歴史に出会う時
私は幼い頃から、自分の身に起こったことについて、あまり頓着しないところがある。頓着しないから覚えていないのか、それとも覚えていないから頓着してもしょうがいないと考えているのか、それは判然としない。とにかく頓着はせず、また覚えていない。しかし最近、YouTubeで小林秀雄の講演の動画のいくつかを繰り返し見るうちに、歴史ということを改めて考えるようになった。私の心の中で、それまであまり大きな場所、あるいは中心の位置を占めてはいなかったこの主題に向かい合う私の態度が、この数本の動画の視聴とその反復によって、ずいぶん変わってしまったのだ。心の風景が、次々と新しい建物が建っては壊されていくこの東京という都市に同期でもするかの様に、ガラッと変わってしまったように思われる。
以前の私はどんな様子であったのかということを再現するために、私は以前にどんなドラマを見ていたかということをインターネットで調べてみた。2003年、私が見ていたドラマがわかった。 それについて、私はいくつかツイートした。
中学3年の頃(2003年)に見ていたドラマを調べてみた。
GOOD LUCK!!(木村拓哉、柴咲コウ)
僕の生きる道(草彅剛、矢田亜希子)
ビギナー(ミムラ、堤真一)
美女か野獣(福山雅治、松嶋菜々子)
『美女か野獣』はEDの東京スカパラダイスオーケストラの曲が好きだったなぁ。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
同じく2003年で映画を調べてみると、映画館で見たのではなかったかと思われる映画は
ロードオブザリング/王の帰還(※シリーズ三作目にして最終作)
マトリックス・リローデッド
マトリックス・レボリューションズ
くらいか。マトリックスは、当時は深く理解出来てなかったなぁ。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
自分の過去を調べるのは、なかなか楽しいものだ。当時のドラマや映画や小説、或いはテレビ番組や世の中で起こった出来事を調べていくと、その当時の自分がどんなことを感じながら毎日を過ごしていたか、どんな気分で生きていたかが、少しは思い出せる。現在の自分の中で、過去の自分が甦る。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
まぁ小説に関しては、当時も古典ばかりを好んで読んでいたし、「日本の小説なんて詰まるところ欧米の真似事で、つまらないものばかりだ」位にしか思っていなかったから、日本人の作家が書いた作品には目もくれずにヘッセやジイドやカフカやドストエフスキーやルソーを読んでたなぁ。例外は、高見広春。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
どうして当時の自分は高見広春の『バトル・ロワイヤル』にだけはハマったのだろう。映画の影響もあるだろうけれども、当時は十徳ナイフも買ったりしていたし、迷彩柄のリュックも持っていた。でもそれは、単に強い男になりたいと意識的に思っていたということではなかったと思う。
当時の自分よ…。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
年をとっていくと、幼い頃に触れていた色々なことに対して、言葉を当てはめて説明することができるようになっていく。もちろん全てに対して、とまではいかない。
新しいものに触れた当時には、わけもわからないままに、それでもそこから何かをつかみ取ろうと集中しているばかりだったと思う。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
そしてそこから何かを受け取ったり、衝撃を受けたりしたということだけは、心の中に確かに残る。それは時間が経てば思い返されなくなっていくけれど、何かの拍子に出会い直すことがあって、そこで改めて考え直すと、初めて言葉を宛てがうことができるようになる。その時間差はまちまちだ。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
この「時間差」ということが自分には重要であって、ソーシャルメディアへの馴染めなさの背景には、単なるリア充たちの自己陶酔だの承認欲求を満たすための場だのということとは別に、何かに初めて触れてからそれを評価するまでの時間差を認めず、反応を急かされるようなリアルタイム性への違和感がある
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
Twitterでの「いいね!」やリツイート、Facebookでの「いいね!」、或いはYouTubeの高評価のボタンなどはみな、それらに接したその場で評価するよう迫られているような感じがしてしまう。実際にはそんなことはないのだけど、どうも何かに急かされている感じがしてしまう。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF1221) 2015, 12月 27
