アイドル・偶像・ヒーロー

 ある個人の心の隙間に入り込むものについて、以前に記事を書いた。そこでは個人の絶望や断念が、心のうちに隙間を生み出し、他者と連帯していく事態を中心に記した。それに対して今回は、絶望や断念が、特定の他者のもとに帰属し直す事態、つまりアイドル・偶像・ヒーローを考える。

こころの隙間に入り込んでいくもの - ありそうでないもの

  

 子供から大人に移り変わる過程で、自分が自分の思い描く理想的な存在、平たく言えば「ヒーロー」になれるタイプの人間かどうかということについて、最終的な判断を迫られているように感じる時期というのがある。ウルトラマン仮面ライダーなど、ヒーローのイメージは様々だが、ある時点で「自分はそういうタイプではない」と納得する(諦める/悟る)ときがやってくる。一部の人間を除く、大多数の人々にとっては。

 

 ヒーローという存在は希少なものだ。誰でもヒーローになれてしまうと、ヒーローらしさがなくなってしまう。ごく一部の限られた人間、それは例えばものすごく才能があったり、幸運であったり、強烈な経験をバネにどん底から這い上がったりという風に、「どこか普通とは異なるタイプの人間がなるもの」ということが暗黙の前提とされている。希少性はだから、ヒーローの定義にあたって、必須の要件として含まれている。そしてそれゆえに、多くの人は、自分自身がヒーローになることを断念したり、そもそも考えることさえしないのではないか。そして多くの者が、「特別な他者」にヒーローであることを託す、あるいはヒーローを待望/期待/希望するという立場に立つことになる。

 

 ヒーローは、「選挙」のように、複数人が大多数の人間の支持を巡って互いに椅子を奪い合うということはせず、最初から単独の存在として生まれることが多い。ある個人を選挙で選ぶということは、ある程度のグローバルな規模を必要とするのに対して、ヒーローはローカルなところで誕生する。いわば井の中の蛙としてしか始まり得ない存在として、ヒーローはある。もしイエス・キリストのすぐ近くに釈迦がいたらどうなっていただろうか。あるいは桃太郎のすぐ隣に金太郎がいたら、スターリンの目と鼻の先にヒトラーがいたら……挙げ始めるときりがない。彼らはいずれもローカルな存在として、選択の結果ではなく、いわば「必然」*1として成立した存在だった。「この人とこの人とこの人の中から最も望ましいと思われる人間を一人選ぶ」ということは、端的に言い換えて「集団的選択」(collective selection)ということは、常にある広い範囲の集団内で、ある程度以上に情報が共有されていることが必要である。この「広い」ということを、ここでは「グローバル」と呼んでいる。それに対してヒーローは、「選択」という契機との関わりでいうならば、選択以前の段階で生まれてくるもので、一人しかいないときにその一人がヒーローとして浮かび上がってくるという構造になっている。このように、初めから相対化の契機を欠いた存在として生まれてくる、絶対的存在としてヒーローはヒーローたりうるという風にまとめることができる。そして、ヒーローはアイドルと重なるところがある。ここで書いた「アイドル」とは、「偶像」という本来の意味でのそれであるが、通俗的な意味でのアイドルという意味でも議論の本質にそれほど影響はない。そして多くのアイドルが、それを信奉する個々人にとって唯一無二の存在、他とは比べることすらできないような位置を占めるのは、ヒーローと重なるところがあることと深く関係しているように思われる。

 

 大多数の人間から特定のイメージを託された存在としてのヒーローは、かならずしも初めから具体的な個人と対応する明確な形をとっているとは限らない。むしろヒーローに関する大多数の個々人のイメージは、初めはきわめてファジーであって、ヒーローと後に呼ばれることになる特定の個人の、本来の人物像とは乖離する場合が一般的ですらある。これは「偶像」という意味での「アイドル」よりもむしろ、世俗的な意味での「アイドル」が、かならずしも当人のありのままの姿ではなく、ファン(支持する大多数の人々)の期待する何らかのロールプレイを的確にこなすことのできる存在として成立しているという事情を想起するとわかりやすい。

 

