正しいことは多数決で決められるか

 近頃、大衆(mass)や世論(public opinion)、公衆(public people)という言葉に敏感になっている。それらの言葉をもとにいろいろ想像力をはたらかして、考えることが増えた。たとえば下の記事もそのきっかけのひとつである。


SmartNews鈴木健【第2回】「コミュニティを構成する人間の”当事者性”の濃淡を可視化して、ニュースをパーソナライズする」 | 佐々木俊尚「ブレイクスルーな人たち」 | 現代ビジネス [講談社]

  

 みんなで何かを決めるというときに、その「みんな」の数が多ければ多いほど、調整の難易度は上がる。この調整こそが政治の本質であると考えるならば、「みんな」の規模、桁数が大きくなるにつれて、政治の難易度は上がる。「多数決による判断が正しいかどうか」ということについて考えるにあたって、あれこれ想像力を発揮する中で、「集合的知性(collective intelligence)」、最近では「集合知」という言い方の方が一般的であるが、そういうものについての議論が展開されたりする。情報や資源の分散処理の形態であるクラウドソーシングもまた、集合知を促すものと考えることができる。集合知クラウドソーシングについてしばしば紹介されるジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』も、そういう考え方を背景として書かれたものといえるだろう。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

 

  集合知については、個人的には西垣通の『集合知とは何か』やスコット・ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』の方が議論が厳密であるため好ましく思う。スロウィッキーの方は、アメリカのノンフィクションにありがちな、楽観主義に基づいて具体例をひたすら列挙するスタイルが前面に出ていて、読んでいて楽しくなったり希望が湧いてきたりはするかもしれないが、そういう効果はあくまで一時的なものにとどまり、あまり長い期間に渡って役に立つようには思えなかった。おそらくは数年以内に、この著作で示されたことは人々の口に上らなくなるのではないかと思われる。

集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)
 
「多様な意見」はなぜ正しいのか

「多様な意見」はなぜ正しいのか

 

  上の3冊のどれもそうだが、そもそもこういう議論は、ある共通の背景から生まれてきたのではないかと私には思える。それは「多数決的感性」とでも呼べるようなある種の感性が、とりわけSNSの登場と普及以降に、みんなのことをみんなで決めるという政治的意思決定の問題についての議論の方向性を、見えないかたちで左右しているのではないか。

 多数決については、どれくらいの規模が望ましいのかという問題を以前に記事で書いたことがあった。 

多数決のサイズ - ありそうでないもの 

 ネット上で互いに意見のやりとりができる場が誕生し、ウェブサイトやチャット、掲示板、ブログなどの形で多様化して以来、はじめはアクセス数やコメント数、続いてSNSの登場と普及以降は、Twitterではリツイート(RT)の数やお気に入り登録の数、Facebookではコメント数や「いいね!」の数という形で、ある個人の意見や主張が周囲からどのように評価されているかということについて、知らず知らずのうちに「数の大小」をもとに正しいかどうかを判断する、そんなある種の「判断の癖」ができあがってしまってはいないだろうか。別の言い方をするならば、SNSには人々を数の大小、多数決によって物事を判断させる、いわば「多数決装置」として機能している面があるのではないか。「SNSの登場と普及以降に」や「SNSには」という書き方をしたが、この多数決装置はここ最近の発明品ではない。それは以前から存在し、今でも存在している「空気」の別名であり、SNSはそれを可視化したり促進したりするはたらきがあるのではないか。

 ネットにおけるページへのアクセス数は、情報の価値について判断するときの基準として、今でも強力に支持され続けている。検索エンジンアルゴリズム(少なくとも以前のGooglePageRankアルゴリズム)においても、SEO対策やブログの運営においても、これを中心に議論が組み立てられている。それは「数の論理」であり、意識的にせよ無意識的にせよ、「より多くの支持を獲得した主張こそが正しい主張である」という価値観を強化する。或いは、本当に正しい主張というのはまだどこにも存在せず、想像力をはたらかせてこれから生み出されるものという発想がはじめから影を潜め(排除され)、タイムラインに下から上に積み重なるようにして並んでいる、過去の誰かの主張の群れの中から「正しいもの」を選択問題でも解くような感覚で評価するということが日常的になる、という事態が生まれてはいないだろうか。そこには選択しているようでいて、実は選択肢が初めから減らされてしまっているというある種の皮肉がある。

