美容院を変える客と囚人のジレンマ

 もう一年以上前のことになるが、私が使っている美容院でスタイリストの方と話したことを書こうと思う。ちょうど今日、久々にその店でまた髪を切ったのだが、別のスタイリストの方とこの話をして、以前より話の筋がまとまったので、文章にすることができるだろう。

 美容院側は、客がどうして美容院を変えたのかを知ることができない。それを知ることができれば、客が離れないようになんらかの手を打てるかもしれない。客からの意見なり感想なりのフィードバックがあるかないかは、美容院側の対応の効率と質を大きく左右するが、各美容院は囚人のジレンマと同じ状況に直面しており、そのせいで必要な情報を得ることができないでいるのではないか。

 どういうことか、具体的なケースを想定してみる。二つの美容院Aと美容院Bがあり、ある客Xが美容院Aから美容院Bに変えたとき、美容院AのスタイリストたちはXが美容院Bに変えた理由を知ることができない。一方Bの方は、新規でやってきたXに対して、アンケートなどの手段を通して自分の美容院へ来た理由を聞くことができる。その理由を分析すれば、客が元の美容院を変えた理由がわかるかもしれない。しかし、美容院Bが競合相手である美容院Aとその情報を共有するインセンティブは存在しない。あえて教科書的にいえば、一般に市場経済では、競争を通じてよりよい企業が生き残るとされる。そこでは自企業の情報を他企業に教える企業など存在しない。競争上不利になるからだ。美容院Aと美容院Bが逆の場合でも同じことで、やはり競争という条件が他企業との情報の共有を妨げる。

 ところが、実は二つの美容院Aと美容院Bは、それぞれ新規の客に対するアンケートの情報を互いに共有することによって、どちらもよりよいサービスを提供できる可能性が高まる。ゲーム理論に沿っていえば、相手を出し抜こうとするよりも協力した方が合理的であるとわかっていても、相手が裏切った場合のことを考えてしまって協力できないでいる。典型的な囚人のジレンマの状況である。

 データベースを作り、店舗の垣根を超えてそれを共有すれば、何もしない場合よりも全ての美容院にとってプラスになるが、競争しているのだからそんなことできないとでもいうかのように、情報の共有は発生しない。だから店を変えた客がどうしてそうしたのかを示す情報のフィードバックは生まれないままだ。

 今日話したスタイリストの話では、ある美容院では店を離れた客に返信用の封筒も添えてハガキを送り、どうして店を変えたのかを教えてもらうよう促しているらしいのだが、1000通送って返ってくるのはほんの数通という程度らしい。10通で1%だから返信率は1%未満ということになる。これでは母数が少なすぎるし、サンプリングバイアス*1の可能性も否定できないため、統計的にも役に立たない。それならばまだデータベースの共有の方が確実だと思うのだが、現実にはそういうことは起こらないのだろう。なんとももったいない話である。

 もしも囚人のジレンマが当てはまるならば、対処法はもう決まっている。「抜け駆けなど考えず互いに協力するのがベスト」である。現実に協力が生まれないのは、当事者たちが自分の置かれている状況が囚人のジレンマだと気付いていないからなのか、それとも気付いてはいても協力を阻む要因があるということなのか判断がつかないが、少し希望が持てることはスタイリストの方から聞いた。なんでも昔に比べて美容師たちの店舗を超えた交流が活発化しているらしい。こういう交流を通じて客が美容院を変えた理由についてもお互いに理解が深まることがあればと思う。

*1:この例の場合、わざわざ返事のハガキを送ってくれる客というのはあらゆるタイプの客とはいえず、特定のタイプの客に偏っている可能性があるということになる。