対話の条件

 

きっかけと補助線

 対話には、自分と相手の両方が対等に考えを述べられるという条件が必要だ。当たり前といえば当たり前のことであるが、この条件を満たしていないのにさも対話であるかのように扱われているものが多いと感じるので記事を書くことにした。これはもう数年に渡って感じ続けていることでもあり、以前にも別の記事*1で触れたことは何度かある。私が対話の条件を考えるようになったきっかけは、以前に個別指導の塾で働いていたときに、ひと回り歳が下の生徒たちと毎日話した経験と、プラトンをいくつか読んだ経験のふたつが大きいだろうと思う。他にもジリアン・テットの『サイロ・エフェクト』を読んだ経験も影響しているとは思うが、上の二つに比べれば影響は小さいと思う。

 対話の条件について考えるために、2本の補助線を引く。一本は先生と生徒の関係、もう一本は反証可能性である。

先生と生徒の関係

 先生と生徒の関係は、一方が他方に対して納得がいくまで説明できて初めて成り立つ関係だと私は思う。それは歳の差でも、教室の中の位置関係でも、スーツと制服の違いでもない。だから、初めからどちらかが先生のような顔をしているのは、本当はおかしいことなのだと思う。そんなおかしなことが当然のように成り立ち、それがずっと続くうちに、初めから生徒とされた側が自分の頭で考えることをしなくなるのではないか。その関係は、前提ではなく結果として決まるものであると私は思う。個別指導の塾で生徒と話していたとき、私は生徒の話に説得されたことも何度もあった。そのときの私は先生でなく生徒であり、生徒は先生だったのだと思う。そういうことは状況に応じて、あるいは話題に応じて、結果として決まる関係である。小学校から高校までは、先生と生徒の関係を前提と考えている先生が多かったように思う。それに対して大学では、それを結果と考える先生が多かったように思う。両者の違いは、謙虚であるということの意味をどう捉えるかの違いなのかもしれない。

 先生と生徒の関係自体が悪いわけではない。それを前提として対話をすることが悪いのだと思う。対等な立場で対話を進めて、最後にどちらかがどちらかの語ったことに納得したならそれでいい。しかし、納得する前に対話が終わってしまったらどうか。先生と生徒の関係を前提として捉える場合には、しばしばそういう事態が起こる。それでは対話とはいえない。

反証可能性

 ここで少し視点を変えて、対話の条件について考えるために科学の条件について考えてみる。反証可能性(falsifiability)のないものは科学でないとカール・ポパーは述べている。科学において、反証ができるためには自分と相手に共有できることを前提に論を展開することが求められる。そのために温度や速度、位置、電圧などの客観的な量をもとに議論をすることになる。科学であれば客観的な量を使うことが求められるが、反証可能性の条件を客観的な量に限定せず、もう少し一般化すると、反証ができるためには対話が必要であって、反証可能性がなければ科学以前に対話が成り立たないといえる。講義と区別がつかない対話はある意味で宗教と変わらない。聞き手は自分で考えず、ただ語られたことを信じるだけになってしまう。ここで、私は宗教を非難しているわけではないことに注意してほしい。実質的に宗教と変わらないことを、さも宗教とは関係ない科学的な議論であるかのように語ることが問題なのだ。宗教なら宗教とごまかさずに堂々といえばいい。

対話の類型

 対話のスタイルはいくつか考えられるが、ここでは特に専門家と素人の対談、講演会、そして専門家どうしの対談の3つの類型に分けて考える。

専門家と素人の対談

 誰かと誰かが対談する場合、どちらかが専門家でもう片方はただの素人ということがある。これでは対話は成り立たない。これは対話だといくら言ったところで、それは単なる講義にすぎない。なぜなら専門家の側が言ったことに対して、素人の側は反論のしようがないからだ。反論のしようがないときに、相手に勉強不足だと言っても意味がない。それならそもそも対話などせずに、一方的な講義をしていればいい。もしも専門家と素人の間の対談が、反証可能性を欠き、前提としての先生と生徒の関係と同じような関係で行われてしまったなら、それは対話とはいえない。そもそも、専門家と素人という関係は明らかに対等でないから、その関係を前提とするなら両者の間で真の対話は成り立たない。これはすでに述べた通り、先生と生徒の関係を前提として捉えることと同じである。

 また、この類型の対話は、後に取り上げる専門家どうしの対談の類型の一部と通じる部分がある。この点については、その「一部」というのがどういうものかも含めて後に述べる。

講演会

 講演会はどうか。講演のあとで質問を受け付けることによって、講演者と聞き手の間に対話を成り立たせようとしても、そこに双方向性があるとはいえない場合が少なくない。そして双方向性がなければ、そもそも反証可能性などありえない。それは専門家と素人の対談の場合と同様に、ただの講義になってしまう。だからそんな講演は、開かれているようで開かれていない。開かれていること、言い換えればオープンであるということは、公開の場で行われているかが問題なのではなくて、その場にいる人間のあいだでお互いに反証可能性が担保されているかが問題なのだ。講演を聞く者のほとんどは専門家ではないから、質問に対して講演者が専門的に語れば、質問をした者には反証のしようがないから、いつも聞き手が同意して終わることになる。先生と生徒の関係の箇所で述べたように、聞き手が納得するまで対話が続くならいいが、講演会の時間は決まっているし、一人の質問者に与えられた時間にも制約がある。ソクラテスが誰かと対話するとき、対話は相手が納得するまで徹底的に続けられる。対話とはそういうものだ。