 ヒーローとその支持者の関係を考えてみると、支持者たちがそれぞれの人生のどこかの時点で断念した思いは、消えて無くなることはなく、ヒーローに託されている。いわば「思いの質量保存」とでもいおうか。もし100人の支持を得ているヒーローがいるとしたら、彼は100人が過去に断念した思いをその身に受け止めなければならなくなる。受け止めていないと支持者が感じてしまえば、そのような不信感がある臨界値を超えたところでヒーローは途端に無きものとされ、それどころか支持者たちから強烈な打撃をうけることになる。それは一方的に託した期待が裏切られたと感じたことへの報復であり、怒りと失望、悲しみの入り混じった打撃ということなのだろう。

 

 ヒーローが希少な存在であるがゆえに、大多数の人間の思いは「断念」という契機によっていったん「住所不定」になり、自らの新たな帰属先を探し回り、やがてローカルには単独の、グローバルには複数の個人のもとに集中して像を結ぶ。ある個人のもとに像が結ばれると、そこから衆人環視のロールプレイが始まる。「ロール」(役割)というのは、必ずしもいつも明確であるとは限らない。あるいは支持者の側から、ヒーローと呼ばれる特定の個人に向けて、それがきちんと伝わっているとは限らない。支持者たちの「見えない願望」を、ヒーローたる個人は「自らのロール」と定義してうまく立ち回らなければならないということがほとんどだ。ロールは、常に首尾一貫した、あるいは整合性があるという保証はない。大多数の人間が、それぞれの人生のなかで断念した思いがその原型であるのだから、その個別性ゆえにロールは得てして多様であり、互いに矛盾や緊張を孕んだものになりやすい。そして、他者の潜在的願望の受け皿としての存在という条件ゆえに、ヒーロー個人の真の姿が露わになることはないし、またそれが期待されることもないのは、ある意味では自然である。それはむしろ、ヒーローがヒーローであることにとっては「ノイズ」であるとすら言える。このような事情を考えると、ヒーローがヒーローであることは、必然でも自然でもなく、あやうい均衡の上で成立する「綱渡り」的なものだといえる。そしてそのような事態がヒーローの成立条件をなしている。

 

 ネットで政治家や著名人などを初めとする特定の個人がバッシングされているのを見ていると、「多が一に結実する現象」としてのヒーロー誕生が、上述の成立条件ゆえに、不可避的に引き起こす問題がないかということを考えさせられる。「ヒーロー」と、選択によって成立する「代表者」とが混同されてしまったときに、問題が生じるのではないか。両者は成立の条件が全く異なっていながら、多数の人間の願望を引き受け、彼らの下でロールプレイを要求される点で同じであるという事情によって、混同されることになるのではないか。大多数の人々が、それぞれの人生のそれぞれの時点で断念した願望が特定の個人のもとに像を結んだ産物としての「ヒーロー」は、人間が願望を抱くかぎりは必然的・不可避的な存在なのだろうか。もしそうだとするなら、混同の問題を避けるためには、民主的な手続きによって代表者を選ぶという政治的意思決定と、ヒーローの発生との峻別が必要ではないか。

 

 あるシステム(経済的な側面に限って考えるならば「資本主義」)があって、それは大多数の成員の願望が実現されることを妨げるように展開されるものだとするならば、その同じシステムの成員たちの手によって、民主的な手続きを経て選ばれた代表者が、ヒーローと誤認される事態は常にありうるものとして存在し続けるということにならないだろうか。初めから絶対的であり必然的であった「ヒーロー」と、初めは相対的で、必然的ではなく、それでいて結果的には必然的と言えなくもない「代表者」。システムの内側で、大多数の成員の中から登場する、異なる2種類の「一者」(the oneの峻別は、うまくいかない場合が少なくないと感じさせられる。

 

*1:「必然」と書くと、決定論的(deterministic)な響きがあるが、必ずしもそうとは限らない。人間を媒介として必然が捉えられる場合には、「偶然」に決まったがゆえに、後から振り返ってみるとかえってそれが「必然」であったと思えるような場合がある。特にその偶然というのが、確率的にかなり希少である場合は特にそうである。東日本大震災は、確率的にはほぼゼロに近い確率でしか発生しないと思われていた規模の地震であったがゆえに、かえって「ある種の人間の営みが引き起こした必然的な現象であった」という風に解釈されるようになっている。「想定外」とされるような事態に直面すると、人はかえってそれが必然であった、遅かれ早かれ起きる「不可避の事態」であったという風に、後から解釈しがちである。