ポスト真実を考える前に

 

AbstractなAbstract

 今回の記事は8246字とそれなりに分量があるので、本論へ入る前にこの記事全体の構成を示す。それはアルファベットを使った記号で単純化すると、

D→Q[present]→V(α→β)→P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])→Q'[present]

と表現できる。Dは定義、Qは問題提起、Vは視点を指し、流れを大まかにいえば「ポスト真実」という言葉の定義から始めて私なりに問題提起を行い、それについて2つの視点から考察を行い、それが実は私がこれまでにいくつかの記事を通じて考えてきたことと通じるということを示し、最終的には当初の問題提起を少し修正したところで議論が終わる。もう少し詳細に各記号が何を指すかについては、以下の本論で随時示したので、それを参照しながら議論の細かい流れを追ってほしい。全体を通して私の中にある基本的な考え方は、個人の努力に期待するのは困難であるので、その前にまずは前提条件の方を整えたり改善したりする方が建設的なのではないかということである。個人の努力を軽視するつもりはもちろんないが、現実にそれが十分発揮されているとは思えないのである。

ポスト真実の定義と問題提起:D→Q

 アメリカ大統領やイギリスのEU離脱を巡る国民投票などをきっかけとして、「ポスト真実」(post-truth)ということが盛んに言われるようになった。 かつては「真実が何であるか」ということが問題であり、人々に真実を伝えることが重要であったが、もはや人々は真実が何であるかなど求めておらず、「聞き手にとって嬉しいことであるか(基本的には自分が豊かになれるか)」ということが重要であるというような事態を指す言葉、端的に言って真実が重要であった時代のあと(ポスト)の状況を指す言葉として用いられる。これが定義(Definition:D)である。

 しかし私は、この言葉を使って議論をする前に、まずは人々に真実を伝えることを徹底させる方法を考え、それを実践することを優先するべきではないかと思う。真実を伝えるやり方がよくないだけで、うまく工夫して伝えれば、人々は今でも真実を受け入れるだろうと私は考える。それでもなお人々が真実を拒絶し続けるというのであれば、そこで初めて「ポスト真実」なるものについて考えればいい。

    なるほどネットの登場以降、調べれば大抵のこと(真実)はわかるはずであるのに、それでも実際には人々は真実を無視したような決定、あるいは真実を知っている人間であれば本来は不合理であると考えるはずの決定を下してしまうというのがポスト真実を主張する人間の言い分だろう。しかしそこで前提となっている「真実は調べれば簡単に見つかる」というのはそもそも妥当だろうか。

 ここで、「ポスト真実」について考える前に、より多くの人により多くの情報が届きやすくなる方法の可能性を考えるべきだと私が考える根拠を先に述べておきたい。それは人々が今も本を読み、専門家の話を聞きに行ったり、その動画をYouTubeニコニコ動画などで見たりしている現実が確かにあるということである。もちろんその数は人口全体から見れば一部であるが、それが一部であるのは、そういうことに関心がない者が多いからというよりも、そういうものを求めていても、どこから手をつければいいのかがわからないということが原因なのではないか。これは言ってみれば、勉強しなければいけないのはわかっているが、どの参考書や問題集から手をつければいいのかわからない受験生と同じである。

 もちろんこれは私の主観的な推定に過ぎず、実際には真実を知ることに関心のない人間ばかりである可能性もある。議論の根拠は客観的である方が望ましいという立場からすれば、これはいささか心もとなく、そうかといって国民全員に聞いて回ったり、あるいはそれに代わる客観的な確認の手段を私が持っているわけでもない。けれども反対に、真実など求めていない人間ばかりと客観的に示されたわけでもない。つまり「ポスト真実」を主張する側も、トランプ大統領の勝利やアメリカ国内の市民の様子、あるいはイギリスのEU離脱に関する国民投票における世論などを根拠にしていても、それが「ポスト真実」の証拠であると考えるのはあくまで主観的な推定に過ぎない。

