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「多数決で正しいことを決める」ということ

コミュニケーション 東京 思想 内省 政治学 日常 情報科学 26歳

 近頃、「大衆(mass)」とか「世論(public opinion)」とか「公衆(public people)」という言葉に敏感になっている。それらの言葉をもとにいろいろ想像力をはたらかして、考えてみたりすることが増えた。たとえばこの記事もそのきっかけのひとつである。

 


SmartNews鈴木健【第2回】「コミュニティを構成する人間の”当事者性”の濃淡を可視化して、ニュースをパーソナライズする」 | 佐々木俊尚「ブレイクスルーな人たち」 | 現代ビジネス [講談社]

 

 

 「みんなで何かを決める」というときに、その「みんな」の数が多ければ多いほど、調整の難易度は上がる。この調整を「政治」と考えるならば、「みんな」の規模、桁数が大きくなるにつれて、政治の難易度は上がる。だからこそみんなの意見を多様化しないように、一定の範囲に管理するような形でいろいろな装置(マスメディア)が作られ、それは「世論」という形で利用されることにもなるのだし、一方で「タテマエ」としては「多数決による判断」という手段を使ったりもして、「それこそが民主的決定だ」という風に話を進めて、私たちが尊重する「民主主義(democracy)」とつじつまを合わせたり、あるいは「多数決による判断が正しいかどうか」ということについて考えるにあたって、あれこれ想像力を発揮する中で、「集合的知性(collective intelligence)」、最近では集合知という言い方の方が一般的であるが、そういうものについての議論が展開されたりする。クラウドソーシングという、情報や資源の分散処理の形態も、「集合知を促すもの」「加速させるもの」というような位置付けでそこに加わってきたりする。そういう流れ、そういう議論の「空気」の中で、「みんなの意見」は案外正しいというジェームズ・スロウィッキーの本が売れたりもした。

 

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

 

 

集合知」については、個人的には西垣通さんの集合知とは何か』(中公新書や、その中でも紹介されているスコット・ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』(日経BP社)の方が厳密な議論が展開されていて好ましく思う。

集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)
 

 

「多様な意見」はなぜ正しいのか

「多様な意見」はなぜ正しいのか

 

 

 ただ、どの本もそうだと思うのだが、そもそもこういう議論は、ある共通の背景から生まれてきたのではないかと思われる。それは「多数決的感性」とでも呼べるような、ある種の感性が、ネット上、とりわけSNSの登場と普及以降に、人々の想像力の方向性を、したがって「みんなのことをみんなで決める」問題(政治的意思決定)についての議論の方向性を、見えないようなかたちで左右しているようなところがありはしないか、そんな風に思えるのだ。

 

多数決については、どれくらいの規模で多数決するのがいいのかという「サイズ」の問題を以前に記事で書いたことがあった。

 

多数決のサイズ - ありそうでないもの

 

 

 ネット上で互いに意見のやりとりができる場が誕生し、それはウェブサイト、チャット、掲示板、ブログなどの形で多様化して以来、はじめは「アクセス数」や「コメント数」などの形で、続いてSNSの登場と普及以降は、Twitterでは「リツイート(RT)」の数や「お気に入り」登録の数、Facebookではコメント数や「いいね!」の数という形で、ある個人の意見や主張が周囲からどのように評価されているかということについて、知らず知らずのうちに「数の大小」をもとに正しいかどうかを判断する、そんなある種の「判断の癖」ができあがってしまってはいないだろうか。別の言い方をするならば、SNSには人々を数の大小、多数決によって物事を判断させる、いわば「多数決装置」として機能しているようなところがあるのではないか。「SNSの登場と普及以降に」とか「SNSには」という書き方をしたが、この「多数決装置」はここ最近の発明品ではない。それは以前から存在し、今でも存在している「空気」の別名であり、SNSはそのいわば「弟分」のような立ち位置にすぎないのではないか。

 

