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クァンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ』(岡嶋隆佑)を読んで

現代思想 2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-

現代思想 2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論-


 現代思想2015年1月号(タイトルは「現代思想の新展開」)を読んでいる。その中にクァンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ』という論文があって、それを読んで考えたことを書いてみようと思う。「亡霊のジレンマ」についての解釈や感想というよりはむしろ、それを起点に展開された別のもの、或いは同じものがテーマになる。「別のもの、あるいは同じもの」と曖昧に書いた理由がテーマとも言える。

 

いわゆる「思弁的実在論(speculetave realism)」を巡って、メイヤスーやハーマン、ブラシエ、グラントなどの人々が展開する議論の中での、彼のポジションというのがどういうものかということは、今の時点では確定的なことは言えないのかもしれない。彼は「オブジェクト指向存在論(oblect-oriented ontology)」寄りの立場かもしれないし、今回「現代思想」で和訳された「亡霊のジレンマ」の様な、「新しい神論」の方が彼の軸なのかもしれない。同誌所収のインタビューの中で千葉雅也さんもそのように述べていた。彼の博論のタイトルは「神の不在」だから、個人的にも後者の方が彼の立場としては適当なんじゃないかという気はする。まだ「亡霊のジレンマ」しか読んでいないけれども。

 

その論文(「亡霊のジレンマ」の方)の中で、彼は「必然的なものを司る、世界の始まり(始原)から存在し続けている存在」としての「神」というものは退けつつも、「これから先に見出される可能性のある存在」としての「神」、追悼されずにいる死者(彼の言葉では「亡霊」)の喪(「真の喪」)を巡って無神論と宗教とが生み出すジレンマ(これを彼は「亡霊のジレンマ」と呼ぶ)を解消する存在としての「神」というものを構想している。それは人間や物体(マテリアルなモノ)などを含む他のすべてと同様に、現時点では「可能性」として存在が想定されている「神」ということになる。そして今は「神の不在」の状態なのだと。

 

 「亡霊のジレンマ」を読んでいて「それはもはや神ではなくて、何か別のものなのではないか」と一瞬感じたけれども、それはあまり筋のよい疑問ではない気がしたので、自分の中で勝手に棄却した。

 

………のだが、後になってふと思い返してみた。「『もはやそれはXとは呼べないのではないか』と思われそうなほどに定義が修正されたX」というものを考えていると、ここ最近の自分の気分を支配し続けている、集合論的な感覚とでも呼べるようなもの、つまり

 

条件①、条件②、そして条件③をもとに考えると「答えはX」ということになるが、そこにまだ見つかっていない、しかし可能性としてはありうる、さらなる他の条件、条件④、条件⑤、そして条件⑥(もちろん「3つずつ」なのは仮の話で、条件の数はいくつでもありうる)を加味して考えると、それはもはやXなどでは到底なくて、「Yだ」というほかないようなもの

 

について、どう考えるかということを考え始めた。これは明らかにまだ科学の埒外だ。理論の段階ではあくまで「予想」であるが、実際になんらかのしかたで人間に確認されて初めて予想されていた事柄は居場所を与えられる、そういう立場を一貫させている科学からすれば、それが科学の中に立場を見出すとは言えない。

 

 しかし一方で、そういう「未知なるもの」「Xと思われているY」の可能性(或いは「今Xと呼ばれているものが、実はYである可能性」)を、科学の立場から予め恣意的に排除することは不可能だ。科学について書いているのだから、「排除すべきでない」とは書かないほうがいいだろうか。またそれは、これから先も永遠に科学の中に居場所を獲得することはあり得ないとも言えない。それこそ人間からは「アクセス」できないというだけの話で、「ある」という可能性自体は排除できないのだ。そしてそれは、点や面積など、数学の範疇で定義されたものが現実(物理的空間)には存在しない、ということとはまた違ったしかたで、「ある」と言いうるものなのではないか。そしてそれはこれから先も、人間にとっては存在しないことにされ続けるような類の存在かもしれない。だからその意味ではカントにとってのアプリオリとも異なる存在ということになる。

 

 人間が、まさに人間であることによって知り得ないもの、しかし「可能性」について考えてみるならば、あくまで「可能性」として人間にも捕捉しうるもの、或いは一歩進めてそういうものから成る世界について、人間である自分はどう考えればいいのか。そしてその「可能性としてのみ人間が垣間見ることのできる存在(或いはその世界)」という集合の中には、もちろん「人間自身」したがって「私自身」も含まれる。つまりその「可能性としての存在」が定義可能な世界では、ここにいて私たちが「人間」と呼ぶところの人間たちは「人間」などでは到底なく、別の何かであるということがありうる。同様にしてその集合の中には「実在(と人間が呼ぶところのもの)」も含まれる。そしてこの両者の間で、なんらかのしかたで人間の側から到達・確認が可能なものとして「証明」なる形式によって物理なるものが展開され、到達・確認など気にせずに「証明」なる形式によって展開されるものとし数学なるもの、或いは哲学、ことによると美学などが展開されているという格好になるのではないか。その集合の一部、要素A[人間]と要素B[実在]の間でのある種の相互作用、ある種の現象としてあらゆる学問が展開されている、そういう配置を考えることができるのではないか。狂気の沙汰だと思うかもしれないが、どんなやり方でそういう可能性を否定できるのか、少なくとも今の私にはわからない。

 

