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答え合わせのないまま進む議論と、それについていく人々

近頃、知識や思想、体系の伝わり方ということについて、心配に思うことが多い。

 

 例えばある著名な人の講演会やトークライブなどで、専門知識のない人が専門家同士の議論を聞いていても、内容が専門的でどちらが正しいか判断できないということがある。専門家が数人いる場合、その中の一人が間違ったことを言ったとして、それを他の専門家が「いや、それは違う。そこは◯◯だ。」と訂正できるならまだいいが、専門家全員が間違った見方を持っていたら、聴衆も含めてみんな不正解を信じる結果になってしまったりする。それはもう見ていて心苦しい。

 

 経済学が専門ではない人が、経済学で博士号を取った人の議論を聞いていても、自分が博士号を取ったわけではないから、議論のどこが正しくて、どこが誤りか、その判別ができなかったりする。しかももし、その経済学の博士号取得者が、話の中で政治のことを取り上げ、それについて意見を言い、それが間違っていたとしても、議論の他の参加者や聞いている者の中に政治が専門である人間がいなかったら、不正解が拡散されるだけになってしまう。

 

 議論ならばまだましで、ある人が一人で書いた書籍を読むという場合であったりすると、いかにそれが経済学的に間違ったものであったとしても、経済学が専門でなかったらそれに気づかないまま、場合によっては「大いに共感」したり「感激」したり「傾倒」したりする。経済や政治、それから宗教でそういう場面をよく目にするように思う。

 

すべてのことについて、専門的なレベルまで学ぶということは、時間が足りなくて不可能かもしれないが、せめて、感情や気分に流されるだけではなしに、筋道立ててものを考えること、一つは「専門」と呼べるようなものを持ち、それについて他者と話し合ったり自分なりの意見が言えること、「直観」を持てるくらいにはそれについての蓄積を行うこと、そして何よりも結論や解決策、処方箋を他者にあずけるのではなく、自分の頭で考えること。

 

・・・というようなことは、これまでにも指摘されてきた。しかしそれとは別で、議論や書籍について、「答え合わせの担保」をもう少し確実に行うことはできないものだろうか。ちょっとした知識ならばWikipediaで調べれば見つかるが、やはり専門書の方が心強いし、仮にWikipediaにしても日本語の記事よりは英語の記事の方が質が高いことが少なくない。

 

間違いを恐れて議論が始まらない、進まないというのも困りものだが、間違ったまま進み続けるよりはマシであろう。そうして進み続けて、周りの者たちまでもがその「不正解」を素朴に信じてしまうよりは。

 

なんらかのうまい仕組みが作れないものかと考えている。