祭りをめぐる集合意識と個人の同質性

 最近、木村敏さんの『時間と自己』中公新書)を読んだ。もともと興味があった本ということで読み始めたのだが、近頃の関心である「大衆」「集団と個人」というところとも関係する内容であることに気付かされた。

大衆については「多数決で正しいことを決める」ということ - ありそうでないもので、集団と個人については答え合わせのないまま進む議論と、それについていく人々 - ありそうでないもの集団で決めること - ありそうでないもの、或いはアイドル・偶像・ヒーロー - ありそうでないものなどで書いた。

 

 

 

 その第2部「時間と精神病理」において、精神病理学の見地から、分裂病や躁鬱病の人々の、時間認識と自己認識との関わりを分析することを通して、個人における時間と自己の関わりを考えるという筋で書かれている。そこでポイントとなるのはポスト・フェストゥム(post-festum)とアンテ・フェストゥム(ante-festum)、そしてイントラ・フェストゥム(intra-festum)の3つである。フェストゥムというのはラテン語で、日本語では「祭り」である。3番目のイントラ・フェストゥムというのは「祭りのさなか」、つまり祭りの最中の人々の意識を問題としている。ポスト・フェストゥムもアンテ・フェストゥムも、前夜祭的・後夜祭的という形で、非日常、或いは非自己に染まる「祭り」と関わっている。

 

 精神病を患った人間が健全な正常者とは別世界の人間であるとして切り捨てるのは早計である。木村は同書の第三部、「時間と自己」において次のようにいう。

 

 第二部の三つの章で扱ってきた精神病は、それぞれ特徴的な形で時間と自己に関する以上を示していた。これらの「異常」を、精神病という特別な事態のために、健全な正常者にとってはまるで無縁な、新規な現象が発生したものと考えるのは、いうまでもなく間違いである。精神病という事態は、多くの身体疾患とは違って、われわれのだれもが持っているそれ自体以上でもなんでもない存在の意味方向が、種々の事情によって全体の均衡を破って極端に偏った時代にすぎない。一応健全な社会生活を送っているように思っているわれわれのだれもが、その潜在的な可能性においては、分裂病にも鬱病にも躁鬱病にも癲癇にもなりうるということなのである。

 だから、これらの精神病に特徴的な直にゃ自己のありかたは、それが全体として均衡のとれた組み合わせをもっているかぎり、そこに健全な日常的意思kが形成されているようなありかたのだ、と考えてもよいだろう。もちろん、それらはものの部分のようにばらばらに切り離した上でもう一度寄せ集めて復原できるようなものではない。時間ということ、自己ということが有限な個人によって直接に生きられる仕方には、いくつかの決った方向のようなものを取り出すことができて、健全な人というのは、そのどれかの方向を際立たせることによっておのおのの個性を出しながら、潜在的にはそのすべての方向を生きる可能性を身に着けている人のことなのだ、というだけのことにすぎない。

木村敏『時間と自己』174、175ページより引用)

 

 自己が非自己になることの最も象徴的な出来事は「死」であるとするならば、自己が自己であることを忘れて非自己的な存在となる「祭り」は、いわば必然的に死と関わることになる。多くの祭りにおいて、生贄の死がもたらされるのは、決して偶然ではなく、非自己が媒介となって両者が結びつけている。葉隠「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文がある。村上春樹ノルウェイの森には「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という一文がある。

 

 「死が生の一部」という考え方は、生物において「生きている」ということが個々の細胞の周期的な死であるプログラム細胞死(PCD: Programmed Cell Death)、すなわちアポトーシス(apotosis)を含むかたちで成り立っているということを考えてみても納得できる。アポトーシスは、生体を維持するために細胞が自ら死ぬという意味では、「生の必要条件」という捉え方ができるタイプの死である。怪我をすれば負傷した部分の細胞が死に、新しい細胞が作られることで回復に向かう。しかしなにもそういう場合だけでなく、私たちは健康的であっても常に細胞が死に、新たな細胞がそれに取って代わるということを通じて自己の生命を維持しているということである。しかし、一般的に「死」という言葉を使う場合には、こうした細胞の周期的な自殺、すなわち「反復される死」ではなく、個体の死、すなわちそれ以上何かが個体の中から新たに生まれることのない「一回性の死」を指す。この記事で扱う死も、基本的には後者を指す。

