文章を書くことと社会との関わり

 多くの人がブログやSNSという形で、インターネットを日常に不可欠のものとして使うようになって以降、ものを書く人が増えた。かつてはパブリックな場で見ることのなかった周縁の、或いは末端の「声なき声」は、日常的に可視化され、記録に残るようになった。その記録はビッグデータ人工知能の領域の発展のための素材として活用されてもいる。いい意味でも悪い意味でも、「こういう人々がこれほどの数社会の中に存在していて、これまでこの社会を支えてきたのか」ということが、ネット上の書き込みを通して見えるようにもなってきた。これまでは「文章」というと、誰か筆の立つ専門家が書いたもの、或いは記者が書いたものというイメージで観念され、大衆といえばそれを読まされるという受動的な立場だったが、大衆は今や日常的に自分の文章を書いてインターネットで公開するようになった。

 オルテガやデューイなど、初期の大衆社会論においては、「大衆」とは一方的に読まされる側の存在であり、読んだことに対する声は相手に届くことも、パブリックになることもなかった。「読ませるー読まされる」という関係を通して、知識人と大衆は対極に位置付けられ、「知識人に対する大衆」という図式が生まれてくる。このような意味で、大衆は受動的な存在とされた。そしてその受動性から派生するようにして、大衆の知的頽廃や社会に及ぼす害悪などが指摘され、大衆による支配を否定的に評価するもの、或いはそうした論評との対立関係を通して、大衆へ希望を見出そうとするものが言論空間のある部分を占めるようになった。例えば戦後日本の言論空間では、「愚かなる大衆を知識人が啓蒙する」というような否定的図式か、或いは「日々の生活を淡々とこなす、そういう大衆こそが戦後を特徴付けると同時に民主主義の基盤でもある」とする肯定的図式とが対立的に捉えられた。大衆はどちらの側に立つとしても、自らが声を上げることはほとんどなく、またその手段も知られていなかったし、デモや抗議行動という形で展開された大衆の声を示す運動の数々は、終わってみれば冷ややかに、或いは否定的に評価されることが多く、大衆はどのように声を上げるのかわからない、いわば生まれた直後の赤子のごとき存在であった。

 

 インターネットというテクノロジーの登場によって、ものを買ったり移動したり、何かを予約したり、投票したり、いろいろな情報をそこに保存するようになったり、読むものが変わったり、或いはその分量が変わったりと、人々の行動はいろいろな面で変化を被ったけれども、ことに文章と社会との関わりがインターネット以前と以後で大きく変わったように思う。名もない個人の文章、或いはTwitterのツイートなどの短い一文、ひとことが政治家や企業の存続を決定するという現象も頻繁に起こるようになり、タイミングはランダムで、どこから生じるかもわからない、テロのような脅威を政治家や企業に与えているとも言えるかもしれない。社会の一部の人間、学者や政治家や新聞記者などの書いたことだけが力をもった時代は終わりを告げ、文章は能力に応じて大衆へ開かれ、権力の分散化が進んでいる。

 鶴見俊輔はかつて、国家の記憶でなく、人民の記憶を知ることこそが歴史学の生きた課題であると語った。国家の記憶は記録に残っていて、年表をみればいつ何があったかという形で簡単に確認することができる。しかしそこに暮らす人民が、ある事件なり現象をどのように記憶しているか、そしてそれにどのように向き合い、これから起こることにどのように生かそうとしているのか、端的に言ってある個人の生きかたに対する構え、基本姿勢を決める記憶が広く共有されることは難しかった。岡山県に住むとある農家の一人息子が、異常気象について感じていることが、同じく異常気象について思い巡らす宮城県介護福祉士のもとに伝わることなど、考えられなかった。そこには共通の場が存在しないからだ。インターネットには、遠く離れた個人同士をつなぐ「ネットワーク」という側面だけでなく、人々にとってのある種の「場」という側面もある。場と書いたが、最近の言葉でいえば「プラットフォーム」と言ってもいいだろう。

   「既に社会に広く浸透している」と思われがちなインターネットは、これから本格的に、その本来のポテンシャルに見合う形で発展を続け、日常で誰かと会話をするのと同じくらいの気軽さで、個人が文章を書いて自分を表現することが増えていくのではないか。今でもそういうところはなくはないが、まだまとまった分量の、或いは文でなく文章と呼べるボリュームを投稿する人の数は限られている。それでも文章の数は以前に比べ確実に増えている。こういう人の数が変化するかどうかは、テクノロジーの進歩ではなく、あくまでも人間の側の意識がどう変わるかということによるだろう。それでは何が人間の意識を変えるのか。新たなテクノロジーの登場によってか、既存のテクノロジーの新たな使い方が提示されることによってか、それとも文化や政治や経済の変化によってか…。どれもあるのだろう。それでもなお、テクノロジーの変化に応じて、「社会の中心的な位置にいるとされる人物とは異なる、周縁の、小さなものたち、名もなき個人たちがそれぞれに文章を書く」ということが、社会に対してどのような影響をもたらすかは変わってきているということは確かだ。私はこれを万葉集の影響力になぞらえる。