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Googleに代わるもの

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   いつもの様に通勤途中の電車の中で本を読んでいた。今回はジェフ・スティベル『ブレークポイント ウェブは過成長により内部崩壊する』(角川EPUB選書)

 

ブレークポイント ウェブは過成長により内部崩壊する (EPUB選書)

ブレークポイント ウェブは過成長により内部崩壊する (EPUB選書)

 

 

あなたのために特別に

「第6章 チーフ 検索 文脈」の中で、検索エンジンが今度どんな方向へ進んでいきそうなのかが書かれている。検索において「コンテクスト(文脈)」「パーソナライズ(個人化)」がカギになるだろう、と。

 

何かを調べるために検索ボックスに単語を打ち込むとき、検索エンジンにとって重要なのは、打ち込まれた単語だけとは限らない。検索のとき、人は無意識のうちに、自分がどんな人間か、どういう状況に置かれているのか、といった「コンテクスト」に関する情報を所与のものとして省いてしまう。

 

例えば、上の本で紹介されているのはジャガーという単語を打ち込む個人で、その人が、車好きである、という「文脈」についての情報があれば、検索エンジンは高級車の情報を提示するのが望ましく、もしその人が、ネコ科の動物の専門家である、という情報があれば、動物のジャガー(もちろんネコ科)の情報を検索結果として提示すればいい、ということになるだろう。「コンテクスト」が重要とは例えばそんなことである。

 

ここでこの例について、話を複雑にしていくことで、問題を掘り下げていくのも面白そうなのだが、この記事の本旨から外れるのであきらめる。だから「じゃあもし検索する人が車が好きな、ネコ科の動物の専門家だったら?」という疑問は保留にする。

 

そして「コンテクスト」に付随して、検索結果はその人の要望に対してますます「パーソナライズ」されたものになっていく。同じ単語を検索ボックスに打ち込んでも、二人の異なる人間の検索結果の内容は、互いに異なったものになる。

 

 

「検索結果の個人化」という問題については少し前の本になるがイーライ・パリサー『閉じこもるインターネットーーグーグル・パーソナライズ・民主主義』(早川書房でも指摘されていた。 

 

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

 

言葉の使い方にうるさいだけ?それとも…

スティベルの著書の方に戻ろう。さきほどの第6章では、「調べる(search)」という行為について、検索技術の発展の当初は

検索G:「調べる=検索ボックスに調べたい単語を打ち込む」(いわば「Google的な検索」)

だったけれども、次第にそれは変化し、

検索S:「調べる=Siriに聞く」(「Siri的な検索」)

検索F:「調べる=SNS上でつながった知人・友人に質問する」(「Facebook的な検索」)

などの行動パターンも出てきた、ということが指摘されている。

 

ここから思考がスタート。

つまり「調べる」という行為は、「食べる」や「泳ぐ」という様な、「行為の中身が変わらず、誰でも同じ」というタイプの動詞とは異なり、「人や状況によって変わる行為」によって実現するものだ、というようにまず言っておくことができる。

「検索ボックスに調べたい単語を打ち込む」という行為によって「調べる」のであり、

「Siriに聞く(いわば「Siri的な検索」)」という行為によって調べる、という様に。

 

それではこうした、「『調べる』という行為の媒介」になりうる行為には、他にどんなものがあり得るのだろう。それをあれこれ考えていけば、「検索ボックスに単語を打ち込む」パラダイムは崩れるだろうか。いや、これはSNS(特にFacebook)の登場で既にある程度崩れてきている。

 

自分の場合も、Google的に調べること(検索G)は、最近はほとんどない。

 

グノシーで紹介された記事を受け取って読み、それぞれのサイトが提示した関連記事を直観にしたがって読むかどうか判断し、読んだり読まなかったりする。ではグノシーで、自分が関心のある領域を事前に登録しておいて、それをもとに記事をキュレーションしてもらうよう、グノシーという「アプリ」に任せるということは、「調べる」という行為と実質的には同じだろうか。どうも変わらないという気がしてくる。こちらは「検索G’」というところか。

 

或いは捉え方を変えてみる。つまり「『求めていること(或いは「答え」)』を知ることができるなら、そのためにとる行為はなんでもいい。それが『調べる』である必要さえ、ない。」と。

 

或いは別の仕方で捉え方を変えてみる。つまり「人間が調べるのと、コンピュータが調べるのでは、どちらの方が平均的に最良の解を得られるものなのか?」と。

 

遠足は準備の時点でもう始まっている

 これは以前にある友人のイベントに参加したときにも、その参加者の1人と話したことのあるテーマだ。人が何かを検索するというとき、答えを得るためにどんな単語を使うべきか決めているのは、基本的には利用者(つまり人間)の側だが、コンピュータがその部分も考えられるとしたら、彼らにそのプロセスも委ねた方が得策だろうか。

 

 なにかある問題について調べたい場合、その人の頭の中でなされた「定義」によって検索が実行されることになる。例えば「効果的なダイエット方法」について調べたい場合、検索者の側が既に持っている知識を前提として、問題が定義され、検索が行われるから、「りんご ダイエット」や「運動 続けられる」のようになるか、それとも「ブドウ糖 分解 原理」や「脂肪 生成 しくみ」のようになるかは、Googleの検索アルゴリズムの精度とは独立した問題になる。更に検索者の側が検索エンジンとしてGoogleを使うか、Google Scholor(論文用のGoogle検索エンジン)を使うかも、利用者の側の問題だ。

 

もう少し別の例でも考えてみる。たとえばこの記事のテーマである検索エンジンについて調べる場合、検索ボックスに「検索エンジン 未来」と打ち込むか「半構造データ 研究」と打ち込むかは、その人のもつ知識や理解のレベルによって変わる。そして前者から後者へ、ネットの検索だけで変わることは難しい。「検索エンジン 未来」という検索のしかたで、半構造データをどううまく扱うかについての記事はなかなか見つからないだろう。本人もおそらく気に留めない。