 

 時間と自己とが分かち難く結びついていることを指摘したのは木村敏だけではない。ハイデガー存在と時間において、現存在(Daseinとしての人間と現在・過去・将来とがどのように関わっているかということを考えた。死が避けがたいものとして現存在を根底から条件付け、死を意識することを通して現存在は将来を意識し、それを現在させるというあり方をしているという指摘がある。

 

 将来を見つめる窓としての「死」が、同時に自己を非自己にする契機でもあって、それが「祭り」において人々に感覚される。祭りは多くの人々が集い、集合的なあり方をとることによって、ますますその非自己的な様相を帯びてくる。そこには「場」(field)があり、その「場」が非自己的な様相を作り出す条件ともなっている。場はそこに集う人々によって作り出されると同時に、人々を条件付けるものとしても機能する。そういう意味で場と集団とは互いの原因であり同時に結果でもあるというサイクル(円環)をなしている。「自己触媒的」(autocatalytic)という言い方もできる。それでは集団と自己触媒的なかたちで相補的な関係をなす「場」というのは、神社の敷地内や広場、コンサートやライブの会場など、現実の空間だけかというと、そうとも限らない。ネットという仮想空間の中でも「祭り」という言葉があり、その言葉に対応した「場」が存在している。ネットで「祭り」が起きるときにも、場とそこに集まるユーザーたちは自己触媒的なしかたで相互作用している。

 

 祭りにおいて、個々人はしばし自己を忘れる。そこでは個人以前の、個人というものが自覚される以前の、集団的なあり方をした人間の姿があらわになる。それは「言葉以前の人間」という言い方もできる。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』において、ホメロスの『イリアス』やヘシオドスの『神統記』などを手掛かりとして、「二分心」(bicameral mind)という心の状態を語られるとき、 そこには右脳を通じて聞こえてきた神の声を左脳で言語化するということを行う個人の姿が現れる。

 

 「世論」(public opinion)というのは集団によって生まれる「現象」である。それは特定の中心らしきものを持たず、多孔質的に、同時複数的に展開していく。もちろん影響力の強い個人なりメディアなりが介在していることは言えるだろうけれども、集団全体のダイナミクスにおいて、大多数の個人は自己をどれくらい自覚しているだろうか。集団的な現象において、自己(self)はどうなっているのだろう。個々人が自己を忘れて非自己的な存在になるとき、或いは自己のアイデンティティーが、クラスや学校、会社、或いは国家などの「集団」に一致するというとき、そこで起きる現象はどんな動態を示すのか。

 

 物理学において、現象を統計的、あるいはマクロ的に考える場合には、個々の要素の個別性は無視される。それらは同質的(homogeneous)なものであって、異質的(heterogeneous)なものではないという前提がそこにはある。個々の違いを考えなくても、集団のレベルで現象を記述することができるという基本姿勢である。物理学におけるこうした考え方が社会科学の分野に持ち込まれるときには、「人間は一人一人が異なる存在(異質的)である」という反論が登場するけれども、もし個人が場を通じて集団を形成し、なんらかの現象を起こす場合には、非自己的な存在と化した個々人を記述するために物理的なアプローチを用いるというのは、案外それほど的外れではないのかもしれない。

 

 木村は、日常性が非日常性を必要としているのだろうということを指摘する。ニーチェも交えて少し長めに引用する。

祝祭的自己の現在性

 祝祭において、そして生のイントラ・フェストゥム的契機において、個々の自己存在の個別性は根底から疑問に付される。

 

ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、単に人と人との紐帯が再び結び合わされるばかりではない。疎外され、敵視され、あるいは抑圧されていた自然さえも、家出息子である人間との和解の祭を再び祝うのである。……ベートーヴェンの歓喜の頌を一幅の絵に変えて、幾百万の人が怖れおののいて大地にひれ伏すさまを、ひるむことなく空想してみるがよい。そうすれば、ディオニュソス的なものに近づくことができる。……いまや一切の人がすべての隣人と結ばれ、和解し、融け合うだけでなく、完全に一つになる。まるでマーヤのヴェールが引き裂かれて、この神秘に充ちた根源的一者の前にぼろ切れのようにはためいているようだ。歌い、踊りながら、人間はより高次の共同体の一員として姿を見せる。歩くことも話すことも忘れ、踊りながら空高く舞い上がって行く……」(ニーチェ『悲劇の誕生』、ハウザー版著作集第一巻、24〜25頁)

