指の皺と私のこころ
湯船にずっと浸かっていると、指に皺ができてくる。その皺をぼんやりと見ていると、二つのことを考えさせられた。
一つは、自分の脳ではなく、生体全体の側から見たら、自分の悩みや喜びなどの精神的な問題と、今まさに刻まれつつある指の皺と、どっちが本質的・優先的なものと捉えられているのだろう。「捉えられて」という表現をあっさりと使ったが、これはもちろん比喩であって、生体全般からすると、脳が何かを捉えるというのとは違ったしかたで、何かを捉え、それについて反応しているはずであることに注意が必要だ。
もしかしたら私のどんな悩みや悲しみや喜びも、自分の生体からしたら実は瑣末な問題に過ぎず、むしろ指に刻まれた皺の方が具体的な身体という場で起こるために、重要な扱いを受けているというようなことがありうるのではないかということふと思ったのだ。私が頭の中でああでもない、こうでもないと悶々としている最中に、そんなことはどこ吹く風とばかりに、私の体内ではタンパク質たちがそれぞれ各所で反応し合っている。
もう一つは、その指の皺が時間が経つにつれて次第に消えて元の状態に戻っていくとき、その復元作用というのは、民族や歴史やイデオロギーを超えた実体としてそこにあるということ。カントのいう「物自体」(独: Ding an sich、英: thing-in-itself)というのはこういうことを指していたのかもしれない。そして、そういう超自然的なものからの制約を受けない、身体の身体性に、ある種の恍惚を覚えたということも記しておこうと思う。私の手の上で、目に見える形で進む、皺の発生とその消滅とは、超自然的なあれこれと関わっているだろうか。そういう可能性もある。
そして、指の皺とはまた別に、あることを考えさせられた。それは、私が風呂に入っているとき、或いはより正確に言えば水の中に身を置いているとき、かつて私の遠い先祖が、ヒトという種に分化するよりもさらに以前に、まだ海で暮らしていたそのときの記憶を、何らかの意味で取り戻すということは可能だろうかということである。私は水の中に身を落ち着けているその間にだけ、かろうじて遠い遠い先祖、それはミトコンドリア・イブよりもさらに以前の遠い先祖である魚と、生体内の何らかの反応の共通性という点において、兄弟になることができているのだろうか、と。
脳に刻まれたものという意味での狭義の「記憶」(memory)であれば、脳のはたらきによって再現すること、思い出すことが可能であるが、ある個体が、自らの属する種に分化する以前の記憶を、遺伝子に刻み込む事で記憶しているとしても、それを意識化することなどほぼ不可能だろう。その意味では、私が魚たちと兄弟になることなど、ただの夢物語のように思われる。
私の場合は、「ヒト」という種の中に位置付けられている。様々な種の生物によって構成された生態系を、広大に広がる土地のようなものと捉えたなら、その中で私の住所は「ヒト」という種の中にある。それでは私は私の住所を超えて、もっと普遍的な場の中で自らを考えることはできるだろうか。そのために重要な役割を背負っているのは、私の脳において展開されるイマジネーションよりもむしろ、私の中のタンパク質たちではないだろうか。私はただタンパク質たちを通して、他の生物たちとの連続性を感じ取る可能性をもっている、極めて微妙な位置におかれて生きている。
ある程度であれば、実は普段の生活の中で、私はすでにこういうことを毎日のようにやっている。私は三鷹に住んでいるが、三鷹市民というアイデンティティを超えて、日本人というより一般的なアイデンティティも同時に持っているし、さらには最近ではパリでのテロ事件について考えることを通して人類という次元で自分のアイデンティティを意識することも増えている。
しかし、私が自分のアイデンティティを人類の次元、或いはヒトの次元からさらに拡張して考えることはあまりない。なぜであろうか。それは、アイデンティティの拡張にはコミュニケーションが重要な意味を持っていて、私がヒト以上の次元、たとえば動物というカテゴリーや、生物というカテゴリー、さらには無生物も含めた物質一般というカテゴリーで自分のアイデンティティを捉えようにも、ヒト以外の存在との間にコミュニケーションを成り立たせることが困難であるからだ。
この点について、ひとつには、「アイデンティティ」という概念自体が、本来は自同律という論理学の次元で展開されるべきところを、「ヒト」という次元で中心的に論じられてきたために、それを説明する際に、言語を用いたコミュニケーションという人間的な特質と結びつけられやすかったのではないかという点を指摘することができる。
しかし生物学が前世紀にすでに明らかにしたように、少なくとも地球上の生物の本質は、DNAの二重らせん構造という点にあり、それは人間に限らず、他のどの生物にも共通するものである。その共通基盤と、人間という特定の種との間の関係性について、まだ科学では明らかになっていないことが多いために、人間は人間、生物一般は生物一般という形で別個に論じられがちになるが、両者の間には確かに連続性があるのであって、その連続性はいずれ科学が明らかにしていくだろうと期待しつつ、同時に一方で私自身でもその連続性についてできる限り考えたいという思いもある。
ニール・シュービンが書いた2冊の本、『あなたのなかの宇宙:生物の体に記された宇宙全史』と『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト:最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅』、それから私の考察の起点になった指の皺について、「皮膚」というところから考えるべく、傳田光洋さんの書いた『驚きの皮膚』を読みたくなってきた。
私の中には何が刻まれているのだろう。それは時間がたてば消えてしまう私の指の皺よりも遥かに深く、その刻まれたものが時間という次元の中でどう展開されてきたのか。その展開がヒトという特定の種の歴史の中で果たしてきた役割、生物一般の中で果たしてきた役割、生物と無生物を合わせた物質一般の中で果たしてきた役割とはいったいどんなものなのだろう。興味は尽きない。
【追記】
GIGAZINEでこんな記事を見つけた。
皮膚上に分布している「一次ニューロン」が、脳に触覚情報を伝達する以前に、ある程度の情報処理をしていることが研究でわかったというもの。情報処理といってもその内容は限定的であって、記事によればこの一次ニューロンたちは、単に「これに触れた」ということを脳へ伝達するだけでなく、触れたものの形状に関する情報を処理しているらしい。そして処理した上で脳に伝えていると。
皮膚で行なわれている情報処理と、脳内で行なわれている情報処理とは、いずれもニューロンによって行なわれている。だから私たちが脳で行なわれる情報処理を指して「考える」というのであれば、皮膚もまた考えているということになるだろう。もちろん、私たちが考えるというときには、脳によって考えるわけだから、皮膚がどのように考えているのかということを体感によってつかむことは難しい。ニューロンを使っているという点は共通していながら、なかなか分かり合えない切なさのようなものが、そこにはある。
ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト: 最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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