原罪と自由意志

 

責任にまつわるある疑問

 ときどき疑問に思うことがある。それは、一方では偏見を前提として成り立っている占いを信じていながら、他方では偏見を非難している人間がいるという事実だ。それはダブルスタンダードなのではないか。少し考えてみれば、どんな占いも何らかの偏見の上に成り立っていることは明らかだ。いつ生まれたか、血液型(抗体の型)はなにか、星座は、名前の画数は、手のしわは…。人が占いを気にするのは、それが当たるかどうかではなくて、自分で決めなくてもよいからだと私は考えている。自分で決めると、責任が生まれる。けれどもそんなもの負いたくないし、それで困ったことになっても、自分は責任など負えやしない。だから自分でないものに決めてもらいたい。逃げた方が楽なのだ。

フロムとフリードマン

 責任ということについて考えるために、ここで2冊の本を取り上げてみる。ドイツ国民のナチズムへの傾倒について、エーリッヒ・フロムが書いた『自由からの逃走』には、選択の自由とそれに対する責任をめぐる状況に対する、彼の問題意識が背後にあった。占いについて冒頭で述べたような考えからみれば、自由からの逃走は、選択からの逃走、あるいは責任からの逃走とも言える。ミルトン・フリードマンは『選択の自由』で、豊かさとは選択の多様性が担保されていることであって、われわれはそういう社会をこそ目指すべきであると書いた。けれどもそういう社会は人間にとって耐えられるものなのだろうか。実のところ多くの人間は、選択の自由など望んでいないのではないか。占いや頼れる他人に選んでもらった方が楽で、自分で選びたくなどないのではないか。『選択の自由』は『自由からの逃走』から約40年後に書かれた*1。それではフリードマンは、ずいぶん前にフロムが扱った課題を乗り越えたのか。少なくとも『選択の自由』の中で、フリードマンがフロムの論点を意識していたようには見えない。フロムの指摘した問題とは別のところから、フリードマンは選択の問題を考えているように見える。『選択の自由』をどう読むかということについては、偏見と善悪の関わりについて論を展開した後に、再び取り上げる。

トートロジーと2つの用法

 偏見と占いについて、ある種の偏見は採用しながら、別の偏見は拒絶するという人も目にする。いや、目にするなんてものではなく、誰であれ時間をかけて観察し続けていれば、そういう矛盾を見つけることができる。私自身も含め、そんな矛盾を抱えていない人間などそもそもいないのかもしれない。それでも、偏見を非難する場合に「偏見は偏見だからよくないのだ」というのはトートロジーであって、私はせめてそのようなしかたで偏見を非難することくらいは避けたいと思っている。

 私の理解では、「それは偏見だ」という表現には2通りの用法がある。一つは「それは偏見だからよくない」という意味で用いる用法。これはトートロジーに通じる。もう一つは「それは誤った偏見だからよくない」の意味で用いる用法。「偏見だから」の前に「誤った」がつくかどうかで、前提となるものの考え方がずいぶん違うことがわかる。

トートロジーを避けて考える

 責任についての冒頭の話から、いつのまにか偏見の話、そしてトートロジーの話にすり替わっていないかと思われる読者もいるかもしれない。けれどもここではあえて、トートロジーの話を続ける。それは翻って、責任について誤った方向へ議論が進むことを避けられるという意義くらいはあると考えるからだ。急がば回れである。

トートロジーの形式的定義

 トートロジーは形式的には、「AはAだからXなのだ」という言い方で定義することができる。またこのとき、Aは絶対的であるともいえる。つまり、AがXであることを示すために、Aの他には何も必要ではないということである。ひとつ例をあげよう。神は絶対的な存在であるとしばしば言われる。それは神が神の他に何も必要としないで存在することができるからである。それでは偏見は絶対的なものなのか。言い換えれば、「偏見は偏見だから悪なのだ」と言えるのだろうか。この問いに対して、例えばある小説中の表現になぞらえて答えるとこうなる。

 

絶対的な偏見などといったものは存在しない。絶対的な占いが存在しないようにね。*2

 

 偏見は相対的なものでしかない。ある条件のもとでは悪であって、別の条件のもとでは善である。偏見自体が悪だというわけではなく、良い偏見と悪い偏見があり、それは人間がケースバイケースで判断しなければならない。ケースバイケースで判断するコストを省くために存在しているルールである法ですら、人間のこの判断力から生まれている*3

偏見に関する三段論法

 人間である限り偏見は不可避であって、なおかつ偏見は悪であるとすると、人間はどうしても悪をなしてしまうことになる。三段論法の応用だ。ところがこの三段論法は誤りである。それは全くもって基本的に、形式的に判断される。つまり、「偏見は悪であるとすると」という前提*4が誤りであるため、そこから導かれる結論も誤りである。すでに述べた通り、偏見はそれ自体として良くも悪くもない。その点では貨幣と同じである。誤っているのに、それでもなお正しいと信じ続けるところから、言い換えれば本当は相対的なことがらを絶対的だと錯覚するところから、少なくない数の人間の苦しみが生まれているのではないか。そして、偏見や貨幣に対する私たちの誤解はその一例ということなのではないか。

偏見の前提

 偏見について考える前提となる善悪について、ここで私の基本的な考えを明らかにしておこうと思う。意思によって選択が可能なことがらに対して善悪の問題が生じると私は考えている。善悪と人間の意志の関係をめぐるこうした立場は特に珍しいものではなく、むしろ典型的なものだといえるだろう。これについて、「そもそも人に自由意志などあるのか」ということも言われ始めて久しいし、「あると信じることに意味があるのだ」と粘る人もいる*5。自由意志の存在を否定するものとしてしばしば紹介されるのがベンジャミン・リベットの実験(1983年)である。詳細や実験の経緯については彼の著書である『マインド・タイム』に記されているが、その内容をごく簡単に紹介するWIREDの記事を見つけたので、該当箇所のみ引用する。

