無根拠的に展開される社会現象の可能性

 社会学や文学の領域も含めて、一般に思想や哲学を論じる人間は、思想や哲学が人間の行動を根本的なところで規定しているものを探り当てるということを前提として、自らの議論を展開していく。

 しかし、思想や哲学などとは無関係な、それらとは全く断絶したところから展開される行動や運動の展開というものは考えられないのだろうか。もしかしたら社会で起こる現象というのは、特定の思想や哲学とは関係なく、それでいて下部構造的な要因に還元されるような要因とも関係なく、全くもって無意味な何かによって実は動いている、そういう無意味性を、現象を展開させる「力」の中心に据えることができないだろうか。断絶された状態というものを、何か特定の脳波のパターンに還元して説明することができれば、話は単純であるが、おそらくはそういうアプローチをするべきではない。

そのように考えたとき、人々が集団としてどう行動するかということを説明する原理として浮上してくるのが、経済物理学やエージェントベースモデルのような、工学的なモデルなのではないか。もっとも、そうした分野のモデルというのは、自然科学の中にすでにあるモデルなり概念なりを当てはめることで説明しようとするものにとどまっていて、原理的な新規性はほとんどないことが多いのが残念ではあるが。

 また、自然科学における概念やモデルからの援用によって、人間の社会の振る舞いをも説明してしまえるという認識の前提には、それはそれでやはり、ある種の人間観が潜んでいるという気もする。それはどういう人間観かといえば、自然と人間との間に連続性を仮定する、あるいは自明のものとする人間観である。だから、その連続性において、物質の振る舞いを説明するための概念やモデルを、人間の集団に適用することにためらいがない。そして、そういう風にしてある程度説明出来てしまえるというところに、むしろ思想の領域との接続、とりわけ思弁的実在論との接続の可能性が潜んでいるのではないか。

 さて、こういう視点は、これまでの私の議論と絡んでくるのだろうか。