わたしたちは他者を獲得できるのだろうか

  昨日から今日にかけて、こういう動画を見た。


[full]島田雅彦 × 茂木健一郎 脳と文学〜茂木健一郎の講義 - YouTube

 この対談の中で、島田がいう「象徴システム」とは、ある個人や集団の実存を支えたり、その行動に動機を与えたり方向づけを行ったりするような体系であって、その体系は何らかの象徴を核として作られている。戦後日本における象徴システムの中身はといえば、日米安保天皇制であり、欧米であればキリスト教や資本主義であり、どの宗教も自らのうちに何らかの象徴システムをもっていると島田は述べる。

 茂木のいう「リフレイン」や「反復」は、個人と集団のどちらのレベルでも起こっている。個人のレベルであれば、いかにして望ましくない反復を終わらせるか、けりをつけるかということが個人の意思の力に託されることになるが、集団のレベルではそうはいかない。集団の内部では個々人の意思や力が複雑に絡み合い、全体として一つの意思や力が生まれ、それは個人の意思のようにコントロールすることができないため、意思の力に託すのは難しい。ルソーは、集団の問題を解決するための装置を作るための欠かせない要素として「一般意志」というコンセプトを考え出し、これをもとに社会契約論を展開して問題の解決に賭けた。しかし、選挙ポスターや記者会見、国会中継などで目にする議員と同じようなレベルで、一般意志に対してリアリティーを感じるのは容易ではなく、人はリアリティーを感じないものに動かされることはなかなかない。意思は特定の主体を想定して初めて機能するものであって、主体を想定できないところで意思を機能させることは困難だ。そうだとすれば、一般意志を機能させる主体をわれわれは想定しうるだろうか。それはたとえば吉本隆明が「共同幻想」と呼んだ存在とも、或いは代議制における国民議会とも異なるように思われる。

 個人の場合は、<他者>の視線が自らを俯瞰するものとして機能するが、集団の場合には、<他者>の視線を想定することができない。その個人にとっての他者もまた、集団の内側に存在しているからである。

 もちろんある国の集団にとっての「他者」ないし「異邦人」との邂逅を通じて自らが相対化され、また自分で自分から距離をとるという身振りがとれるようになる可能性もないわけではないが、歴史的にはむしろ、ある国の集団にとっての他者というのはしばしば敵として認識されることが多く、自らの抱えるトラウマや悩みを俯瞰する主体として想定されることはない。とりわけ資本主義の成立以降、ある国の集団が他の国の集団を見る場合には、経済格差を起点として資源(資本・労働・土地)収奪の対象、ないし貿易を通じた相互依存の取引相手と捉えられることが常態化していった。

 前者の場合、文化を通して、自国による資本・投資を通して、或いは企業の掲げるブランドや製品を通して、収奪のシステムが機能するという風にして二国間の関係は維持されるようになった。そこで問われる「価値」といえば、割引現在価値であり、期待利得であり、ナッシュ均衡解であり、二回微分がゼロとなる資源の水準で提供される生産量であった。価値は経済学の論理に基づいて決定され、それは価値自体がどうかということではなく、つまり何らかの実体的・必然的な価値などというものはなく、その時その時の市場のプレーヤーの相互作用の最適解として想定される「点」に過ぎないと見なされるようになった。

 それでは日本国民という集団にとって、俯瞰的な視点を提供する存在としての<他者>として安倍総理を想定することは可能だろうか。これは代議制という問題と不可分であって、国民全体から<他者>と想定されることは難しい。安倍総理は、よく見積もってもせいぜい支持率の割合の人々から<他者>と想定されているにすぎない。

 代議制民主主義においては、不可避的に生じる民意の分裂は、単一の<他者>を想定することを困難にしている。<他者>と代議制民主主義とは、そうした逆立を潜在的に抱えた危うい関係の上に共存しようとしている。民主主義においても、人々は自らの集団レベルの失敗やトラウマを克服することを可能にするために、精神科医の存在を必要とする。精神科医は主体を俯瞰する者であり、<他者>である。

 批評家はかつて精神分析医であったかもしれないが、今や資本主義の中にいる。中にいる者がそれを俯瞰することは極めて困難であり、中にいれば、嫌が応にもその振る舞いはシステムの側からの一定の縛りを受けることを免れない。資本主義と民主主義という二重の鎖に縛られた中で、われわれは<他者>を獲得することができるだろうか。