ルールの役割について

 

 論理学はほんの少しかじった程度だが、それでも論理学は私にとって大いに役に立つ。あることについて考えるばあいに、間違った考え方をするのを避けられるからだ。近頃の私は、個別と一般の関係について考えることが多い。おそらくは家で過ごすことが多く、外に出て特定の問題にかかずらうことがほとんどないために、こういう抽象的なことを考えがちになってしまうのだろう。今回はルールの役割について、論理学における全称記号(∀)と存在記号(∃)の区別に基づいて考えようと思う。本題に入る前に、まずは全称記号と存在記号の区別から始める。

「一概にA」という言い方

 「一概にAだ」といえないことに対して、無理にそうだと決めつけるのは筋が悪い。けれども人はしばしば、この種の誤りを犯す。「XはA」と考えるか「XにはAであるものもあれば、Aでないものもある」と考えるかは大きく異なる。私がこの問題について考えさせられた最初の例は、「逆もまた真」という言葉だった。論理学によれば、あるいはそんなに大げさなことでなく高校の数Aによれば、ある命題が真であるとき、「対偶もまた真」は常に成り立つが、「逆もまた真」は常に成り立つわけではない。真か偽かはケースバイケースで決まる。しかし「逆もまた真」という言葉を、どんな場合にも成り立つ原則ででもあるかのように使っているのを時折目にする。単なる私の思い違いかもしれないが、もしもそうでないとしたら、これは一概にAとはいえないことを一概にAと考えるという過ちを犯している例といえる。

ケース1:長財布と知性

 具体例を二つ挙げよう。一つ目は「長財布で改札を通る人間は、まず間違いなく頭が悪い」について*1。このままでは論理学の枠組みで扱いにくいので、意味が変わらないように注意しながら「ある人間が改札を通るときに長財布で通るならば、その人間は頭が悪い」という言い方に変える。これを命題Pとすると、対偶は「ある人間が頭がいいならば、その人間は改札を通るときに長財布で通らない」となり、命題Pが真ならば対偶も常に真である。今度は命題Pの逆を考えると「ある人間が頭が悪いならば、その人間は改札を通るときに長財布で通る」となる。命題Pが真であるとしても、逆が常に真とは限らない。この場合、長財布で改札を通らない人間の中にも、頭の悪い人間がいるからだ。これが反例になる。

ケース2:秦王朝と官僚制

 一つ目の例はそもそも真かどうかが怪しい命題だったので、二つ目は明らかに真だといえるものを扱う。「世界で初めて官僚制を採用した国は、中国の秦王朝である」について。これも言い換えると「ある国が世界で初めて官僚制を採用した国であるならば、その国は中国の秦王朝であるといえる」となる。これを命題Qとする。これは確認できる歴史的事実であって、真である。対偶は「ある国が中国の秦王朝でないならば、その国は世界で初めて官僚制を採用した国とはいえない」であり、これも真である。逆は「ある国が中国の秦王朝であるならば、その国は世界で初めて官僚制を採用した国であるといえる」であり、この場合逆もまた真といえる。すでに述べたように、「逆もまた真」というのは、成り立つ場合もあれば成り立たない場合もあり、ケースバイケースである。

全称記号と存在記号

 冒頭で全称記号と存在記号についてと書いた割に、今のところどちらも登場していないが、下準備としてこれに関係することについてはすでに述べたので、以下でこの二つの記号について述べようと思う。

全称記号について

 全称記号とは「任意のXについて」という言い方で表現できることがらを記号で表すもので、「∀X」と表す。たとえば「任意の個人について、その個人はDNAによって髪や皮膚、目の色などの遺伝的特徴が表現されている」のように使う。全称記号とはその言葉の通り、全てのことがらに対して当てはまるような性質を述べるときに使う。「任意のXについて」は「全てのXについて」と言い換えて差し支えない。英語で考えた方がわかりやすければ、「for any X」とか「for all X」と表現できる。

存在記号について

 一方で存在記号とは「あるXについて」という言い方で表現できることがらを記号で表すもので「∃X」と表す。たとえば「ある個人について、その個人は日曜になると後ろ向きにしか歩かない」のように使う。全称記号に対して存在記号は、存在という言葉の通り、全てそうだというわけではないが、中にはこういうものもあるというようなものについての性質を述べるときに使う。こちらも英語で考えれば「for some X」と表現できる。

「一概にA」の話とどうつながるのか

 「一概にA」の話とこれらの二つの記号がどうつながるか、察しのいい読者や論理学に明るい読者などはすでに気付いたかもしれない。つまり、「一概にX」といえるものは全称記号を使って表現でき、「一概にX」とは言い切れないものは存在記号を使って表現することになる。冒頭で取り上げた「逆もまた真」という表現はどうかといえば、これは一概にそうとはいえないので、「ある命題については、逆もまた真である」とはいえるが「任意の命題について、逆もまた真である」とはいえない。∀ではなく∃を使うべきである。

