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科学の茂みに隠れて

 世界を動かすものは経済か。そうではない、思想である、或いは権力である。そう考えることはたやすいが、いきなり思想や権力に注目するのでなく、あえて経済に注目し、そこに潜む思想性を明らかにしていくという迂回路を経た方が、世界を動かすものについてより明晰に理解することができるのではないか。それは端的にいえば、ある問題に対する立場ではなくそれを扱う手順の問題だ。近頃そのように思うことがある。そういう考えからか、最近はすっかりご無沙汰のようになっていた経済学にもう一度向き合ってみようと考えた。ただし今回は、大学の専攻として学んでいた以前のような学び方とは少し異なる。そこで説明されるロジックを理解して使いこなすということでなく、その奥深くにどんな価値観、どんな認識、あるいはどんな宗教性が潜んでいるのか、そういうことを掘り下げてみようと思ったのだ。ちょうど今日から読み始めた柄谷行人の『トランスクリティーク』の中に、こうした迂回的思考の源泉となった箇所がある。まずはその引用から始めてみる。

マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』の時期、彼は直前まで自身がその中にいたヘーゲル左派を批判した。エンゲルスにとって、これは観念論にかわって、経済的な観点を導入して歴史を見る視点を提供するものであった。ドイツのイデオロギーとは、先進国イギリスにおいて実現されていることを観念的に実現しようとする後進国の言説にほかならない。しかし、マルクスにとって、それは彼自身がはじめてドイツの言説の外に出ることによって得た、或る衝撃をともなう覚醒の体験であった。それは、自分の視点で見ることでも他人の視点で見ることでもなく、それらの差異(視差)から露呈してくる「現実」に直面することである。(柄谷行人トランスクリティーク   カントとマルクスp.17

 

 経済学は社会科学の女王とされ、合理性・客観性を重んじることから、ある種の数値が他国よりも大きい国が「優れている」という価値判断と結びつきやすい。

 先進国は科学の仮面の下で自らの先進性を納得させる理屈をこしらえた。経済成長率、GDP、金融市場の取引規模、法人税の税率。こうした指標の数々をもって、資本主義にすっぽり収まった世界各国は、先進国とか発展途上国という言葉が自然なもの、自明のもののように用いられるようになったのは、資本主義の発達以降、あるいは経済学の発展以降のことである。人類が国家を作るようになったそのときに生まれたものではない。もちろん当時から優劣の意識はあっただろうが、経済的な優劣と権力の優劣が結びつき、それが近代科学の精神という後ろ盾を得た後になってはじめて、客観的な数字をアリバイとして優劣をつけられることになってしまった。

 資本主義はそれ自体として特定の価値にコミットしない。その価値中立性ゆえに、内部にどんな文化も抱え込むことができる。それは大抵は欧米の文化であるが、資本の移動と共に投資先の国や地域で文化は変容を被ることになる…。と、そのように考えることもできる。しかしここではそうは考えない。資本主義には何らかの傾きをもった、或いは偏りをもった価値観が潜んでいる。そう仮定してみて、「ではそれはなんだろう」と考えてみる。それはかつてマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で行ったような類いの仕事であり、より根本的にはマルクスが『資本論』において行った類いの仕事である。経済学が科学と結びつき、科学がその成果を蓄積していくのに合わせて、経済学もまた浸透していく。近年、経済学への懐疑が問題になることが増えてきている。しかしそれは、経済学の扱う対象である経済を科学A(科学とは本来呼べそうにない、恣意的な仮定から出発した公理系の集積によって体系化された近代経済学新古典派経済学)ではなく科学B(物理学や統計学神経科学、心理学)で説明しようとするという変化でしかなく、科学との結びつき自体がなくなるわけではない。もちろんそうした結びつき方の変化によって、経済学が表す思想的なものの中身が少しは変わるかもしれないが、科学との結びつき自体が変わらないことによって、いつまでも変わらないこともあるだろう。

