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集団で決めること

 集団で正解を考え、判定すること、つまり「民主的手続きによる決定」において、集団の中ではたらく力学と、議論の参加者の間で著しい情報の非対称性が存在する状況での情報強者の役割について考えている。それは互いに異なる者どうし、私と他者との相互作用のひとつの場合についての考察である。

 

 以前に書いたある記事では、「ジグソーパズル」の比喩を用いて、集団で問題を解くということを考えた。予め答えがわかっている問題ならばともかく、そうでない問題の場合に対して、どう対処するかということを組合せ論なども意識しながら書いた。

箱に答えが載ってないジグソーパズルについて - ありそうでないもの

 

 また別の以前の記事では、個々人が自分の意見を表明しにくい、複数の分野にまたがる専門的(分野横断的・学際的)な問題についての集団的な決定を扱った。議論の参加者の多くが答え合わせを行うことができない状況では、一見民主的なようでいて、その実民主的とは言い難い形で決定がなされてしまう事態に焦点を当てた。そこでは一人、或いはごく少数の参加者が他の多くの参加者と非対称な関係になり、一方が他方に追随(フォロー)するという状況が生まれる。

答え合わせのないまま進む議論と、それについていく人々 - ありそうでないもの

 

 

 メディアを通じてある意見なり主張なりが多くの人に伝えられると、それが「噂(rumor)」或いは「口コミ(words of mouth: WOM)」という形で多くの人の間を駆け巡るようになる。こうして社会の中で「伝言ゲーム」が始まるとする。

 

 例としてはSTAP細胞問題憲法改正問題芸能人の離婚の背景など、ありとあらゆる世論が挙げられる。それらについて、伝わり方の形式だけを取り出してみるとどんなことがわかるか、またそれは伝えられる内容とどのような関係があるのか、そういうことを考えてみたい。

 

 こんな風に話を始めよう。もし、この伝言ゲームの過程で、メッセージを伝える個人が「内容の一貫性(coherence)」(つじつまが合っているかどうか)にこだわり、初めに伝えられたメッセージがそもそも「間違い」だったとしたら、話のつじつまをなんとか強引に合わせるために、人から人へ伝わる間に間違った脚色が加わりながら伝わっていくのではないか。それを考えるための叩き台として「トイモデル」を考えたくなったのである。

 

以前にも、対話を通じて他者に何かを伝えるということについてモデルを考えた。

対話を通じてなにか伝えるということ - ありそうでないもの

 

 直感に反するようだけれども、伝言ゲームでは正しいことは最後まで内容が変わらず、間違ったことの方がむしろ途中で内容が変わりやすいのではないか。

 

 正しいことは、確かに伝言ゲームに滅多に現れないかもしれないが、一度現れれば案外正しく伝わり続ける。それに対して間違ったことというのは、正しければ無理をしなくて済むところを、強引につじつまを合わせなければならなくなるから、人によってその「つじつまの合わせ方」(何を根拠とするか)が異なるために、脚色によって根拠が変わってしまいやすい。そして根拠だけでなく、いつの間にやら「内容それ自体」(メッセージの本体)も変わってしまう、そういうところがあるのではないか。そうだとすると、「正しいことは強く、間違いは脆い」という、ある意味では希望が持てそうなところがあるとも言える。

 

 「正しいこと」というのは、見つけることや理解することが難しくても、一度見つけたり理解したりすれば、簡単に覆ることはない。それはパラダイムが簡単に変化しない原因でもある。

 

「間違ったこと」というのは、どうしても混乱を生みやすい。なにしろ間違っているのだから、「どうしてこれが正しいのか?」という疑問が生まれやすい。それでも伝える本人は「正しい」と思いこんでいるわけだから、なんとかそれが正しいと言える「根拠」を考える。過去に偉い人がそう言っているとか、評論家の◯◯さんがそう言っている、とか、この本にそう書いてあった、テレビでそう言っていた、とか。ここにはもちろん負荷がかかる。つまり、

 

りんごでないものをりんごに見せ続けるのは難しい。

 

 自分にメッセージを伝えた人は、「なぜそれが正しいのか(正しさの根拠)」について言わなかったかもしれない。それでも「いや、きっとこういう根拠でこれが正しいと言えるのだ。そう考えればつじつまが合うではないか」という風にして「納得」する。そうやって間違いの「正しさ」の根拠は、ある人から別の人へ伝わるにつれて変化していく。そして根拠の方が変化するに伴って、メッセージの内容(本体)の方も、変化した根拠の方に引きづられるようにして変化していく。

 

 これは記号化して表すとしたらこんな風になるだろう。これが「伝言ゲームのトイモデル」ということになる。

スタート地点:S

ゴール地点:G

根拠(basis):b

でそれぞれ表し、メッセージについて内容は括弧をつけて

正しいメッセージ(Correct Message):CM (X is A. b: "a")

