私は他者と出会っているか

 前回の記事では、「祭り」において私と他者とが互いの異質性を失い、同質な存在として集合するということを考えた。或いはもう少し前の記事では、「叶わぬ願望」を契機として、偶像化された他者と、現実とは反転した「理想としての私」とがどのような形で関わるかを考えた。それらとは反対に、今回は私と他者との「異質性」という事態の方を中心に考える。 

祭りをめぐる集合意識と個人の同質性 - ありそうでないもの

アイドル・偶像・ヒーロー - ありそうでないもの

 

 

 一歩外へ出れば、すぐに出会っているようでいて、実は出会えてはいないのではないかと思うような存在、他者。街中を歩いていれば、いくらでもすれ違い、一日に1000人を超える他者が私の視界には入っているだろう。その中で私の関心を引く他者は何人いただろう。或いは私の記憶に残る他者は何人いるだろう。

 

 もっとも他者らしい他者、あるいは言葉の本来の意味での「他者」(others/another person)とは、どんな人を指すのだろう。

ずいぶん前に、幼馴染じみと付き合うということについて書いたことがあった。幼馴染との付き合いには、「他者」との付き合い方を問われるという意味があることを指摘した。 

幼なじみと付き合い続けるということ - ありそうでないもの

 

 

 

 私と共通点の多い他者を見るとき、私はある程度自分自身と重ね合わせながらその人を理解する。そんな他者には私は惜しまぬ関心の目をもって向き合い、やりとりを交わしたり、見つめ続けたりする。そのとき、その人は実は「他者」ではなく、部分的に自分と異なる自分、いわば「もう一人の自分」(another self)のようなものとして捉えられているのではないかと思えるときがある。共通点の個数に応じて他者は私を原点とする数直線上に配置され、10個の共通点を共有する他者は、5個の共通点を共有する他者に比べて、より私に近い存在だと考えていないだろうか。いや、「考える」という意識的なものではなくて、本当は無意識に、知らず識らずのうちに、私たちは自分と出会う多くの他者をこの比喩としての数直線上に配置していないだろうか。数直線上で私に近い他者、私と似ている他者は、「私の外にいる私」(self out of self)として認識しているのではないだろうか。

 

 私たちは一方で、数直線上で私とは遠いところにいる他者、私と共通点の少ない他者を拒絶したり、距離を置いてしまうことがある。そんなとき、私自身に向かって、或いは私に共感してほしい「私の外にいる私」の中の誰かに向かって、「あの人とは合わない」「あの人は苦手だ」「あの人は生理的に受け付けない」などの言い方で納得させようとする。

 

 私が拒絶しようとしてしまうような他者、或いは私とはもっとも隔たったところにいる他者こそが、本当の他者なのだろうか。おそらくことはそう単純ではない。ここにあらゆる点で私と全く正反対の他者がいたとする。その他者を理解しようとすることは、実はそれほど難しくはない。私は私自身について深く反省の目を向け、そこに見出された様々な事柄をことごとく反転させればよい。そこに私とは正反対の他者が重なることになるだろう。「敵」というのは、えてしてそのようにして理解される。だから「敵」は、真の他者のようでそうではない。自分の逆像として把握される他者である。

 

 真の他者とは、それではどんな人を指すのだろうか。それはおそらく、私が無意識に描いてしまう数直線上に配置することのできない他者のことではないか。甘いりんごにとっての他者とは、自分より甘いりんごでも、自分より酸っぱいりんごでもなく、みかんであり、米であり、さらには定期券であるだろう。つまり、私と比べることのできない存在こそが、私にとって他者としての他者、真の他者として現れるのではないか。

 

 それでは、ある一人の人間にとっての他者もまた、りんごにおけるりんご以外の存在が他者であるがごとくに、人間以外の存在であるのだろうか。私は私の親しい他者たちよりも、足元をよく見れば初めてその存在に気が付く小さな虫や、何気なく上を見上げたときにビルの屋上に留まっているのを見つける鳥や、或いは先ほどから私の部屋を暖めるべく、声なき声をもってはたらき続けているところのエアコンなどをこそ、他者とするべきなのだろうか。いや、それでもまだ不徹底であって、私は私がその存在を認めることすらできぬ何か、未だ現れぬものや、かつて存在し、今はその痕跡を全く残していないものについて思いをめぐらせ、それらとの間に他者としての関係を構想するべきなのだろうか。

 

 私は、私と比べることのできぬ存在を、私の精神の視界の内にどれだけ捉えることができているのだろうか。私は他者と出会うとき、自転車に乗るときにハンドルやペダルの操作を意識しないのと同じようにして、意識しないまま数直線上に他者を配置する。いくつかの質問を発し、外見的特徴やしぐさを観察し、対話を続けながら、数直線上に正確な位置を与える。数直線というのは、「軸」(axis)と呼んでもいい。

 

外見、私から+5。

服装、私から−3。

考え方、X軸では私から+17。Y軸では私から+2。Z軸では私から−4…。

 

 私は他者を捉えるにあたって、私の中にある出来合いの「軸」を持ち出し、「軸」の上に他者の個々の特徴をプロットしていく。そうして、全体的なイメージを作り上げたら、それが私と比べてどれだけ違っているかということを、どれだけ隔たっているかということに、自然に置き換えて把握する。他者はたいてい、そのようにして私に把握される。

 

 私は、私の出来合いの軸たちを揺るがす存在に出会うことはあるのだろうか。或いは私はそういう存在に戦き、拒絶をもって私の視界から外してしまうのだろうか。幽霊妖怪宇宙人がときに怖れられるのは、足がないからでも体が透けているからでもなく、私と比べることのできない存在として私に観念されているからではないか。真の他者とは、私が恐れる存在なのではないか。真の他者とは、意思の疎通がはかれるように感じられない。ことばが通じるように感じられない。そのとき、私は恐怖する。

 

 逆に言えば、私は、言葉を共有できる人間に、真の他者らしさを感じることはできないのかもしれない。それでは子どもはどうだろう。或いは赤ん坊は。彼らは、まだ自分の言葉を持たない。自分の思いを、言葉によって表すということに慣れていない。私は彼らと向き合うとき、私の側の言葉によって、彼らを知ったように感じているかもしれないが、本当は彼らのことなど、全く理解できていないのかもしれない。彼らが言葉にできなかったもの、声にすることができなかった声に、私の想像力は届くのだろうか。或いは私の言葉は、声なき声に取って代わることができるのだろうか。言葉以前の存在に対して、私は言葉をもって臨もうとするとき、私はなんとかして、向こう側にいる彼らを、こちら側に、言葉の側に、さらに言えば私のもつ軸の上に、引き入れようとする。もし「引き入れることができた」と感じたならば、おそらくそれは勘違いなのだろう。私が「配置した」と思ったその位置に、彼らはいない。彼らは依然として向こう側にいて、私が彼らに対して、真の他者として向き合うのを待っているのではないか。「早く私を見つけてくれ。」と。

 

 幽霊、宇宙人、或いは赤子という「他者」の表象。私はそれらの表象を、私と類をなす存在と捉えているだろうか。他者は、私と類において関係することのできない存在なのだろうか。いや、おそらくはそうではない。他者は、私と類をなすことが最も困難な、それでいて確かに私と類をなすことが可能であるような、そのような存在として、ある。

 

以前に「好き」ということについて記事を書いた。 

好きということ - ありそうでないもの

 

 私が他者を好きになるとき、その他者はもはや他者ではなく、もう一人の私のように観念されているのかもしれない。しかし「愛する」ということの意味を考えると、それはおそらくは、私が私とは異なる存在を全的に受け入れるということではないか。この点において、「好き」「愛する」とは異なるのかもしれない。それでは私が他者を愛するとき、その他者はもう一人の私ではなく、依然として他者のままでいられるのだろうか。世の中を見ていると、そういう意味で他者を愛するということの難しさを感じずにはいられない。私にとって、限りなく近くにいることを望む存在が、その「愛する」という関わり方ゆえに、私にとって最も近くにいることが難しい存在であると知らされる、そういう葛藤が「愛する」ということの中にはある。多くの愛が、「愛」といいながらその実、自己の好ましい一部、或いは自己の好ましくない一部(コンプレックス)を他者に写し出すことで、他者を媒介として自己を愛する間接的なナルシシズムにすぎないように思えてしまう。

 

 他者を媒介として私を見つめること、或いは私を愛することは、それ自体悪いことでもない。しかし、そうすることが他者と向き合うということだと偽ってしまうことによって、真の他者は見えなくなってしまう。目の前にいながら、私は他者を鏡とし、鏡でない他者に対して盲目になる。私が他者の中に、自分を写し出す鏡を見てとったとき、他者は私の前から姿を消してしまう。否、私にとって消えたように錯覚される。軸とはいわば、他者を鏡として私が私自身を見るために作り出されたレンズにすぎないのかもしれない。私が他者に対して軸を持ち出したその瞬間から、私は他者の中にただ私自身を見ている。

 

 私はもうすぐ眠りに就く。明日、また家から外へ出て、多くの人々の中を私は歩くだろう。私は他者と出会えるだろうか。

 

 

 

【参考文献/映像】

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書。先日購入して、電車の中で地道に読み進めた。劇場版サイコパスを見たのがきっかけだったが、読んでいるうちに自分の中の別の関心領域とも関わっていることがわかった。

ポストコロニアリズム (岩波新書)

ポストコロニアリズム (岩波新書)

 

 大澤真幸×成田龍一現代思想40年の軌跡と展望」。成田さんが歴史を語るということにおいて強調する「他者性」、或いは「全き他者」は、この記事を書くにあたって少なからず意識させられた。


大澤真幸×成田龍一 「現代思想40年の軌跡と展望」 - YouTube

 

マルティン・ブーバー『我と汝』。「我ー汝」(Ich-Du)と「我ーそれ」(Ich-Es)の2つの対応語を巡って、あるいは「関係」(Beziehung)ということを巡って、この記事に書かれたことが頭の中を旋回していた。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 

ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『死』 。この本を初めて知ったのは、留年して5年目の大学生活を送っていた時に、西洋倫理思想史の授業をとったことがきっかけだった。「死の人称」は死について考えるときだけでなく、他者について考えるときにも、よく頭に浮かぶ。

死