アメリカの精神に潜む恐怖について
アメリカで金融工学(financial engineering)という分野が流行り、さらにはHFT(High Frequency Trade:高頻度取引)が発達したのは、アメリカ人にとって「リスク」(risk)というものが、もっと言えば「恐怖」(terror)に対する観念が、彼ら・彼女らの様々な行動に影を落としているのではないか。「資本主義の権化としてのアメリカ」という語り方に近い書き出しだったが、それは先日のパリでのテロについて、或いはそれ以前から、アメリカがイスラム国の人々に対してどう向き合っているか、そして彼らに何をするかという問題と同根のように思える。どちらも恐怖から生まれているのだ。恐怖に対する免疫がないからこそ、或いは恐怖に簡単に流されてしまうからこそ、一方で金融工学やHFTという形でリスクを工学的に操ろうとするわけで、そしてまた他方でヒステリーを起こし、軍事行動を通して恐怖の対象を排除しようとするわけだ。
リスクにどう対処するかということは、恐怖に対する精神的な強度と関わって決まってくる。人間でなければ、精神的な強度などというものが問題になることはない。だから工学的に処理すれば楽チンだと考える。それが合理的であると。リスクを工学的に処理するということは、そこに人間が関わる余地を減らし、最近はついに人間の居場所を完全になくしつつあるわけだ。人間として恐怖を象徴するリスクを引き受けることができないからこその行動だと考えると納得がいくように思えるのだ。
アメリカがイスラム国にどう向き合うかということは、先日の記事*1でも少し触れた。そこでは記憶をめぐる立場の違いということを焦点に書いた。そうすると今度は記憶と恐怖がどう関わるか、そしてその結びつきはどんな形で具体的な行動になって外に出てくるのか、そういうことを考えたくなってくる。まずは記憶と恐怖の関係について、フロイト*2を読み直してみようと思う。
*1:
plousia-philodoxee.hatenablog.com
plousia-philodoxee.hatenablog.com
*2: