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言葉以前の世界にどう触れるか

 世界は言葉よりも前に生まれている。たとえこのことを言葉を使わなければ表現できないとしても、世界は言葉に先立つという事実は揺らがない。

 

 「◯◯以前の世界」という言い方に少し興味がわいている。たとえば男女以前の世界はどうだったのかと言われれば、無性生殖ということであるから、分裂による自己増殖、自己保存の世界ということになる。そこでは、有性生殖の場合に比べて新たに誕生する個体の多様性は限りなく小さい。多田富雄さんの『生命の意味論』(新潮社)*1という本では「女は存在であるが、男は現象である」という有名な表現が登場する。男女の染色体の違いを考えた場合に、女性はXXであるところが、男性の場合はXYになっていて、もともとは2本ともX染色体だったのが、片方だけY染色体に変わることで男性に変わる。つまり突然変異である。そしてそういう変異が、無性生殖によって生き残る場合よりも環境の変化に適応的であったので、有性生殖が獲得され、現在に至っている…という風によく説明される。ダーウィンの進化論の範疇である。たとえばマット・リドレー『繁栄ーー明日を切り拓くための人類10万年史』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)*2では、タイトルにもある「繁栄」のための条件として、多様性を獲得するためにヒトが男女に分かれているのだと説明されている。あるいは高木由臣『有性生殖論ー「性」と「死」はなぜ生まれたのか』*3でも同様の記述がある。ジェンダーフェミニズム、クウィアなどの領域でも、ヒトの性別についての、こうした生物学的な条件を、いわば存在論的な根拠として考えたうえで議論が進むといいのではないかと思ったりもする。

 

 冒頭の話に戻そう。言葉以前の世界とはどのようなものか。私たちは「歴史」について語るというとき、有史以前とか有史以降というような言い方をする。そのときには、ヒトの登場ということを問題としているのであって、私たちが生まれる前のことは、歴史の中には入ってこない。いわばその時間領域は生物学や宇宙論、物理学などの問題であって、私たちが日常的に「歴史」と呼んで扱うのは、ヒトの登場以降の、それもほとんどは言葉を獲得して以降のことがらである。しかし、生物としてのヒトは、当然いきなりヒトとして生まれたのではないのであって、猿だった時代もあれば、もっと以前の陸に上がる前の時代というのもある。しかし私たちは、たとえば私たちのいわば先輩としての猿の歴史ということを問題にすることはほとんどない。いま「猿」といえば、動物園の檻の中であり、あるいは実験動物の一種であり、歴史の主体としての猿という認識は、なかなかない。しかし、猿たちは今も言葉をもたず、しかし私たちと共に、地球上で生き残り続けている。彼らは言葉以前の歴史を、今もずっと送り続けている。彼らが何を考え、或いは感じているか、私たちは知らないが、「私たちはどうやら彼らの中から生まれてきたらしい」ということは知っている。ヤーコプ・フォン・ユクスキュル生物から見た世界』(岩波文庫*4の中では、生物はそれぞれ自身のやり方で世界を認識しているのであって、それは各々異なっている。彼はその様な世界を「環世界」(Umwelt)と呼んだ。たとえばダニにとっての世界は、視覚や聴覚が存在しないために、ヒトにとっての世界とは違うだろう。それでは視覚や聴覚をもったヒトの側から、彼らの世界を捉えるということは果たして可能だろうかという疑問が生まれる。

 

 そこで、例によってWikipediaの記事を見ていたら、環世界に関連して面白いものを見つけた。トマス・ネーゲルという哲学者が提示した「コウモリであるとはどのようなことか」(英:What is it like to be a bat?)[1974]という論文である。おそらくこれは「心」(mind)を考える人々の間ではかなり有名な論文だろうと思われる。私は心の専門家ではないけれども、心に興味はもっている。それだけに知らなかった自分が恥ずかしくもなった。この論文では、人間の側から、コウモリであるとはどのようなことか、言い換えればコウモリの主観的世界像というものを描き出すことは不可能ではないかということが、主観ー客観(sujective-objective)の違い、心身問題(mind-body problem)、あるいは意識(consciousness)の問題と結びつけて論じられている。

 

 こうしたことを考えていて思い出されるのは、以前に私が埴谷雄高を紹介しながら述べた、ニュートリノの自我物の自我、あるいは苫米地英人さんが真空管アンプを説明するときに電子になりきるようにして説明していたことなどである。

 クァンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ』(岡嶋隆佑)を読んで - ありそうでないもの

 

 あるいはまた、歴史というものを考えるときの当事者性の問題である。他者に代わって歴史を語らなければならないという条件のもとで、人間はどれくらい他者の立場に立つことができるか。それは近頃読んだ本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書と、そこからインスピレーションの一部を得て書いた記事の中でも、問題とされていたことでもある。

 私は他者と出会っているか - ありそうでないもの

 

 歴史を考える場合には、どうしても自分以外の存在について考えなければならない。しかしその「歴史」もまた、「人類の」という範囲での話であって、人類以前の、しかし人類とも連続している数々の存在の歴史は対象外になっている。しかし私たちが真に歴史を理解しようとするのならば、人類以前の存在についてもまた、人類における他者と同様、成り代わって考えるということが欠かせない。人類以前の存在が、人類の存在をどのように条件づけているのかということについての理解を抜きにして語られる人間というのは、やはりどうしても不完全ということにならざるを得ないだろう。そのときに問題となるのは、私たちが普段なんということもなく使っている言葉について反省し、言葉以前の世界にどうアクセスするか、どうやってそのような世界に触れるかということになるだろう。それはこれまで神話や宗教などの対象だった。「神秘的」という言葉を使うときには、実は私たちはその言葉を通して、言葉を超えたものを表そうとしている。神秘的と呼ばれる対象のすべてが、言葉の本来の意味で「神秘的」と呼べるかと言われれば、もちろん例外もある。けれども、その一方で「すべて神秘的と呼べない」というわけでもない。そしてそれが、言葉で表現できないとも限らない。

 

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』(岩波文庫*5の最終命題、「語りえぬものについては沈黙せねばならない」はあまりにも有名であり、至るところでで引用される。そして引用のほとんどがその部分だけである。上で述べた「神秘」ということと、言葉以前の世界ということとも密接に関わる部分を、最終命題まで少し長めに引用する。

 

6・432 世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。

6・4321 事実はただ問題を導くだけであり、解決を導きはしない。

6・44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

6・45 永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体としてー限界づけられた全体としてー捉えることにほかならぬ。

 限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。

私はどのようにして言葉以前の世界に触れることができるのだろう。

6・5答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。

 謎は存在しない。

 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。

6・51 問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。

 すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。

6・52 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。

6・521 生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。

 (疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由はまさにここにあるのではないか。)

6・522 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。

6・53 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外はーそれゆえ哲学とは関係のないこと以外はー何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。ー彼は哲学を教えられている気がしないだろう。ーしかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。

6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜けーその上に立ちーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てなければならない。)

 私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。

7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

 (同書147〜149ページより引用)

  

 

私はウィトゲンシュタインの提示した諸々の命題を葬りさり、言葉以前の世界を捉えることができるだろうか。近頃ときたま抱く人間や人間の世界ということについてのなんとも言えない奇妙な感覚が、自分にとってはひとつの有力な手がかりなのではないかと思っている。その感覚に丁寧に向き合いたいと思っている。

 

*1:

生命の意味論

生命の意味論

 

 

 

*2:

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

*3: 

有性生殖論―「性」と「死」はなぜ生まれたのか (NHKブックス No.1212)

有性生殖論―「性」と「死」はなぜ生まれたのか (NHKブックス No.1212)

 

 

 

*4:

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

 

 

*5:

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)