私と物

 都市に生きる人間は、人工的に作られた環境に囲まれて暮らしている。だから自分たちが自然の中から生まれてきたこと、或いは自然と連続性をもった存在であることを意識させられることがほとんどない。都市に生きる人々は、いつもいつも人間関係のことばかりを口にしている。電車に乗っているとそのことをよく感じさせられる。聞こえてくる話のほとんどが、「誰か」に関するものであって、「何か」に関するものではないのだ。そんなところからSNSが生まれてくるのは自然なことだとすら思う。マーク・ザッカーバーグが田舎の大学に進んだなら、Facebookではない別の何かを作っていたのではないかと思う。

   ビルの間を歩き、人の間を歩き、前後を挟まれながら自動車を走らせ、電子レンジで食べ物を温め、蛇口をひねって手を洗い、電気を点け…要するに都市では「誰か」(人間)と「誰かが作ったもの」が私たちを取り巻いている。都市の生活には人の手によらずに作られたものがほとんどない。樹々ですら、人に管理されている。

   人間も元を辿れば自然の産物であるから、人間が生み出したものもまた自然の産物であるという風に私は考える。

 倫理学は、人と人の間にあるもの、あるべきものを見透そうとするときに、人間を見る。しかし人間を捉えるときに、人間だけをひたすら見ていただけでは「人間とは何か」ということはわからないままだろう。仙人掌(さぼてん)について理解するとき、もしも仙人掌しか見ずに、他の植物を見なければ、或いは動物を、或いは無生物を見なければ、仙人掌仙人掌らしさを捉えることはできない。それは仙人掌を取り囲む様々なものとの相対的な関係によって、初めて仙人掌であると言えるからである。

   先日ソシュールの言語論を扱った記事を書いたが、それに準えて言えば、人間は人間自体に自律的な意味や価値があると思い混んでいるようだ。しかし私はそうは思わない。あくまでも他の動物、植物、そして無生物との関わりの中で捉えなければ、本当に人間を捉えたことにはならないと思う。私たちの思考の習慣によれば、人間以外の動物は人間と対極にあり、植物はそもそも動物の対局であるがゆえに人間と対極に置かれることすらなく、無生物に至っては…。人間は、自らの対極にあると思っているものの一部であるという風にものを考えることはない。物体に対する意識、主観に対する客観、対象に対する主体など、無生物は人間から切り離されたところに置かれている。

    人間が「物」とも連続的な関係にあるとするならば、人間において求められる倫理が物においては不要だとするのはむしろ不自然だと考えることもできる。

    目の前に置かれた本が、コップが、或いはベッドが、元を辿れば私と境目がなかった存在であったこと、そこからやがて枝分かれし、片方に私がもう片方に物たちがいる。私は私から離れて、物になりたいと思うときがある。物になって、そこから生き物と関わるとはどんな感じなのか確かめてみたい。まぁものには感覚器官などないから、どんな感じということすらないのだが。

 

なんだか大森荘蔵 『物と心』*1を読みたくなってきた。

*1:

物と心 (ちくま学芸文庫)

物と心 (ちくま学芸文庫)