 それでは何が変わらないのか。それは科学の背後に隠れた人間の主観性の存在である*1。科学を使うのは常に人間であるから、たとえどんな種類の科学の個別領域と結びつこうとも、それを使う人間には必ずなんらかの意図がある。その意図とは主観からしか生まれないし、また科学を超えたところにしかない。科学は常にその意図に従属しながら用いられる。感染症を科学で克服したとき、いかにして克服したのかは科学によって説明できる。しかし、そもそもどうして克服されたのかと考えれば、それはある個人が克服を望んだからだ。そう望んだ理由は科学で説明がつかない。そしてそれは科学のもたらした成果の生い茂る茂みの背後に隠れている。スタート地点には常に科学を超えたところにあるものが居座り続けているのに、一旦それが何らかの成果として結晶すると、私たちはそれを科学の背後に隠してしまうのだ。そして経済成長率の議論をし、ROEの話をし、KPIの話をするのだ。そういう話をすることによって、あたかも自分の主観を排除できたような錯覚に陥ってしまう。何かを隠しても、それが消えてしまうわけではない。落ち着いて客観的に語る人間ほど胡散臭い者はいないと私は思っている。そういう人間に限って、自分の欲望に無自覚なものだ。あるいは自分でそれを隠しているということに気付いていないといってもいい。そしていかにそれに囚われているのかも。そういう人間に私はこう問うことにしている。「あなたはどうして「客観的であること」にこだわっているのですか?」 彼・彼女はこう答えるかもしれない。 「それは誰でも同じように理解することができるためです」そこにまやかしが潜んでいるのだ。それではまだ自分が見えているとはいえない。この返答には重ねてこう問うことができる。「あなたはなぜ、誰でも同じように理解することができるということが重要であると考えるのですか?」ここまで問えば、答える者は行き詰まるか、そうしたいからそうするとか、そうすることが好きだからそうすると答えることになるだろう。そこにはもう科学など存在しない。 

 人間相手に問い続ければ、どこかで科学を超えたものが浮かび上がる。そういうものは科学の中に答えを求めても見つからない。そういう事情はこれから先もずっと同じであるかはわからない。ただし少なくとも現在の科学の水準では、人間の主観をうまく説明することができない。そして客観的であろうとする人間が、実は無意識の主観の支配を受けているということも、部分的にしかわかっていない。

 行動経済学は主観の中に潜むバイアスを暴き続けているが、まだまだ不十分である。「不十分」という意味は、様々なバイアスという形で主観性に左右されながら意思決定を行っていることは示されていても、客観性が主観性にどう影響されているかという関係性を暴くことに成功していないからである。経済学や統計学に基づいて、客観的にものを考えているつもりの人間が自らの主観の側からどのように影響を受けているのか、そういうことは行動経済学ではわからないのだ。そしてまた、人が行動経済学を使おうとするのはなぜかということも、行動経済学では未だに説明できない。

 究極の「なぜ」に答えるのは、結局は今のところ、思想や哲学、文学の領域しかない。

  資源の獲得を巡る対立が戦争の原因であると考えるのもいい。ここまでならまだ、科学でもある程度は説明がつく。しかしもう一歩進めて、なぜ資源の獲得をめぐって戦争が起こらなければならないのかと問うならば、科学は口を噤んでしまう。資源を獲得しようという欲求を説明する科学的な説明は、今のところ存在しない。ジャレド・ダイアモンドのものした一連の著作は、戦争の原因について科学的な説明を試みている。『銃・病原菌・鉄』や『文明崩壊』、『昨日までの世界』などはこうした基本理念に貫かれて書かれている。しかし、これらの著作に見られるように、人間の争いの原因を地理的条件や資源の分布の偏りに還元しようとするのは無理がある。あるいは控えめにいって十分な説明とはいえない。なぜなら「それではなぜそういう条件の違いによって人間は争うことになるのか」というさらなる「なぜ」には答えられないからだ。

 そして私には気になることがある。私自身も含めて、ある現象の起こった原因を、特定の客観的な条件に還元したくなる欲求はどこから生まれたものなのか。 さらに言えば、そういう欲求とは、煎じ詰めれば何かを主観によって判断することを避けるのが困難だからでしかなく、困難であるということと不可能であることを混同した結果に過ぎないのではないか。科学の茂みに隠れているものは、そういう欲求や混同なのかもしれない。

 

 

 

*1:「主観性」ではなく、「主観性の存在」という表現をしていることに注意してほしい。つまり主観性自体は、外的条件の変化に応じて変わる可能性があるが、主観性が存在するということは変わらないということである。