 

 このようなディオニュソス的陶酔の定期的な反復を、日常性はおそらくそれ自身の内部から必要としているのだろう。祝祭は、人類の歴史と共に、ということはその日常性の形成とともに、出現したものと思われる。しかし、このような陶酔における日常性の解体に、日常性は長時間耐えうるものではない。短期間の灼熱の後に、祝祭は再び健全な日常性にその場所を明け渡す。

木村敏『時間と自己』162、163ページより引用)

 

 そしてあらゆる自己は、自己という制約を捨て、非自己になろうとする瞬間があり、それは日常の中のいたるところに穴だらけになって散らばっているのではないか。再び木村から引用する。

 

われわれは有限な生の相にとどまる限り、この永遠の現在に安住することはできない。それはわれわれにとって死を意味することになるのだろう。しかしそれでも、われわれは元来はこの死から生まれ出てきた存在なのである。生への限定は、本来不自由で不如意な高速にほかならないのであって、生としての日常性は、それ自身の制縛からの解放感を味わうために、自らの中にときどき自分自身の故郷である死への通路を開こうとする。日常性の厳しい監視の眼をかすめて、生はひそかに解放の祝祭に酔いしれようとする。仔細に見れば、われわれの日常性は大小のこのような祝祭によって、いわば穴だらけになっているのではないのだろうか。仕事のあとの一服の煙草が、音楽に心を奪われているひとときが、見知らぬ土地への旅情が、すでに日常性の中にまぎれこんだ祝祭的な非日常の性格をおびている。そこにはすくなくとも暗示的なかたちで永遠の現在が姿を現しているのではなかろうか。

(同書181、182ページより引用)

 

 これは同質的な集団としての自己の様態を示す。ちなみに集団として自己が解消されるありかたには、「偶像」としてのアイドル、ないし「ヒーロー」という存在が関わっている場合があるのではないかと考えている。すなわち、個々人が自らの実現不可能な願望を転移させるという形で特定の人物のもとに像が結ばれたとき、それは「アイドル」あるいは「ヒーロー」と呼ばれるのではないかと。

この点については以前に記事を書いた。 

アイドル・偶像・ヒーロー - ありそうでないもの

 

 集団現象が、日常性の中で起きているように思えても、それは実際には非日常的、あるいは非自己的な原自己的な相において展開されているということが大いにに考えられる。「祭り」をめぐる集合意識は、人間による現象を物理現象と同じ平面で生起しているのかもしれない。そしてその平面では、人間は集団として、自らもまた物理空間に制約された、モノ(oblect)との境目を失った存在として振舞っているのだろう。 私たちは「個人」(individual)という概念を生み出し、現在の社会はこれを前提にして形作られているが、それでは個人以前の個人にとっての自己、「原自己」(original self)を私たちは失ってしまったかというと、どうもそうは思えない。現代においても、私たちは無意識のうちに原自己に回帰し、集団的に振る舞う時間が残っている。いや、人間が集団として現象を生み出す場合には、むしろ個人は原自己的なしかたで、そこに関わっている方が一般的なのかもしれないとすら思えてくる。歴史における集団現象の多くは、ヒーロー的な個人とそれを支える集団とが一体となって起きている。ヒーローでなく「リーダー」といってもいい。集団現象の動態において、個々人は自覚的に「自己」(self)としてそこに参加しているだろうか。特に「個人」が社会的な通念として成立する以前の社会現象においては、参加している個々の自己は、「原自己」の状態で振舞っていたのではないか。

 

 

【記事に登場した本の一覧】 

時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

 

 

葉隠 上 (岩波文庫 青 8-1)

葉隠 上 (岩波文庫 青 8-1)

 

 

 

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

 

 

 

存在と時間(一) (岩波文庫)
 

 

 

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