RSSでもキュレーションでもGoogleでもSNSでもなく、欲しい情報をどうやって得るのか

 高校生の頃、ジャパハリネットというバンドの「物憂げ世情」*1という曲が体育大会で使われた。ふとしたきっかけで久しぶりに聴きたくなって、YouTubeで探して聴いていると、歌詞のある部分が気になった。

溢れすぎる情報と毎日飛び交う電波の中

良くも悪くも上っ面な虚像に騙されては

まだ見ぬ明日を夢見ていた

 

 この部分の、特に「溢れすぎる情報」という部分に引っかかった。別に特別変わった表現ということでもない。むしろ聞き飽きたような表現とすらいえる。それでもこの言葉が気になったのは、ちょうど今、イーライ・パリサーの『フィルターバブル』(『閉じこもるインターネット』から改題)を読んでいることや、機械学習を身につけようとしていることも影響しているのだろうと自己分析している。

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

 

  こんなことは今更だが、確かに情報は溢れている。しかし自分の欲しい情報が簡単に手に入るかというと、意外とそうでもない。RSS(フィード購読)やニュースキュレーション、SNSなど、プログラムで大量の情報を処理して表示してくれるサービスはかなり普及しているにもかかわらず、である。なるほどネット上に色々な人間が書き込みをするようになればなるほど、自分の欲しい情報を発見できる確率は上がるかもしれない。10人しか投稿していない掲示板よりも、100人以上が投稿している掲示板の方が、自分の目当ての情報が見つかるはずだと考えるのは、ある意味では妥当だ。だからどんどんネットユーザーの投稿が増えていったら、あとはそこから目当ての情報をうまく見つけ出す方法さえ作り出せればよいと素朴に思う。しかしそううまくはいってない。人々が多様なソースから情報を得るのは時間の制約があって難しく、いくらキュレーションでコンテンツのソースを多様化するサービスが出てこようとも、そもそも1日に読む記事の数に限りがあるとしたらどうしたって限界がある。

 RSSは「最新の情報」は伝えてくれるけれども、「欲しい情報」を伝えてくれるわけではない。欲しい情報というのは、必ずしも最新の情報の中にあるとは限らず、古い情報の中に眠っているということもある。そういう場合、RSSという仕組みでは必然的に欲しい情報は新しい情報の登場によって流されて見えなくなってしまう。5月10日に書かれた記事が重要な事実を指摘していたとしても、それはRSSでは5月11日には表示されなくなってしまう。RSSにはそういう側面もある。

 では新しいか古いかによらずに「欲しい情報」を手軽に見つけることはできないかと考える。最近はキュレーションを利用したニュースアプリやサイトが増えた。しかしそれらは「ニュース」、つまり「最新の情報」の中からキュレーションを行っているので、情報の選び方の本質はRSSと重なる。新しいものの中から、あなたが欲しそうな情報をなるべく高い精度で探してきますよ、という考え方だ。

 古いもののも含めて、「欲しい情報」を見つけることのできるサービスと言われると、今のところはGoogleなどの検索エンジンしか思いつかない。けれども、自分が本当に欲しい情報について、前もって知識を持っていることは少なく、その一方で検索するときには、「スリジャヤワルダナプラコッテ」のように「固有名詞」を知っていることが求められる。Googleで何かを検索するとき、品詞に注意してみると、検索語のほとんどは「名詞」である。しかし自分の「欲しい」という感情は名詞ではなくむしろ形容詞で、感情に紐づけられた情報というのは、名詞ではなく、「面白い!」とか「意外!」とか「驚いた!」というような「形容詞」で評価されているのではないか。そう考えると、形容詞も検索語として有効に使えるような検索エンジンこそが望ましいのではないかという風に考えが進んでくる。

 検索エンジンは今も、「物知り」に有利なサービスだ。物知りというのはもちろん、「名詞の物知り」だ。自分が欲しい情報を探すときに、手掛かりになるような名詞を頭の中からすぐに引き出せる人間、それもいくつもの名詞を引き出せるような人間がGppgleには向いているのではないかとさえ思えてくる。無知な人間は、そもそも検索ボックスになんと打ち込めばいいのかさえわからないままになってしまいがちだ。そして特に見たいわけでもなかったおもしろ動画をYouTubeで見始めたり、聴きたいわけでもなかった音楽をSoundCloudで聞き出したりするのだ。

 Facebookでつながっている人に聞いたり、Twitterでフォローしている著名人の投稿をチェックしたりするのも手だろうけれども、そこには「待ち」とか「受け身」の姿勢しかない。自分から積極的に、能動的に情報を取りに行くということができない分、どうしても制約がある。主導権は相手にあるままで、自分でコントロールすることができない。

 辛抱強く待っていれば、Googleは世界中の情報を整理してくれるはずだから、今よりももっとずっと精度の高い検索エンジンが利用できるようになる日もやってくるだろう。………そう、東京オリンピックくらいまでには?

 私は今、日本の首都、東京に住んでいる。地元の福岡を離れて東京に出てきたそもそもの動機は、地元が退屈で、東京には面白いことがたくさんあって、どんどん変化が起こって、色々な人が集まっていて楽しめそうだと思ったからだった。

 しかし現実はといえば、別にそういうわけでもない。私の交際範囲がきわめて限られているせいもある。一時期はFacebookの友達が1ヶ月の間に100人以上増えるということが数ヶ月にわたって続いたこともあった。その頃はピークで、私の友達の人数は800人を超えたけれども、集まる情報にこれといって変化はなく、あっちで見た情報がこっちで今頃になってシェアされている、とか、これって一年以上前に自分のニュースアプリで見た記事じゃないか、という記事が別の友達の投稿で「天啓」のように崇められているのを目にしたりした。

 やがて現実にはちっともやりとりをしない友達ばかりだということに気が付いて、私はFacebook上の友達を200人とちょっとまで削った。次から次へと友達を切っていった後に、特に後悔することはなかった。

 話が少しそれてしまった。自分の欲しい情報を人間関係を利用して得るということを SNSを通じてやろうとしてもうまくはいかない。大抵はどこかの大手のサイトの記事でしかなく、そうでなければ誰かの趣味の延長で、それは自分にとって特段欲しい情報というわけでもないというような、そういうことがほとんどだ。なにより、情報を手にいれる主導権は自分にはなく、あくまでも個々のサービスの裏側で動いているプログラムが選択を行っているに過ぎず、自分がそのプログラムに対して何らかのフィードバックを返すことはできても、それを変更することはできない。

 もしかしたら、まだスポットライトが当たっていない方法があるのではないか。どうもそんな気がしてきた。次々出てくる新しい、かっこよさ気な単語の群れに流されず、スタート地点まで戻って「欲しい情報を手に入れるにはどういう方法があるか」という問題に向き合ってみようと思う。

 

【参考文献】

 『フィルターバブル』と似たような本として、『勝手に選別される世界』がある。こちらはまだ読んでいないが、ざっと目を通した感じでは、私たちの日常生活や人生の重要な進路などがGoogleFacebookなどの一部の巨大企業のコンピュータ・プログラム(アルゴリズム)によって左右されるようになっていくことに対する警鐘を鳴らすという論調で、抽象論一辺倒ではなく固有名詞もほどよく使われていて面白そうだ。

勝手に選別される世界

勝手に選別される世界