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社会契約論と代議制を別れさせ、社会契約論の新たな伴侶を探す

 ジャン・ジャック=ルソーの社会契約論(Social Contract Theory)とジョン・スチュアート=ミルの代議制(Representative Democracy)は、必ずしも論理的に結びつかない。今では運命の赤い意図で結ばれた男女のごとく結びついているが、そこに運命の赤い糸はないと思う。みんなのことは一般意志で決めようというのがルソーの社会契約論であり、みんなのことは議員を選んで決めてもらおうというのが代議制であるから、この二つが結びつくには「議員=一般意志」という等式が成り立たなければならないが、代議制の側に議員が一般意志をもとにするような機構が存在しない。

 それなら社会契約論から別の方向に進めないだろうか、別のパートナーを見つけることができないだろうかということが最近の自分の関心になっている。あえて言うなら、民主主義*1というものは今の私たちにとっては容易には動かしがたい前提ではあるとしても、運命や必然ではなく、また最善でもないのではないだろうか。

 

  英国首相だったウィンストン・チャーチル19471111日の下院演説で、民主主義についてこう語ったことは有名だ。しばしば引用されるよりも長めに引用しよう。

 

Many forms of Government have been tried and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.

Winston Churchill, speech in the House of Commons (November 11, 1947); in Robert Rhodes James, ed., Winston S. Churchill: His Complete Speeches, 1897–1963 (1974), vol. 7, p. 7566.

 

訳:これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。

 

 民主主義によって、私たちは他者、或いは<他者>のことを考えるようになっただろうか。私にはそうは思えない。むしろこれから先も、このまま民主主義は素晴らしいと素朴に信じ、議員を選ぶ代議制(間接民主制)を維持しつける限り、私たちは他者を理解することはできないままなのだろう。なぜなら、代議制というしくみの中には、「一般意志」*2を必然的に生み出すようなはたらきはないからである。

 「私にとってどうか」或いは「私の家族にとってどうか」と考えることはあっても、「私たちに全体にとってどうか」と考えることは難しい。そこには三重の難しさがある。ひとつは、そもそも個人が利己的な存在であるために、どうしても自分や自分とごく近しい人々にとってどうかという範囲で考える方向に引っ張られるやすいということだ。そしてもうひとつは、日本人の場合は「空気」が私たち全体の意志であると錯覚しやすいという心性を持っているということだ*3。つまり「いかにうまく空気を読めたか」ということが、「いかにうまく一般意志について考えたか」ということに直結してしまう精神構造をもっている。

 最後のひとつは、他者をどう理解するかということに関わる。代議制では、私たちの代わりに「議員」が議論を行うから、私たちは自分と異なる意見を持つ他者と対話する必然性はない。だから対話を通して分かり合う機会もない。他者との対話を経験せずに、自分と異なる価値観でものを考えている人間との対話を経ずに、一般意志の視点をもつことは困難なのだ。この点が三番目の難しさである。

 そして私たちがこうした三重苦の中で一般意志を想定できずに個別意志に引きずれれている間にも、私たちが選んだ議員が、日本の「どこか」にある国会で、私たちが知らないうちに、私たちの知っている問題や知らないままになっている問題を議論し、いつの間にか結論を出している。私たちは彼ら・彼女らに決定を委託したのだから、彼ら・彼女らの決定に従うだけになっている。私たちが他者と議論することは、代議制民主主義のプロセスの中に含まれてはいない。人口の多い国ではそれが困難であるからこそ、「代理人」として議員を選び、私たちの代わりに議論し、決定してもらうというのが代議制の定義であるから、むしろ私たちどうしの直の対話というのは代議制の定義と逆立しさえするのだ。1億2000万人の国民が直に議論することなど不可能だろう。

 もちろん、私たちは代議制の中でも対話を通してお互いを理解することができなくはない。キャス・サンスティーンを中心に主張される「熟議」というのは、代議制というしくみの内側で、私たちが直接顔を合わせて何かについて議論することの可能性を探るものとして出てきた*4

 「私たち」と素朴にいうとき、私たちのその規模というのが、農業に関する技術進歩と食料の流通機構の発達以降、大きなものになっていった。それは数百万、数千万、そして数億まで膨れ上がり、現在では中国とインドは10億を超える「私たち」を作り上げている。そういう大規模な「私たち」をうまくまとめるための方便として、代議制はいわば必然のように生まれ、社会に受け入れられた。イギリスを代表する知性であるジョン・スチュアート=ミルがそれを見事な形で体系化した。

 

 私たちが対話を通して他者に出会い、他者を理解するようにならない限り、私たちは一般意志も、或いは<他者>*5も想定できるようにはならない。大澤真幸さんが「未来の他者」という言葉によって示そうとしているものもまた<他者>であり、第三者の審級もまたそうである。大澤さんは代議制の中で一般意志をどう実現していくかという方向で考えているように思う。代議制を前提としないで、社会の中で一般意志をどうやってはたらかせるかということだけをまずは考えようと思っている。ここでいう「社会」というのは、必ずしも代議制によらない社会を想定している。

 

*1:この記事では「民主主義」という言葉を「代議制」(間接民主制)の意味で用いる。

*2:ルソーが『社会契約論』の中で使った言葉。私がどうしたいかを示す意志が個別意志であり、いろいろな人々の個別意志を集計したものが全体意志であり、「われわれはどうすべきか」ということを考えたときに出てくる意志が一般意志である、とひとまず整理しておくことにする。

 原発の例で言えば、「私個人は原発に反対だ。なぜなら原発の近くに住んでいるからだ」というのが個別意志であり、そういうそれぞれの個人がそれぞれの立場から表明した個別意志が話し合いでたどり着いたある意志が全体意志であり、「私は日本人にとって原発を廃止すべきだと考える。なぜならば我々日本人にとって原発とは戦後に生きる日本人が乗り越えられないままでいるものの象徴であり、それを廃止することによってしか乗り越えることはできないと考えるからだ。」と考えるならば、それは一般意志であろう。

*3:

「空気」の研究

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*4:

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

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熟議の日: 普通の市民が主権者になるために

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熟議民主主義ハンドブック

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*5:先日書いた記事の中で用いた他者の表し方。詳しくは以下の記事を参照。

plousia-philodoxee.hatenablog.com