間違ったメッセージ(Wrong Message):WM (X is B. b:"b")

という風に表すことにする。

ここから、メッセージの内容や、その正否の根拠の変化については次のように表せる。

①S:CM (X is A. b: "a")→CM→CM→・・・→G:CM (X is A. b: "a")

②S:WM (X is B. b: "b")→WM (X is B. b: "c")→WM’ (X is C. b: "c")→・・・→G:WM’’’’’’(X is P. b: "m" )

メッセージ内容やその正しさの根拠が色の変化で表されている。 

 

 ここでは正しいメッセージの方は内容が全く変化しないとしている。現実には正しいメッセージであっても変化することはあるかもしれない。しかしその「変化の程度」というのは、間違いの方に比べれば甚だしく小さいだろうと思われる。それは上述のように、内容を支える「根拠」の方が変化しにくいためだ。

 

 それでは、社会の中で伝言ゲームが始まるときに、「何かを伝える最初の段階で、正しいことを正しく伝えられる人間がいなければならないか」(知性の優れた判断者)という方向で考えていけばいいのか、或いは「いや、初めに間違っていたとしても、途中で多くの人の間を通り抜けていくにつれて、メッセージは正しい方へ修正されていくものだ、そういう機構を組み込めば解決するだろう」(仕組み、或いはシステム)という風に考えればいいのか、この辺りはどうだろう。この記事では特に前者(知性の優れた判断者)について検討し、後者についてはまたの機会に考えたい。

 

「知性の優れた判断者」については、先日書いた記事とも関連してくる。

知性と権威とメディアについて - TOKYO/26/MALE

 

 メディアを通して知性が正しく理解されることを期待するのは難しい、と私は考えている。いま「難しい」と書いたが、それは「不可能だ」という意味ではもちろんなく、「時間がかかる」くらいの意味だ。だから知性の優れた判断者に多くの人間が任せるという風には、実際にはなりにくい。時間がかかってしまって、問題を解決するために手を打たなければならなくなるときまでに、間に合わなかったりするのだ。

 

 その代わりに「わかりやすい説明をする人間」に任せるということはよくあるが、説明がわかりやすいからといってそれが正しいとは限らない。

 

 よく「本当のことはシンプルだ」というような表現がなされる。それは例えばアインシュタイン相対性理論の方程式(E=mc^2)などを持ち出して正当化されたりする。しかし、正しいことの説明がわかりやすいという保証はないと私は思う。少なくとも初めからそう決めてかかることができる根拠は存在しない。もしかしたら本当のことは複雑かもしれないのだ。ここで誤解や混乱のないように書いておくと、オッカムの剃刀の考え方は妥当だと私は考えている。つまり同じ内容を表す2つのモデルがあったとしたら、よりシンプルな方を採用すべきである。しかし注意すべきなのは、たとえそうだとしても、だからと言って「オッカムの剃刀」が、「モデルがシンプルである」という保証にはなりませんよということだ。

 

 そしてもう一つ注意すべきなのは、「本当のことが簡単である」という保証がないからといって、「本当のことが難しい」というのが正しいということにはならないということだ。つまり、簡単だと決めてかかるにせよ、反対に複雑だと決めてかかるにせよ、初めから特定の可能性を恣意的に高く見積もり、他の可能性を排除することは思考を歪めるもとだ、ということだ。もちろん「直観」ということと関係させて考えると、人間がこういう「歪み」から完全に無縁でいることは難しい。「直観」とはいつでも、特定の可能性を他の可能性よりも高く評価するようなはたらきとして現れるからだ。

 

 様々な理論の中で、複雑なものが占める割合が少ないのは、単に「使いにくいから」という実践上の事情だけが理由なのではなくて、人間が「そういうものは理論の本来の姿ではないはずだ」として恣意的に遠ざけてきたから、ということもあるのかもしれない、そういうことは大いにありうる。特に「科学」と名のつくものにおいては、「理論のエレガントさそれ自体」に酔いしれ、新たに研究される対象についても「エレガンス」が初めから恣意的に前提されていたりする。もちろんそれは科学の地位を貶めることにはならない。科学的であろうとするならば、人間の思考におけるある種の「歪み」に対して自覚的であるべきだと思う。そして、真実が常に美しい姿をしているとは限らない。

 

 このように、個人の内面のレベルで生じうる判断のバイアスが、集団のレベルで相互作用するという形で、伝言ゲームは展開される。そこでは個々のバイアスの振る舞いとその相互作用ということを考えなければならない。それは「メッセージの内容」とその「正しさの根拠」の二つを、どう結びつけるかについての、各人のやり方が多様であり得るというところに注目すると、すっきり理解できるのではないか、というのが伝言ゲームのトイモデルの意図するところである。