 私は冒頭で「個別と一般の関係について考えることが多い」と述べたが、それについてここまでの話を踏まえていえば、「一概にA」と言えることや全称記号で表現されることは一般的に考えてよいこと、それに対して存在記号で表現されることは個別に考えるべきことであるといえる。個性があるものは、個別に考えるべきものであると考えられるが、人は一般に、ある問題について個別に分割して考えることが面倒であるために、本来は個別に考えるべきものでもひとくくりにして一般的に考えてしまう。そういう「手抜き」が偏見*2の生まれる原因のひとつであることは明らかである。目の前にいる人間が女性であると、その人個人を見ることなく「女性なんてどうせ◯◯」とか「これだから女は…」などと考える方が楽なのだ。個性と向き合うのは簡単でない。そして個性について本当に理解するためには、一般性についても理解しなければならない。けれども人間は一般に、ものを考えることを厭う存在であるなら、人間の判断は存在記号よりも全称記号を使って表現される方へ偏りやすくなる。人間には一般にそういうバイアスがあるのではないか。世の中に存在する、ありとあらゆることについての判断に対して全称記号と存在記号を割り当てていくと、おそらくは全称記号で表現されているものの中には、本来なら存在記号を使って表現されるべきものがかなり混じっているのではないか。

ルールの存在意義について

 ここまでは原則めいた話ばかりしてきたが、どうして私が全称記号と存在記号の区別などについてこのように真面目に考えているのかというと、それは私が以前から関心のあることがら、つまり法律やマニュアル、条例など、一般に「ルール」と呼ばれるものが存在する意義について考えるときに、この区別が重要な意味をもつと考えるからだ。どういうことか。それについて考える前に、まずはルールというものを分類することから始める。

 ルールには大まかにいって二つの種類があるといえる。一つはケースバイケースでの判断のコストを削減するという効率の観点から説明できるもの、そしてもう一つは、原則的に禁じられるべきという道徳の観点から説明できるものである。別の言い方をするならば、「そうした方がよいからそうする」(better)なのか「そうすべきだからそうする」(should)なのかの違いともいえる。冒頭から「一概にA」とか全称記号と存在記号の区別などの下準備を通して私が主に考えてきたのは、もちろん前者のルールについてである。以下ではこの二つの種類について、それぞれ例を挙げて説明を試みる。

効率の観点から説明がつくもの

 私は以前に、責任と意思の関係について扱った記事*3の中で、法律の存在意義について少しだけ触れたことがある。本題とは直接関わらないことがらだったので、その記事では簡単に触れるに留めたが、この記事ではルールの意味ということについて考えてみようと思う。その記事の中でもすでに触れたように、私はルールの存在意義は、ケースバイケースで個人が判断するコストを減らすことにあると考えている。信号の例がわかりやすいと思うので、信号の例を使って考える。

赤信号で渡ってはいけないということ

 「赤信号で横断歩道を渡ってはいけない」というのは、幼稚園児でもわかることだ。けれども赤信号を無視して横断歩道を渡る大人は今でも存在し続けている。私自身も、おそらくは保育園にいた頃にはすでに赤信号で横断歩道を渡ってはいけないということはわかっていたが、大人になった今でも、私は時として赤信号でも横断歩道を渡っている。そしてこれは私個人に限ったことでもなく、日本人に限ったことでもなく、アメリカやヨーロッパ、アジアでも見られることであるから、国や宗教、あるいは文化の違いとも関係なく起こる現象といっていいだろう。赤信号を渡ってはいけないというルールは確かに存在し、それは広く知られているのに、それを破る人間が後を絶たないという事実は、いったいどうすれば説明がつくのか。

 それは、「赤信号で横断歩道を渡っていいかどうか」ということは、本来はケースバイケースで判断すればいいことであるが、各個人にケースバイケースで判断してもらうよりも、一律に禁止しておいた方が事故を防ぐには効果的だと考えられるからではないかと私は考えている。赤信号ならいかなる場合であっても横断歩道を渡ってはいけないということを道徳的に根拠づけることなど、本当はできない。ときどき無理して道徳的に許されないという方向に話を進めようとしている人間を目にするが、側から見ていると無理を感じる。本人も本当は無理だと感じながら、それでも他の説明が思いつかなくてしかたなくそうしているのかもしれない。しかし端的に言って、苦し紛れの感が否めない。

 本当は、赤信号であっても横断歩道を渡って問題ないケースというのが存在する。全称記号と存在記号の区別に絡めていえば、赤信号のルールというのは本来は存在記号(∃)で説明されるべきものを全称記号(∀)に置き換えることによってルールが成立している例であるといえる。つまり、ある場合には赤信号でも渡ってよく、別のある場合には赤信号で渡ってはいけないという代わりに、すべての場合について、赤信号で渡ってはいけないと定めるのである。