 講演会において、ときには専門家でなくても知性が十分にはたらく稀有な人間がいて、講演者を相手に的確な反証をやってのける場合もあるかもしれない。けれどもそんなことが起こるかどうかはやはり偶然であって、対話の前提として初めから反証可能性が担保されているとはいえない。これだけ多くの人間が集まっているなら、一人くらいはそういう知性を備えた人間がいるだろう。だから反証可能性は担保されているなどと考えることは単なる怠慢にすぎない。

専門家どうしの対談

 それでは専門家どうしの対談であればいいのかというと、ここにも落とし穴がある。対談する専門家の専門分野がそれぞれ異なる場合や、対話の中で触れられる専門分野について、どちらも専門外であるといった場合である。こういう場合には、たとえ対談に参加する者がいずれも専門家であったとしても、実質的には一つ目の類型、すなわち専門家と素人の対談と同じ状況に陥る。どちらも専門外であるような分野について専門家どうしが語る後者の場合などは、もはや素人どうしの対談と呼んで差し支えない。それは居酒屋のおしゃべりと変わらない。こういうことはよくあるが、どちらの場合も反証可能性がないから対話にならない。

 ではどうすればいいのかといえば、方法は2つある。いずれの場合でも共通の分野を専門とする人間を対話に参加させるか、専門性を必要としないようなしかたで対話を行うかだ。もしどちらの方法もとらずに上のような条件で対話が行われたとすれば、反証可能性に晒されながら何らかの知がその場で発展していくことは望めない。もちろん細かいことをいえば、その対談なり講演会なりの内容が書籍や動画などの形で記録され、それが多くの人間の耳目に晒されることによって、反証可能性が担保されると考えられなくもないが、実際は対話からある程度時間が立った後で反証を行う人間など少ないので、それで十分とはいえない。対話を対話として成り立たせるためには、対話しているまさにそのときに反証可能性が担保されているということが重要である。

 「形而の上と下」*2の中で、哲学は対話というスタイルをとって行われたということを書いたが、何も哲学に限らず、一般に人と人が共同で何かを知ろうとする営みにおいては、それに参加する人間どうしで反証できるように工夫がこらされなければならない。プラトンの作品の中でソクラテスが誰かと対話をするとき、彼はいつも、相手の知っていることに即して自分の考えを述べるという態度を一貫して持ち続けた。そこには相手に通じない専門用語など存在しない。専門用語を使うことがそれ自体として悪いのではなく、相手が反証できる可能性を奪うようなしかたで専門用語を使うことが悪いのだ。端的にいえば煙に巻くなということだ。

 ソクラテスの対話に限らず、私が塾で生徒と話すときにもそうだった。いかに専門用語を使わずに、専門的な知見を紹介するか。相手が中学生であれ高校生であれ、それは大学という高等教育への橋渡しは、生徒よりもむしろ、私自身にとって意味があったのかもしれない。しばしば言われることであるが、子どもにわかるように説明できなければ、本当に理解しているとはいえないということをしばしば感じた。それに対して、専門的なことは専門用語を使えば簡単に説明できる。それこそが専門用語を作る意義であるが、説明で楽をし続けていると、頭のはたらきが鈍る。

対話の条件と私のこだわり

 とはいえ、対話の条件についての私のこうした考えとうまく噛み合わないままになっている別の考えも私の中にはある。それは固有名詞に対するこだわりである。私が誰かと対話したり、あるいはTwitterで何かをツイートするときにも、固有名詞を使うよう意識している。固有名詞を置き去りにして、ひたすら抽象的な言葉だけを並べ続けると、原理主義に陥るのではないかという危機感を覚えるためである。こうしたこだわりと、対話の条件についてここまで述べてきたこととの間でどうバランスをとるか。私の中での暫定的な結論は、なるべく相手の知っている固有名詞を使うことを心がけ、もしも相手の知らない固有名詞を使った場合には、それについて説明すればよい。その場合、対話の時間は延びることになるが、それはしかたのないことだ。たとえば時間の決まった飲み会などの場では、こういう対話のしかたは実現しにくい。そういうこともあってか、私はずいぶん前から、3人以上の場で話をすることを好まない。

 何かについての自分なりの見解を、固有名詞を使って緻密に構成するのは、対話にはあまり向かない方法であるのかもしれない。それは講義になりやすい。だからそういう構成方法をとる場合には、私は対話でなく、むしろ文章として表現する方を選ぶ。これについても、一般に成り立つ原則とまではいえず、状況によっては固有名詞を使うことが望ましい場合もある。固有名詞を使った方が説得はしやすいということもある。だから、このことについては、私はもう少し考え続けなければならないだろうと思っている。