 したがって、ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」と同様のロジック、つまりブラックスワンは存在しないと証明されたわけではないならば、ブラックスワンが存在する可能性を残しておくべきであり、存在する可能性をもとに議論を組み立てることにも一定の価値があるのと同様に、真実を求める人間がいないと決まったわけではないならば、その存在に賭けて議論を組み立てることにも一定の価値があるのではないかということだ。そして少なくとも真実を求めている人間全員にそれが届くまでは、ポスト真実を考えるのは待った方が、長い目でみればプラスなのではないか。これは冒頭で触れたアメリカやイギリス、あるいはフランスやドイツ、そして日本も含めて「ポスト真実」とその潜在性が問題とされている国の全てで言える。市場のアナロジーでいえば、まだ開拓可能な市場は残されているのに、「もうこれ以上は無理」といっていささか尚早にそこから撤退しようとしてはいないか。

 ネット上にアクセス可能な情報が豊富にあるということと、実際に人々がそれを参照しているかということは別であるが、「ググればすぐにわかるのに」と言う人はこの二つを混同してはいないか。この二つを混同しているとそこから先の議論はあまり実のあるものにならないのではないか。ググればすぐにわかるにも関わらず、実際には人々はググらないというときに、真実に関心がないからと考えるか、真実を知るための手間をかけられないだけなのではないかと考えるかでは、そこから先の対応が変わってくる。そして私は、現実に起こっているのはどちらかといえば後者の事態ではないのかと思うのである。つまり人々は真実に関心があるが、単にそれを知るための手間をかけるゆとりがないか、より簡単に真実を知ることができるようなシステムが現時点では存在していないだけではないか、と。もっともこの2つは、同じといえば同じである。これが私の現在の問題提起(Question:Q)Q[present]である。

 もっとも、ポスト真実について語る人間の思いもわからないではない。先に述べた「届きやすくなる仕組み」などもう存在しないということを前提にすれば、その先の事態としてのポスト真実について考えることにも一定の妥当性がある。ただし考える者にとってそんな方法はないように思えるということと、そんな方法が原理的に存在しえない、または現実に存在しないということは別である。そしてたとえ「現実に存在しない」ということの方が示されたとしても、「原理的に存在しない」ということの方が示されたわけではないならば、ポスト真実について語る人間にとってその方法が存在しないと想定されていることを理由に、そういう方法を考えないというのは妥当でない。まだ期待する余地はある。

もっと簡単に真実を知るために:Vα→Vβ

 DからQへ進み、そこから先へ進むことを考える。社会で起こる問題に対して、日々いろいろなメディアから多くの記事が書かれ、それにいろいろな人が反応するが、結論や参照している情報が似たり寄ったりの記事も少なくない。そういう記事がいくら増えても、言葉の厳密な意味で「情報」が増えたとは言えない。誰も指摘しなかったこと、あるいは誰も参照しなかったような情報を参照しなければ、情報は増えない。ある記事やそれに似たり寄ったりの記事が大量に複製されて人々に共有されても、人々がそこからさらに進んで考えるようになるとは限らない。すでに指摘した通り、考えるための「ゆとり」がないのだ。何のことはない、朝から仕事があり、夜遅くではないにしても、帰宅してから政治なり経済なりについて時間をとって考えるのは疲れていて面倒であるということだ。そしてこれに加えて、ゆとりがないために、何かについて真実を知るために自分で考え続けるという経験に乏しい人間は、単に不慣れであるという理由から、自分で考え続けることができないという事情もあるだろう。そこでまずは、より多くの人の頭の中に、より多くの情報を入れるための効率的で実現可能な方法を考えるのがいいのではないかと思う。まずはある視点(Viewpoint:V)を足がかりにして考える。

視点α:情報を発信する側の工夫

 より多くの情報を人々に伝えるために、まずはある問題に関して人々へ発信する情報の量を増やす方法を考える。その具体的な方法として、「他の国ではどうか」ということを紹介する(国際比較)というテクニックがある。「日本では〇〇である一方、アメリカやフランスでは□□、そして中国では△△である」という書き方である。これは時々見かけるし、こうした国際比較を行う記事は少しずつ増えてきていると思う。けれどもまだその数は十分とは思えない。海外の事情について、日本語で知ることのできる情報はまだ限られているので、英語で書かれたソースを参照するというのも有効である。これならけっこう多くの人間がやろうと思えばできる。英語で何かを読むということによって出会えるものということについて、私は以前に記事を書いた。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 そしてフランス語やドイツ語、あるいは中国語や韓国語ともなるとできる人間の数はもっと限られてくる。さらにその内容は、それを担う人間が専門家であることを反映して、自然と専門的な体裁を取りやすくなる。国際比較は個人の努力に期待する方法のひとつと言えるが、一般にこういう方法はハードルが高い。国際比較に限らず、固有名詞や統計や引用などのテクニックを用いた情報量が多い記事が少ないことを考慮すれば、自ら進んで努力をしようという人間は、たとえそれが記者であっても少数派であるというのが今の現実であるとわかる。これが視点α(Vα)とその限界である。そこで別の視点β(Vβ)を考える。