 明らかに周りで車が走っていない場合に、赤信号を渡ることにどんな問題があるというのか。ここで「赤信号を渡ってはいけないということが法律で決まっているから」という答えは適切でない。それは「ダメなものはダメ」という単なるトートロジーにすぎない。トートロジーでもいいではないかと考える人間ならばそれでもいいのかもしれないが、あいにく私はその手のタイプではない。横断歩道を渡るときに、周囲の状況を確認して、渡っても問題ないと判断できる場合なら、渡ってもかまわないと私は考える。とはいえ私も、交番の目の前の横断歩道なら、たとえ車が全く走っていなくても赤信号で渡らないが、本当は交番の目の前でも渡ってかまわないはずだと心の中では思っている。警官が立っているからダメというのは筋が通らない。警官の目の届くところでは、法律で定められていることが常に守られていなければならないというのも、よくよく考えれば怪しい理屈だと思う。私が交番の前ではどんなに車がなくても赤信号で渡らないのは、警官に注意を受けるのが面倒だと考えるからにすぎない。つまりこれも時間や手間を省くという意味で、ある種の効率化にすぎない。

 赤信号で横断歩道を渡ることは、本来は一概に禁じられるものではないが、あえて一概にダメだと決めておくことによって、個々人は判断の手間を省くことができる。先に「存在記号を全称記号に」と書いたのはこのことである。もちろん判断の手間を省くだけなら、赤信号で横断歩道を渡ることを義務付けるのでもよいが、それは結果として望ましくないので、望ましい結果になるように選択肢を一通りに定めるのである。それがルールが存在する意義なのではないか。

スポーツのルールはどうなのか

 他の例として、スポーツのルールを考える。例えばテニスで、サーブは常にクロス(斜め前)に打つことになっている。本当はクロスでなく、ストレートに打っても構わないが、どちらかに決めておいた方が、ゲームが進めやすいのだと思う。もしもクロスとストレートのどちらでもよいと決めてしまうと、サーブだけで点が決まりやすくなり、ゲームは面白くなくなってしまうだろう。それなら常にストレートに打つと決めるのはどうかというと、これでは相手が簡単にサーブを打ち返せてしまい、それはそれで面白くない。クロスに打つと決めることによって、サーブだけで点が決まる場合もあるし、打ち返してラリーが続くこともあるという風にしてゲームの展開に幅が生まれ、面白みが増すのである。これは赤信号の例に比べて、ケースバイケースでの判断がずっと難しくなる例だといえる。いや、難しいどころかそれを認めてしまうと、上に述べたようにゲームが成り立たなくなることすら考えられるため、初めから「一概にクロス」と決めているともいえる。これもまた、存在記号を全称記号に変えている例であるといえる。ある場合にはクロス、別のある場合にはストレートというように決めてはゲームが面白くならないから、全ての場合についてクロスに打つことを定めるのである。

道徳の観点から説明されるもの

 とはいえ、ケースバイケースでなく、常に許されてはならないことというのも確かにある。わかりやすい例は殺人である。情状酌量の余地がある場合もあるとはいえ、殺人は基本的にどんなケースでも許されない。これは効率とは関係なく、道徳によって判断される。そういうものは時代や地域を問わず、本来的に、ルールによって「一概にA」という形で定められる対象になる。これは先に取り上げた効率の観点から説明されるルールとは異なり、原則的に全称記号を使って表現されるほかないものである。殺人の場合、「ある場合には殺人は許されるが、別の場合には許されない」とは表現されず、「すべての場合について、殺人は許されない」としか表現されないのである。

 しかしそうはいっても、殺人と赤信号のケースは、本質が異なると私は考える。赤信号のケースでわかりにくければ、道路の片側通行で考えてもよい。道路のどちら側を走るかは、国によって右か左かにわかれる。それは本質的にはどちらでも構わず、とにかくどちらかに決めておくことによって、とりあえず事故が起こるのを避けられるという効率についての判断を基礎としている。右側通行でなければ許されないということを道徳的に判断することなどできないのである。そして多くの場合、ルールというのは赤信号や道路の片側通行のようなケース、つまり「こういう風に決めておいた方が効率がいいから」という理由で生まれているものが多いのではないか。ルールについて考える場合に、「ルールはルールだから」とか「だめなものはだめ」というようなトートロジーに陥ることなく、まずはルールを分類し、次にそれが効率と道徳のどちらの観点から考えられるべきものかと考えることが重要である。

*1:これは私のこれまでの観察に基づく単なる仮説にすぎない。が、長財布をタッチして改札を通る人間はどうも頭の悪い人間のように見えてしまう。単なる偏見かもしれないが…。

*2:すでに他の記事でも述べたことであるが、念のために述べておくと、ここでいう「偏見」とは厳密にいえば「好ましくない偏見」を指す。

*3:以下の記事における「トートロジーの形式的定義」の項を参照。

plousia-philodoxee.hatenablog.com