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迷路の壁と、道を選ぶ人間

四角を書いて、その左上と右下に2つ点をとり、片方の点からもう片方の点へ行くにはどうすればいいかという問題を考える。この答えは単純で、2点を直線で結べばいい。

 

次はそこに、壁を置いてみる。するとまっすぐは進めなくなって、進み方は制限される。壁が複雑に入り組めば入り組むほど、進み方もまた複雑になっていく。ときには「行き止まり」も混じってくる。

 

今度は反対に、2点を結ぶ、複雑な線を描いてみる。曲がりくねって、目的地から遠ざかるような部分もある、そういう線を描いてみる。その複雑な線は一見不可解だ。なぜこのような線が引かれたのか、うまい説明がつかない。

 

しかしその線に沿って、両側に線を描いていく。それは「壁」になる。壁を描ききってしまうと、先に描いた線が複雑な線である理由は明らかになる。つまりそこしか通れなかったからそういう線になったのだ、と。

 

人間の集団、社会について起きる現象を理解しようとする場合に、その集団の行動を制限する要因を考えるということがある。気候や地形などの自然環境、資源の分布、技術レベル、交易の範囲など、「この条件ではこうすることは不可能だ」と言い切ってしまえるような色々な条件を探していく。こうした条件は科学的に検討され、記述される。川の真ん中に城が建つことはないが、川の周りを中心に物流が発展する、など。

 

わかりやすいのはジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』で、世界のこれまでの歴史的経過がなぜこのようなものなのか、なぜこういう経路をたどったのかについて、銃と病原菌と鉄の3つの要因を軸に考えている。例えばそんな風にして、ある時代、ある地域に暮らす人々のたどる経路が限定されていく。100通りから20通り、20通りから5通り、そして・・・。

 

しかしそれは、そこで生きる人間たちがたどる経路を「1通り」にまで絞り込めるほどのところまでいけるだろうか。私たちがこれまでにたどってきた道が、なぜこのようなものであったのか、まっすぐで単純なものでなく、入り組んで、ぐにゃぐにゃ曲がっていて、ときには途中の道が途切れていて、こっちから急にこっちまで飛んでいたりする、そんな場合もあるのはなぜか。その道の周りに、「ああ、こういう壁があったから、こういう道になったのか」と多くの人が納得するような、そんな壁を描いてみせることはできるのだろうか。

 

道を囲む壁について、それが鮮明になればなるほど、「他に通れたはずの道」の数は減っていって、ついには、「この道しかゴールへ到達する道はなかった」と、ハッキリ言ってしまえるようなときがやってくるのだろうか。「これが運命なんだよ。すべては決定論的に決まることで、人間が『そんなことはない』と反対するのは、単に彼らには計算能力の限界があるからだ。彼らは決して『ラプラスの悪魔』ではないのだから。」と言ってしまえるようなときが。

 

人間がたどる道について描き出すテクニックは進歩している。コンピュータを使ったシミュレーションが可能になって以降、それは人間がたどる経路をどう説明するかということについて、これまでとは違った説明を生み出してきた。物理学のアプローチ、例えば統計力学流体力学を応用して、人間の集団のダイナミクスを表現するという研究も盛んになってきた。

 

壁は、どこまで正確に描ききれるだろう。

 

しかし、迷路が完全に描かれてしまっても、実際にその上でゴールを目指して進む人間がどのように進むかを決めることはできない。何度間違った方向に進むか、何度引き返すか、そして目的地までどれくらいの時間で到達するか・・・。

 

迷路を特徴付ける壁と、その中で道を選ぶ人間と。