ある者は乗り越え、ある者は受け継ぐものについて
パリでテロが起こった。これについて書こうと思う。現時点での事件の概要は以下に引用する通りである。
フランスのパリで11月13日夜(日本時間14日早朝)、中心部のコンサートホールや北部のサッカー場などを標的とした同時多発テロ事件が起きた。死者は120人以上とみられる。過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出した。(朝日新聞デジタル11月15日8:47時点の記事*1より引用)
事件当初は被害者の人数や犯行現場の地図などのツイートが多かったが、翌日になってIS(イスラム国)が犯行声明を公表し、犯行が彼らによるものであることが明らかになった。現在も世界から追悼の意を表すツイートが次々と生まれている。追悼を表すのにハッシュタグ(#)「#PrayforParis」が生まれている。このPrayforParisについては、ハフィントンポストのUK版のアカウントでこんなツイートがあった。
#PrayForParis hashtag prompts poignant cartoon "We don't need more religion" https://t.co/ogQPq8tOfN pic.twitter.com/LOuG4XxFHK
— HuffPost UK (@HuffPostUK) 2015, 11月 14
ハッシュタグといえば、事件当初もパリ市民たちはハッシュタグで救いを求めた。ソーシャルメディアについて、個人的にあまり快く思えなくなっていた最近の私にとって、誰かを助けるためにソーシャルメディアというテクノロジーが使われたこの例は、とても印象的に思われた。
テクノロジーが人間のポジティブな想像力を刺激する珍しい例。
テロの夜、パリ市民はハッシュタグで救いの手を求め、差し伸べる https://t.co/dLXlSd1BZO @wired_jpさんから
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 11月 14
さてISが出した犯行声明はアラビア語版やフランス語版、英語版やロシア語版など、複数の言語で発表されており、世界中へ向けたメッセージとして伝えようとする彼らの意志が読み取れる。アジアプレスネットワークのサイトで日本語訳が見られる。*2。ここにロシア語が入っているところに彼らの考えが少し透けて見えるようなところがある。つまり、少なくとも彼らにとって、ロシアという国は「アメリカ」という共通の敵を抱える存在として認識されているのだろう。仮にその共同性が彼らによる一方的なものでしかないとしても。
この声明の中で「十字軍」という言葉が出てくる。日本人にとって「十字軍」という言葉は、世界史の教科書の中くらいでしか目にしないものかもしれないが、彼らにとっては、いわゆる中世の十字軍以上の意味をもつ言葉として使われている。それは以前、彼らが後藤さんや湯川さんを人質にとり、殺害した事件の際に、彼らの機関紙ダビーク(DABIQ)で公表した声明*3の中にも「十字軍」という言葉が登場することと無縁ではない。日本人殺害に関して彼らがそこで発表したことをもとにすれば、「十字軍」とはイスラム教徒の住む国々を相手として戦闘を行う軍隊を指す言葉であると読み取れる。ここで「軍隊」と書いたが、これは特定の国の軍隊とは限らない。或いはこの軍隊を支援する国もまた、十字軍に連なるものとして、同罪であると彼らは断ずる。そういう捉え方の上になされたのが日本人人質殺害事件だった。
パリの人々が一枚岩であるとは決して思わないが、彼ら・彼女らの心境は「どうして私たちがイスラム国の標的にされなければならないのか」というところではないだろうかと私は察している。そういう心境の中から出てきたのが、Instagramで158000件を超える「いいね!」がついたジョアン・スファル氏(漫画家、映画監督)による次の言葉ではないだろうか。
Friends from the whole world,
Thank you for #PrayforParis,
But we don't need more
Religion! Our faith goes
To Music! Kisses! Life!
Champaigne and Joy!
#ParisIsAboutLife
(訳:世界中の友たちよ
#PrayforParisをありがとう
しかし私たちにはもう宗教はこれ以上要らない
私たちの信ずるものは音楽やキスや人生だ!シャンパンであり、喜びだ!
#ParisIsAboutLife(パリは人生だ))
ここには宗教(キリスト教やイスラム教)を乗り越え、文化や愛や感情や人生そのものといった他のものに自分たちの"faith"(信じるもの)を見出そうとする意志が読み取れる。宗教を乗り越えるということは、それを前提としたキリスト教圏とイスラム圏の対立関係もまた乗り越えようとすることだと思う。そして宗教の違いを乗り越えるということは、それが刻まれた歴史を乗り越えるというところにまで進むのではないか。
こうした「乗り越えるべきものとしての歴史」という歴史観と対局をなすのが、ISによる「十字軍」という言葉の用法であり、彼らの理念なのではないか。つまり歴史は乗り越えられたものではなく、未だに連続している、或いは引きずられているものだと。アメリカやフランスや、或いは日本が標的とされる根拠にあるのは、自らを脅かす「十字軍」の存在である。彼らは過去を受け継ぐ。それを端的に示すのが、彼らの声明にコーランの一節が頻繁に引用されているという事実ではないか。
ある者にとっては乗り越えられるもの、或いは断絶させるものとしての過去、或いは歴史というものが、別のある者にとっては受け継ぐべきもの、断然されることはなく、連続したものとして捉えられている。だから歴史を乗り越えようとする者の側から語られるとき、他方の者たちは「自らの足を引っ張る者」として語られるのかもしれない。ISによるテロ行為に賛同する気はないが、ISをめぐる言説の多くには違和感を覚える。というのも、今回のテロについての言説の中では、こうした歴史観の違いと、足を引っ張る存在としてのIS或いはイスラム圏という位置付けというのが隠蔽されたままテロを非難するものばかりに見えるためだ。彼らがなぜこうしたテロ行為を実行したのか、その背景について思いを巡らすことはなく、また、今回のテロ事件よりも前からずっと続いているアメリカやフランスやロシアを中心とする有志連合による空爆に目を向けることはなく、パリの人々にだけ追悼を捧げている。パリの人々へ追悼の意を捧げることはそれ自体として尊いことだと私も思う。しかしその先に、有志連合が必然のように連なっているのだとしたら、それには違和感を感じざるをえない。私にとっては、こうした反応は問題への向き合い方としてあまりにバランスが欠けていると感じざるを得ない。
歴史に正解があるとしても、歴史についての観念に正解はない。歴史は特に近年、科学による裏付けによって従来の学説が覆される例が増えてきた。そしてそれに伴って、科学によって明らかになる歴史というイメージが広がってきている。つまり科学が歴史の真実を明らかにするのだと。しかしある事実としての歴史があって、それをどう受け止めるかは、人によって、或いは集団によって差異がある。そしてこうした歴史観の差異というのは、歴史が繰り返される原因なのだろうか。
最後にツイートを一つ。
改めて感じたけど、科学というのは事実を明らかにするものであって、その事実に対する人間の解釈は自由だと考えるべきなんだろう。
「科学的」とか「客観的」という言葉の中に、「解釈は一通り」というニュアンスが込められているように感じるときがあって、そういう混同には注意すべきなんだろう。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 11月 15