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代理の思想とエンチャントムーンについて

 「ニーズ」というのは社会の側に承認された要求であり、個人の内側にしか認められていない要求は「ディマンド」でしかないと捉えるならば、理想的には、自分自身によって自分の要求を満たすことのできる能力や機会があたえられていることが望ましいといえる。

 しかし、現実的にはそれはほぼ不可能なので、政府や市場というものを作って、自分ではない誰かに任せ、代わりに満たしてもらうことになった。ここに「代理」というものが、人間の歴史の中で次第に存在感を強め、当然のもの、自明のものとなっていくプロセスの起点を認めることができる。

 私はこの代理ということについて、政治の領域におけるそれについては、すでにいくつかの記事*1を書いてきた。今回は、政治と経済の両方の領域にまたがるが、どちらかといえば経済の領域における代理について書こうと思う。

 自分ではない誰かが、自分という特殊な主体、個別の主体の要求=ディマンドを全て満たしてくれるということはありうるかと言えば、それはありえない。なぜならば、代理する主体が代理される主体に対して、常に少数であるからだ。政府にしても市場にしても、代理する主体としての議員や企業の社員というのは、代理される主体の数に比べるとかなり少ない。そしてまさにその「少ない」ということによって、効率性と実効性が保証されるというのが、代議制に関する政治学と、市場メカニズムに関する経済学の、基本的な前提になっている。少数であることによって初めて機能するようにできているのが、代議制に基礎を置く現代の政府であり、裁定を通じて価値が評価される価格メカニズムに基礎を置く市場である。「少ない」ということが、両者の構造上の前提なのだ。

 それでは、極めて限られた領域であるかもしれないが、コンピュータという道具によって、それを利用する個人が、自らの要求を自らで満足させることは、どの程度まで可能なのだろうか。そういう問題について、例えば現在では、清水亮さんが挑んでいる*2。彼の開発したエンチャントムーンという端末は、自分の要求を自分で処理することを可能にするよう設計されたコンピュータであるという意味で、きわめて画期的だった。他の多くのコンピュータは、未だに市場原理の範疇にとどまり、誰かの要求を別の誰かが代理することで満足させようとする。Appleという一企業が、iPhoneMacbookなどの個別の製品を通じて、消費者の要求の代理に大きく成功しているということは確かなのかもしれないが、本当は自分の要求は自分で満足させられればそれが一番いいに決まっている。

 清水さんはエンチャントムーンについて、「これは売れないでしょうね」と言い切る。それは正しい。なぜならば、エンチャントムーンという端末は、上で述べたような、「代理による効率性」を前提として成り立つ市場原理の前提と、真っ向から対立する思想の上になりたつものであるからだ。自分のしたいことを誰かが代わりにやってくれるからこそ効率的であると当然のように考えている思想体系の内側からでは、エンチャントムーンという端末の意義を正当に評価することはできない。自分のしたいことを自分で実現させることが理想であるという前提に立って、そういう地点から見て初めて、エンチャントムーンは十全に評価されうる。

 それは、経済学や政治学というものが、これまでずっと当然視してきた「代理」というものの正当性についての前提を揺るがすものなのだ。だから革新的なのであって、そしてそれゆえに売れないのだ。

 

そういうことを、「ケアの社会学」について語る上野千鶴子さんの講演の動画*3を見ていて思った。