「実在」といえば、人間という存在を契機としてのみ論じられうるものだったが、思弁的実在論の登場以降、必ずしも人間という契機を経由しないで論じられうる実在というものについての想像力が膨らんでいる。しかし私は、それとは少し異なるところから、実在ということについて考えてみたい。つまり人間(或いは感覚、感性)にとっての到達、確認という経路では存在しないということになってしまうような実在というものがあるのではないか。そしてそれは人間がもっていない他の経路を合わせて捉えられたときには「存在する」ということになってしまう、そういう形式で語られる実在というものがありはしないか。逆説的ではあるが、その実在においては、人間が今「実在」と呼んでいるところの「実在するものたち」も含まれる、或いは矛盾せず両立しうる集合として、その実在はある。さしあたって私はこの実在を「排除されえぬ実在(unexcludable being)」とでも呼ぼうかと思う。

 

 かつて作家の埴谷雄高はカントのいう「自同律(A=A)」について考え、『死霊』において自同律を破る存在としての「虚体」なるものを構想した。それはAであってAならざるものについての構想であり、言葉の厳密な意味での「矛盾」についての構想であったとも言える。まさしく「可能性の作家」たる彼らしい着想だったと思う。そして『死霊』についてさらに語るならば、作中でイエスは魚に裁かれ、釈迦はチーナカ豆という豆に裁かれる。生物だけでなく、ものにまで裁かれる人間。それは一見すると人間自身をものの側に逆向きに投影したものにすぎないと思われるかもしれないが、彼がこの作品について語る番組*1の中で、「アンドロメダ銀河にとっての天の河銀河」という形で銀河同士の関係を語るそのしかたには、人間という契機を抜き去った、脱人称的な語り方が確かに感じられるように思われる。そしてそれは、オブジェクト指向存在論、或いはニューマテリアリズムの思潮と重なるところがあるように感じられるのは果たして偶然だろうか。

 

ラーメンであってエアコンのリモコン、私であってあなた、そんなものは存在しない。少なくとも、自同律が正しいならば、それは矛盾と呼ぶほかない。しかし「排除されえぬ実在」はいつでも、まさに「矛盾」として人間のもとに現れることによって、可能的なものとしての自らの容態を示していると考えられるのではないか。

 

 埴谷が「可能性としての存在」を構想するように、可能性としての世界ーーーその世界では人間が存在を否定的に証明した「完全なるもの」すら存在しているような世界ーーーというものを考えられるのではないだろうか。そしてそこには、メイヤスーが定義したところの「神」とは異なる、必然性を自らの性質として保持し、始原より存在し続けている存在としての神、すなわちメイヤスー的なものというよりはむしろ、従来の伝統的な定義と一致すらするような存在としての「神」もまた存在しうるのではないか。人間はそれを見つけることができない。今まで見つけられなかっただけではなく、もしかしたらこれから先も永遠に見つけることができないままかもしれない、そういう世界は、我々にとってはただ一つの窓、人間がその言葉を使う時には「存在しないものについて思惟する能力」とでもいった表現で形容される、「想像力」によって展開される、可能性の地平においてのみ想定されうるような世界である。

 

 ハイゼンベルクが示した「不確定性原理*2ゲーデル、或いは後にチャイティンが引き継いでより完全な形で示した「不完全性定理」の2つは、世間に広まる中でひとつの気分を生み出した。すなわち「完全なるものなどこの世界には存在しない。あらゆるものが不確定的であり不完全なのだ。」と。それは神の存在を否定する根拠としても用いられるようになった。不確定性原理は物理それ自体に対して、不完全性定理は数学それ自体に対してよりもむしろ、神の存在との関わりで両者はより強力な用法(方便?)を獲得したとさえいえるかもしれない。近頃では偶有性(contingency)ということが強調されるようになり、「世界は偶有的だ」とか「contingencyを考慮して」といった語り方も一定の地位というか空間を占めるようになってきた。各人のお好みで、これらのグループに「複雑性(complexity)」や「複雑系(complex system)」、或いは「カオス」を含めてもいいだろうと思う。

 

 しかしこれら2つの、我々に一定の否定的気分をもたらした定理たちについて改めて厳密に考えてみるならば、不確定性原理は「すべてのものが不確定である」ということを示したのではないし、不完全性定理は「すべてのものが不完全である」ということを示したのではないということに思い至る。前者は当時の水準の物理の範囲で、後者は当時の水準の数学の範囲で、それぞれ不確定なものと不完全なものを示したにすぎない。そしてそれは現在の物理学、数学の水準でも変更はない。それらはどこまでいっても、もはや確実なるもの、或いは完全なるものがこれから先も永遠に誕生し得ない、或いは証明されえないと証明するものでは、ない。*3このことが何を含意するか。或いは人間の想像力が「初めは可能的でしかあり得ないもの」をめぐってはたらくのはなぜか。確認できないかもしれない事柄に対してこそ、むしろ想像力はより強くはたらく。そういうことが気にかかる。

 

 排除されえぬ実在は、私の立つ場所を揺るがしているのか、それともより確実なものにしているのか、それさえも可能性を通してはたらかせる想像力によってしか知り得ないし、私が用いるあらゆる言葉が、その地平においては今とは全く異なるしかたで表現され、ことによると一見真逆のような体裁をとっていることさえありうる。

*1:


埴谷雄高 独白「死霊の世界」(1)~(10)まとめ - YouTube

 


埴谷雄高 独白「死霊の世界」(11)~(21)まとめ - YouTube

 

*2:ある粒子の位置の標準偏差と運動量の標準偏差の積が換算プランク定数以上になるという式で表現される。

*3:

ネットは広大、と言おうか。やはり同じことを考える人というのはいるもので、この方は理性との関わりで不完全性定理の意味を論じているけれども、基本的な結論は同じだと私は思う。

 

 

 


ゲーデルの不完全性定理は人間理性の限界を示したか