視点β:技術

 そこで、情報を発信するために個人が行う努力に賭ける前に、情報を発信するためにその個人が利用できる技術(テクノロジー)のレベルと上げるという方法も考えられる。ここで個人と言うのは、技術を使うことに長けた人間に限らず、一般的な個人、つまり大衆の中の平均的な個人を想定している。一部のインフォグラフィックスを作ることに長けた人間や、膨大な資料なりデータなりをうまくまとめるアカデミックなトレーニングを積んだ人間などではなく、自分のサイトを作っているわけではないが、TwitterFacebook、あるいはブログで何かを書くくらいはしているというような個人である。たとえば他言語から日本語への翻訳について、Google翻訳の精度が上がれば、状況は改善に向かう可能性はあるが、日本語の文法の特殊性や日本語訳された外国語のデータの量が少ないことなどが原因で、なかなか精度は上がらない。かといってGoogle翻訳の他に方法はないのかというと、今のところ「これは」と思う方法が見当たらない。

 そして、仮に発信のための手続きを簡略化する何らかのテクノロジーが存在したとしても、つまり視点βの問題はクリアしたとしても、人々の元にそれが届きにくいままでは、その効果は限定的である。したがって、届きやすくなるシステムも考えなければならない。上に挙げたような情報発信のための技術よりも、私はむしろこちらの方が問題ではないかと考えている。これが視点βの先にある問題である。結論ありきや予定調和にならぬように注意しなければならないが、この問題はこれまでの私の問題意識と通じると私は考えている。先へ進むために、一旦あえて過去へ戻る。これがβの先、過去に辿ってきた経路(Path:P)である。

これまでの私の問題意識とどう通じるか:P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])

 これまで辿ってきたような筋道を経て、私はポスト真実について考える前に、私がこれまでにいくつかの投稿で考えてきたこと、つまり検索エンジンの抱える問題を考えるということにつながってくる。これは私が過去に辿った経路(P)である。それは私が過去に行ったある問題提起(Q[past])から始まる。つまり、そもそもより多くの人間により多くの情報が届きやすくなるシステムとして生まれたものが検索エンジンではなかったのか。それにも関わらず、検索エンジンが機能不全を起こしているとすれば、ポスト現実について考えるよりも前に考えるべきは、実は検索エンジンのことなのではないかという疑問である。

 検索エンジンが人間との関わりの中で抱える問題について、私が初期の頃に考えていたことは、記憶と思考の関係ということであった。つまり検索エンジンで多くの情報を集めて考えるということと、自分の頭の中にすでに蓄積され整理された情報をもとに考えるということは異なる。それでは検索エンジンはどの程度人間を賢くするかという問題意識である。以下の2つの記事の主題はこのことであった。

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  自分の記憶に蓄積された情報が、ある問題を考えるために十分な量でない場合、まずは多くの情報を集める必要がある。その際に検索エンジンが用いられる。以下では集めた情報を元に考えるということよりも以前の段階、つまり「情報を集める」という段階について、私がこれまでに考えてきたいくつかの視点を取り上げる。これらは上の2つの記事で扱われている問題の前段階(Preliminary Stage:PS)について考えるための視点(Viewpoint:V)と位置付けられる。視点は5つあり、それらを経由して、当初の問題提起Q[present]はいくらか書き換えられる。それがQ'[present]であり、この記事の終着点ということになる。

視点1 時系列に沿って考えるということ(通時性)