ネットにおける「アクセス数」というのは、情報の価値について判断するときの基準として、今でも強力に支持され続けている。検索エンジンアルゴリズム(少なくとも以前のGooglePageRankアルゴリズム)においても、SEO対策やブログの運営においても、これを中心に議論が組み立てられている。それは「数の論理」であり、意識的にせよ無意識的にせよ、「より多くの支持を獲得した主張こそが正しい主張である」という価値観を強化する。或いは、本当に正しい主張というのはまだどこにも存在せず、想像力をはたらかせてこれから生み出されるものという発想がはじめから影を潜め(排除され)、タイムラインに下から上に積み重なるようにして並んでいる、過去の誰かの主張の群れの中から「正しいもの」を選択問題でも解くような感覚で評価するということが日常的になる、という事態が生まれてはいないだろうか。そこには選択しているようでいて、実は選択肢が初めから減らされてしまっているというある種の皮肉がある。

 

 こうしたことについて私が初めて考えさせられたのはイーライ・パリサーの『閉じこもるインターネットーーグーグル・パーソナライズ・民主主義』を読んだ時だった。検索エンジンである言葉を検索した時の結果が、同じ単語でも一人一人違っているということが起きる。それはそれぞれの検索者の過去の検索履歴、ネット上での活動履歴をもとに、アルゴリズムが検索結果を個人ごとに最適化(パリサーの言葉では「パーソナライズ(personalize)」)した結果である。だから検索結果の中には、検索した当の本人も知り得ない、「排除されたり後ろに回された検索結果」が存在する。「選択」という行為において、そもそも自分はどういう選択肢の群れ(母集団といってもいい)の中から選ぼうとしているのかが自覚できない、という事態が、本人の知識や認知上の制約が原因ではなく、他者の創作物が原因となって生じる。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

 

  

ここで「数の大小」「数の論理」という言葉を使ったが、誤解のないようにことわっておくと、私は「数字をもとに内容の正しさを判断することそのものが間違いだ」ということを言いたいわけではない。そうではなくて、多数決で物事の真偽や妥当性を判断するという議論の底で、「数の大小」や「数の論理」というようなものが、いわば通奏低音のように流れ続けている、そういう事態が問題ではないかということを言いたいのである。

 

音楽を聴く者は、必ずしも通奏低音をはっきりと意識しながら音楽全体を鑑賞しているとは限らない。しかしそれでも、通奏低音は鑑賞に確かな影響を及ぼしている。

 

SNSの流行以降に盛んに使われるようになった、バズワード(buzz word)」拡散希望といった表現は、この「多数決的感性」から生まれてきた言葉のように思えてならない。より多くの人々からの支持、賛同、「共感」を得ることに対する無意識的な欲求、願望。そういうものがこれらの言葉の根にあるとしたら、我々はこの感性を当初から自覚していただろうか。

 

 「ある事柄が正しいかどうか」ということを集団で判断するというとき、言い換えれば政治的な状況において、多数決で真偽が判断できる保証は存在しない、と私は考えている。集合知に関して上に挙げたような著作にはそれぞれに説得的なところはあるけれども、あえて極端な言い方をするならば「仮に全員がそれが正しいと『納得』さえした」としても、やはりまだ「それが正しい」ということの証明にはならないと思う。まだ不十分である、と。

 

こんなことを言ってはどうしようもないではないか、と言われればそうかもしれないが、多数決的感性について自覚的であるだけでも、真偽の判断について「みんながそう言っているから正しいとは限らないしなあ・・・」という可能性に注意しながら考えることができるようにはなると思う。

 

 本当のことは、まだ誰からも提出されていないかもしれない。或いはそれは、多くの支持を得てはいないもので、目立たない隅っこで消えかかっているかもしれない。

 

多数派が常に正しいと考えてしまうことと同様に、「むしろ少数派の意見こそが常に正しい」と考えてしまうこともまた正しくはない。ただし「少数派が正しいかもしれない」という可能性が気付かないうちに初めから排除されてしまっているとしたら、それは当然「バイアス」、偏見ということにならざるを得ないだろう。ここで「偏見」とは、それを持っている当の本人には自覚されていない、制限された視野くらいの意味だ。どこが見えていないのか(盲点)がわかっていない、しかしその盲点の中に「正しいこと」がある可能性もある、と。

 

今回は「多数決的感性」に自覚的であることが大切だ、という、いわば「姿勢」「態度」についてのところを結論として記事を終えることにするけれども、このテーマはもう少し深いものを内側に含んでいると考えている。そういうことについての思考の展開は、また別の機会に譲ろうと思う。