗が生じる可能性がどうしても残ってしまい、歴史的にはそういう腐敗はいくつも例があって、腐敗によって戦争や飢餓、経済の低迷といった望ましくない事態を招くこともあるならば、一般意志を参照するというシステムを採用した方が、まだいくらかマシかもしれないと考えるからだ。手続としては、どうしても一般意志を参照する方が煩雑になってしまうので、迅速な対応は難しく、また一般意志を常に安定的に見つけられるほどシステムがうまくできているわけでもないために、問題は残るが、望ましくない事態を避けられる確率が比較的高いならば、これを採用するのが妥当なのではないかと思う。