 こうしたことについて私が初めて考えさせられたのはイーライ・パリサーの『閉じこもるインターネットーーグーグル・パーソナライズ・民主主義』を読んだときだった。ある言葉を検索したとき、同じ単語でも検索結果が人によって違ってくる。それぞれの検索者のネット上での行動履歴をもとに、アルゴリズムが個人レベルで検索結果を調整*1した結果である。だから検索結果の中には、検索した当の本人も知り得ない、「排除されたり後ろに回された検索結果」が存在する。「選択」という行為において、本人の知識や認知上の制約ではなく、他者の創作物のしくみが原因となって、そもそも自分はどういう選択肢の群れ(母集団といってもいい)の中から選ぼうとしているのかが自覚できないという事態が生まれる。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

  「数の大小」や「数の論理」という言葉を使ったが、誤解のないように断っておくと、私は数字をもとに内容の正しさを判断することそのものが間違いだと言いたいわけではない。そうではなくて、多数決で物事の真偽や妥当性を判断するという議論の底で、「数の大小」や「数の論理」というようなものが、いわば通奏低音のように誰からも自覚されずに流れ続けている事態が問題ではないかということを言いたいのである。

 

音楽を聴く者は、必ずしも通奏低音をはっきりと意識しながら音楽全体を鑑賞しているとは限らない。しかしそれでも、通奏低音は鑑賞に確かな影響を及ぼしている。

 

SNSの流行以降に盛んに使われるようになった、「バズワード(buzz word)」や「拡散希望」といった表現は、この「多数決的感性」から生まれてきた言葉のように思えてならない。より多くの人々からの支持、賛同、「共感」を得ることに対する無意識的な欲求、願望。そういうものがこれらの言葉の根にあるとしたら、我々はこの感性を当初から自覚していただろうか。 

 ある事柄が正しいかどうかを集団で判断するという政治的な状況で、正しいことを多数決で決められる保証はない、と私は考えている。『集合知とはなにか』や『多様な意見はなぜ正しいのか』などの著作にはそれぞれに説得的な点はあるが、仮に全員が「Aが正しい」ということに納得したとしても、それはAが正しいということの証明にはならない。

 こんなことを言ってはどうしようもないではないか、と言われればそうかもしれないが、多数決的感性について自覚的であるだけでも、真偽の判断について「みんながそう言っているから正しいとは限らないしなあ・・・」という可能性に注意しながら考えることができるようにはなると思う。

 本当のことは、まだ誰からも提出されていないかもしれない。或いはそれは、多くの支持を得てはいないもので、目立たない隅っこで消えかかっているかもしれない。

 多数派が常に正しいと考えてしまうことと同様に、むしろ少数派の意見こそが常に正しいと考えてしまうこともまた正しくない。ただし少数派が正しいかもしれないという可能性が気付かないうちに初めから排除されてしまっているとしたら、それは偏見である。ここで「偏見」とは、それを持っている当の本人には自覚されていない、制限された視野くらいの意味だ。どこが見えていないのかがわかっていない、しかしその盲点の中に「正しいこと」がある可能性もある。

  多数決的感性に自覚的であることが大切だという、いわば姿勢や態度を強調して記事を終えることにするけれども、このテーマはもう少し深いものを内側に含んでいると私は考えているので、今後もこのテーマについてはいくつかの記事を書くことになるだろう。

*1:これについて、パリサーは「パーソナライズ」(personalize)という言葉を一貫して使っている。この言葉は別に彼女の造語というわけではなく、以前からあった言葉らしいのだが、彼女のこの著作をきっかけにして広まった。