この一連のツイートをしていた時は、「時間差」ということを主題的に意識していたため、ツイートを追うごとに「時間差」(タイムラグ)ということが前面に出てくる。しかしこの記事の主題は時間差ではないので、時間差についてはこの記事では特にこれ以上触れない。私は2003年に自分が見ていたテレビドラマや映画、あるいは小説を調べる中で、当時の自分から距離を置いている分、いわば「他人」として過去の自分に出会い直すことができた。とはいえ出会う場所はといえば、もちろん今の私の心の中である。ツイートはしなかったが、『ビギナー』のテーマ曲だったCarpentarsの「Top of the World」*1も好きで、当時なんとかしてこの曲を聴こうと調べたが、どうしても曲のタイトルがわからなくてやきもきしていたあの感覚が、私の中で再び経験され、生き直された。それは私の中だけで完結する経験であって、私は当時のあの環境、実家のリビングや、受験生としての焦りや、テーブルの上に置かれたコーヒーカップや、それを置くコースターなど、色々な外的な実体を、今の私の自宅で再現する必要はない。外的な対応物が今ここになくとも、すべて頭の中だけで、当時の自分の心の中をよみがえらすことができる。それは、当時の自分と少しも変わらないほど「リアル」であると、私は自信をもってそういえる。他でもない自分自身の感覚だからだ。もちろん私のこの揺るぎない自信、或いは確信には、他の根拠もないではない。
私が以前に読んだラマチャンドランの『脳の中の幽霊』*2に、幻肢痛(phantom pain)の話が出てくる。手を失った患者が、まるで自分の手があるかのように偽装された環境で、そのフィクションの手を刺激されると、脳の中に「痛み」に対応する刺激が生じるという有名な実験である。幻であるはずの手に起こる刺激が、外的な連絡経路はないはずであるにもかかわらず、確かに脳内で「痛み」として認識される。外的な実在を持たなくとも、経験可能な事柄というものがあるのだと、私は当時少なからぬ衝撃を受け、中勘助の『銀の匙』*3やプルーストの『失われた時を求めて』*4という作品が、現在の自分による過去の自分の「回想」(retrospection)という形式をとりながらも、私にとって確かにリアルであるように思われたことに、確かな根拠があるのではないかと、科学の側から励まされたように感じたものだった。そういう経験も、上記の私の揺るぎない自信を支える柱の一つになっている。
しかしこうした過去の自分の追体験、或いは当時の自分を今の自分の心の中に甦らせる営みには、私一人の作業による、いわば「考古学的」なアプローチだけでは、どうしたって限界があるという感覚も、一方にはある。おそらくは、当時自分の最も身近にいた他者たち、母や弟や友人たちに、当時の自分はどんな様子であったか、どんなことを喋っていたか、或いはどんなことをしでかしていたか、そういうことを聞いてみなければならない。そのように、自分自身から見た過去の私だけではなくて、他者から見た過去の私をも組み込んで、過去の私を甦らせなければ、本当ではないだろう。私は、私自身を、私の回想と私一人に閉じこもった考古学的作業だけで甦らせることはできない。他者が必要になる。
過去の自分を振り返り、今の自分が抱えている問題の、何が原因であるのか、どうして今の自分がこのような問題に足を取られ続けているのか、或いは前に進めないでいるのか、そういうことを、過去の自分を再現することを通して捉え直すと、何らかの突破口が開けるのではないか…。私はそのように考えて、私自身の歴史を掘り起こす作業に取り掛かったが、それにはどうしても、他者の存在を抜きにしては袋小路に追い込まれてしまうという事情が潜んでいるということに気付いた。
私がインターネットで調べることで出会うことができた過去の私は、調べる前までは私の中に甦ることのなかった私であって、もはや私の中から失われてしまっているとすら言えそうな私であった。しかしそれでもまだ、当時の私の一部分でしかない…。当時の私の、リアルな再現ではない。絵を描くにあたって、精密な描写を好む私の嗜好が、過去の自分を再現するという営みの際にも、心の中に現れてくる。そこで私が協力を仰ぐ他者たちの力を借りれば、より完全に近い過去の私が、今の私の心の中に再現されるだろう。しかしそれでもまだ、他者が見落とした私についてはどうか、或いは私自身すら当時意識せずに抱えていた私の心の中の風景は、どういう経路を経れば再現できるのだろう。当時の社会の状況、起こった事件、時代全体の雰囲気、そういうものに触れ、意識的ではなかったにせよ、或いは主体的に関わってはいなかったにせよ、何らかの仕方で反応していた自分がいたとしたら、その様な反応が、今、どこかに痕跡を残しているだろうか。当時の自分が使っていた物の中に、或いは自宅の中に、或いは私が見た風景の中に、他者は見ることのできない私の心の風景を、確かに映し出す原型として、残しているだろうか。そういう原型を、私は一体いくつ掬い取れるだろうか。
私は、歴史にどれほど近付けるだろう。
*1:この曲のタイトルを知ったのは大学に進学したあとで、初めてタイトルを知った時に、中学3年の自分が感じたやきもきさせられたあの感覚が、ようやく解消されたように思われて、ずいぶんとすっきりしたように思われた。それは、例えばトラウマが克服された時の感覚と、いくらか似ているかもしれないなどと大学生の当時は漠然と思ったものだ。
*2:
- 作者: V・S・ラマチャンドラン,サンドラ・ブレイクスリー,山下 篤子
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*3:
*4:
失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)
- 作者: プルースト,吉川一義
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