 検索エンジンの抱える問題として、ある特定の問題について時系列に沿って情報を得ることが容易でないということを、 以下の記事で書いた。検索エンジンには期間指定の機能があるが、それはあるページが書かれた期間、あるいはそれが更新された期間を指定することであって、必ずしも特定の問題に関する議論を時系列に沿って理解するのに向いているとは限らない。そして特定の問題について時系列に沿って考える場合に、その国や他の国あるいは地域で過去に似たような事態が生じた例はなかったのか、もしそういう例がある場合、そのときはどういう風に事態は進み、当時の人々はどういう対応をとったのか。そしてその対応はうまくいったと評価できるのか、今起こっている事態と条件が異なる点はないのかなどということを考えることもできる。これは通時性に対する意識であって、歴史についてどれほどまともに考えたことがあるかという個人の経験に依存する意識であるかもしれない。

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視点2 ある程度の時間をかけて情報を集めて考えるということ

 あるいは、ある問題について考える場合に、そもそも時系列に沿って考える以前に、一定の時間の幅をもって考えるということがなされないという問題もある。個々の問題について、その瞬間その瞬間の反応ばかりが蓄積されていって、後からまとめて振り返るということがなく、時間が経てばすぐに忘れられていく。事実なり解決策が見えたあとで忘れられていくならばまだしも、そういうものが明らかになる前に多くの人が飽きてしまう。しかも飽きる原因を作っているのは、同じような報道を延々と繰り返すメディアであったりする。情報は、常に短期で評価されるべきものとは限らない。一定の時間をかけて評価が可能になる情報もある。そういうことについて、以下の記事で論じた。

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視点3 ランキングの生み出す食い違い

  あるいは検索エンジンが行うランキングについて、客観的なルールで記述されたランキングと、自分個人の主観的なランキングとが食い違う場合がある。これがどう問題なのかと言うと、例えばA、B、Cという3つの情報があり、ある個人が時間の制約で3つのうち1つか2つしか参照しないとする。ここで今のGoogleのランキングのルールではBACの順にランクづけされたとすると、この個人は情報Cは参照しない。しかし可能性としては、実は情報Cこそが、この個人が求めていた情報であるということがありうる。この個人の主観では、CABというのが3つの情報のランキングであるというような場合である。この「食い違い」の問題について以前に記事を書いた。

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視点4 そもそも検索エンジン以外の方法はないのか

 ここまでの3つは検索エンジンが問題であるという前提で考えてきたが、そもそも検索エンジンのしくみについての形式的の記述をチューニングする(要するに検索エンジンを支えるプログラムの問題)以外の方法はないのかということも考えられる。キュレーションやSNSRSSフィードなどを形式的に記述したルールを変更・修正するという方向性はどうかということも、以前に考えた。

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視点5 すでに存在している情報の単位が適正なのか

 現在、インターネットには様々なページが存在しているが、そもそもある問題について理解するために、「ページ」という単位は適正なのかという問題もある。「答え」(真実や解決法)を知ることが目的なのであれば、文章中の特定の一文や段落といったページよりも小さな単位、あるいは逆に複数のページが集積されたサイト全体や複数のサイトの複数のページといったページよりも大きな単位を基準に考える方が妥当である場合もある。別の言い方をすれば、あるページの中の特定の部分だけを抜き出した方がいい場合や、特定のページだけでは不十分なので複数のページをうまく組み合わせなければならない場合などについて、ケースバイケースで判断しているのは、今の時点では人間であるが、そういう判断を大衆の努力に委ねてもゆとりがないなら実現は困難なのではないかと私には思える。だから人間に代わって、なるべく恣意性を排した形(誰の目にも明らかな偏りを含まないような形)でその判断を自動的に行えるシステムを作るということができないか。そういうことについて以下の記事では考えた。

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結論:Q→(Vα→...→V5)→Q'

 ポスト真実について考えるよりも前に、考えるべきこと、考える余地のあることがまだいくつもあり、しかもそれらは長期的に見てポスト真実について考えるよりも人類全体にとって資する。これはポスト真実などスルーして、デマやフェイクニュースの削除を効率化しようとし続けているGoogleFacebookとも共通した問題意識なのではないかと私は考えている。彼らもまたそういう意識で考え、動いているのではないか、と。 これが当初の問題提起(Q)を一定の順序で修正した問題意識(Q')である。ポスト真実、フェイクニュース、キュレーション、デマ、集団思考などの言葉が雑然と織り交ぜられて議論が展開されている状況について、一定の整理された見解を与えることができれば幸いである。