 

検索の問題の一部は、ネット側の知識の量ではなく、こちら側の知識の量の問題だ

 

でももし、その「定義」の方もコンピュータが代替可能だったらどうなるだろう。インターネットによって世界中の知識にアクセス可能であり、ある種の計算に関しては人間よりも速い彼らが、利用者である人間自身よりも正確に問題を定義できる可能性は、どれくらいか。

 

だから検索においては、検索するよりも前に、それは始まっている、という言い方ができる。これは現在の水準で「検索」という行為を捉えた場合の見方だ。

 

「調べる」とは何だろう。これは情報処理の根幹に関わる問いである点で、人間の側だけの問題でなく、コンピュータの側の問いでもある。

 

「調べること」の目的は、人間が抱える何らかの問題に対して、解決策そのもの、もしそれが見つかりそうにない場合には、せめてその糸口をつかむ、ということにある。それは人間が、「問題を解決したい」という欲求を持っていることを前提とするのだろうか。確かにそもそもそういう欲求がないというときには、人はいちいち何かを調べたりなどしない。図書館に行ったり、誰かに聞いたり、スマホをおもむろに取り出して検索の画面を開き、指を動かしたりしない。

 

おかげさま、の意味

「問題を解決したい」という欲求、とあっさり書いた。調べることによってそれを成し遂げようとする場合、必然的に、その人は自分だけの力で解決することを諦め、他人の力を借りることになる。だからある種の人々にとって、「調べる」ということは「敗北宣言」とすら言えるかもしれない。自分だけの力で、自分の経験だけをもとに、問題を解決したい、そんなタイプの人々にとっては。

 

「人間は社会的な動物である」、というアリストテレスの言葉(『政治学』第1巻の冒頭部分に出てくる)は、もはや人口に膾炙しすぎて、解釈が多様化しすぎてしまっている感が否めない。なにしろ「人間はポリス的動物である」というのがもともとの表現なのだから、「ポリス的動物(ζῷον πολιτικόν (zoon politikon)「社会的動物」と言い換えている時点ですでに解釈のフィルターがさっそく1枚かかっている。ここでもこの言葉を使って、話を先へ進めるべく、ものを考えようというわけだ。

 

 人間が社会的な動物である以上、少なからぬ人が、自分よりも能力が高いことが明らかな他者に、遅かれ早かれ遭遇することになる。それは、大抵は自分の親、学校の先生・上級生など、年上の人間で、遭遇するのは生まれて数年以内というところだろうけれど、相手が同い年であったり、ずいぶん歳をとってからということも、もちろんありうる。

 

そうした他者との遭遇が、身を裂かれるような挫折感につながることもあれば、とめどない競争心の発露、他者への敬意の初めて引かれた引き金などにつながることもあるだろう。

・・・思うに教育のひとつの意義も、この最後の「引き金」というのをどう実感してもらうか、ということと深く関わっている。まあその辺はまたの機会に。笑

 

そして遭遇した人は、その経験から、自分だけでなく、他者の力を借りるということを知ることになる。学校というものが重要で不可欠な理由もそこにある。思い切ったことを言えば、「この人は自分よりできる」と本能的に感じるような他者がいなければ、学校は成立しない。それはただの人の集まりに過ぎなくなってしまう。

 

学校で授業を受ける。これは自分が解決したいと思う問題に対処するための行為だろうか。いや、そうは思えない。授業とは「業を授ける」のであって、「相談」とはやはり異なる。授業の後で、そこで学んだことが、自分の抱える何らかの問題を解決するための、何らかの支えになる、ということはあるかもしれないが、授業の前に、解決したい問題を抱えていたとしても、それがまさに授業で扱われ、見事解決されてスッキリ…ということは、よっぽどラッキーでない限りは、ない。

 

図書館はどうか。1人で図書館にやってきて、誰ともしゃべらず自分で調べ、自分で考えているつもりでも、本を開いたその瞬間から、他者と無縁ではいられない。「自分が知っていて、生きている人」だけが他者ではない、ということも思い知らされる。そしてそういう他者に頼ることも可能なのだと。そのことは、問題が解決される可能性を大きく広げる。周りにいる人に相談して解決する、という経路が行き止まりになっても、文字を通して、解決に至るという別の経路が発生する。この辺りは「ウェブ」という概念とも深く結びつく。そして、検索エンジンとも。

 

人間が、個人の問題にせよ、集団の問題にせよ、それを解決しようとする営みの系列に、学校や図書館の存在が位置づけられる。これらは、様々な地域で生み出され、今日までずっと続いてきたやりかたでもあるし、これからも大筋では残る営みだろう。

 

ドラえもんで見た22世紀の風景と人々

ただ、「調べる」という行為が、人間の手を離れてしまうときがきたら、どうだろう。「彼ら」に任せた方がうまくやってくれる、よし「彼ら」に任せよう、そして我々は外へ出て、無邪気に跳ね回ったり、転げ回ったりしよう、ということになったら、どうだろう。

 

自由意思の問題はどこへやら、それは前世紀(或いは「XX年前」?)にケリがついた問題で、確かに人間には意思と呼べるものは存在しないとしても、私たちはやはりビールを飲みながら野球観戦して楽しめる以上、ドライに割り切っていこうじゃないか、というスタンスで人々が生きるようになるときが、くるのだろうか。

 

Googleに代わるものは、「調べる」ということを再定義するものだろう。それも、人間がまだしたことのない、しかしそれでいて、人間がそれを採用せずにはいられない、そんなやりかたで。