自由意志に関する論争を巻き起こした実験は、1983年にさかのぼる。アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット(1916 – 2007)は、われわれがとある動作をしようとする「意識的な意思決定」以前に、「準備電位(Rediness Potential)」と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを、脳科学的実験により確認した

平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。(同記事より)

 

 なかなかスリリングなところまできているなと感じる。

結果としての善

 私はといえば、自由意志など存在しないとしても、善悪を区別する基準が個々のケースに対して明らかにされれば、人は明らかにされたことに基づいて善の方を選ぶことができると考えている*6。そのとき、私が善の方を自分の意思で選んだのではないとしても、問題はない。結果として善の方を選んだということの方に意味があると考える。

 リベットの実験に照らして考えるならば、私が何かについて判断するとき、私がその判断を自覚するよりも約0.2秒前に、脳の中ですでに判断は済んでしまっている。けれどもその判断というのは、私が経験したり考えたりしたことの蓄積にある程度左右されるから、善を選ぶことができるように自らを教育していけばいい。もっとも、教育といったところで、その過程を考えれば、私がどういうことを経験するか、どういうことを考えるかもまた、私自身が意識して選ぶよりも前に脳の中で決まってしまっているとしたら、もはや私は教育によって自分の判断へ影響を与えることすらできず、ある意味では私自身の脳から締め出されてしまっているといえる。このとき私の意思にはもはや打つ手がないかもしれない。しかしそうであっても、すでに述べたように、善悪を区別するための基準を明らかにしていく経験を通じて、人は善の方を選べるならばそれでよい*7

想定される批判

 自由意志と善悪の判断の関係についての私のこの立場に対しては、善悪というのは自分の意思で選ぶからこそ価値があるのだと考える立場の人間からは批判があるかもしれない。しかしすでに述べた通り、私は善悪と人の意思を結びつける必要はないのではないかと考えている。あくまでも結果としてなされることが善であればよく、意思の力に委ねて結果として悪がなされるならば、意思とは無縁に結果としての善が選択される方がいいのではないかとすら思う。これはこれでかなりスリリングな立場であると思うので、この点だけを主題として扱う記事をまたいずれ書こうと思う。もっともスリリングといっても特にアクロバティックな考えであるとは思わない。一定の手続きを踏むことを義務付けることによって結果としての善がなされるような運営を実現するしくみは、すでに我々の社会の中にごく自然なものとして根付いている。それは特に最近になって生まれたものでもないし、我々の社会といっても日本だけというわけでもない。リベットの実験に引っ掛けていえば、我々はそれを特に意識さえしないほどに、それを受け入れている。

フリードマン再び

 そして、善悪の判断と自由意思の問題を切り離して考えると、そこで初めてフリードマン『選択の自由』が意味をもつと言えるのではないか。私ははじめ、この作品をフロムの『自由からの逃走』に連なるものとして解釈しようとした。そしてその後に、リベットの実験に示された、自由意志の不在という問題を取り上げた。『選択の自由』は、フロムやリベットの系列に置いて考えても実りがない。しかしそれとは別の系列、つまり選択を自由意志とは独立に扱う視点からこの作品の意味を解釈するならば、実りがあるのではないか。たとえ自由意志が存在しないとしても、自分のもとにある選択肢の数や組み合わせが変化すれば、その中のどれを選ぶかは変わってくる。選ぶときに、リベットの実験に示されるように脳内で選んでしまった後から自分の意思が意識されるという順序であるとしても、脳内でどの選択肢を選ぶかは、自分が認識している選択肢の数と組み合わせに依存する。ここで簡単なケースを考えてみる。ある問題について選択肢が2つあり、そのどちらも望ましいものではないとする。すると人は、意思によるにせよよらないにせよ、望ましくない選択肢を選ぶほかない。しかしここで、新たに第3の選択肢が加わり、それは望ましい選択であるとする。すると人は、やはり意思によるにせよよらなににせよ、望ましい第3の選択肢を選ぶ可能性が生まれる。そうだとすれば、選択肢をなるべく豊富に提示しておくことは重要であるといえるのである。

 望ましい選択肢が結果として選ばれたときに、それが自由意志によって選ばれたかどうかは、副次的な問題にすぎないと私は考える。フリードマンは著作の中で自由意志の問題を扱っていないが、考え方としては私と同じような筋道で考えていたのではないかと思う。そしてこのとき、フロムが指摘したように人は自由から逃げ出そうとするとしても、選択肢を多様にすることによって結果として善がなされる確率が上がるならばそれでよいというような理路で、フロムの問題を解消することはできるかもしれない。

原罪と信仰

 仮にさきほどの三段論法が正しいと考えてみよう。自覚があるかどうかは別として、そう考えている者は少なくない。人間は避けられない悪に耐えられるのだろうか。「あなたは人として生まれた以上、ある種の悪をなすことは不可避なのです」と言われて、それを受け入れられるのだろうか。おそらく多くの人間は、それについて突き詰めて考えないようにすることで済ましている。そんなこと考えたってしょうがない、他にやらなければならないことは山ほどあると。

逃れられないもの

 一旦本筋からは外れるが、何かについてその本質を突き詰めて考えないようにすることで、かえって苦しみ続けることになってしまっている人間が多いように見える。その場その場でだましだまし、一時的にしのいで済むこともあるが、根本的に解決したわけではないから不安や悩みは消えず、ある程度時間が経てばそれらは再びやってくる。それから逃れることはできない。麻薬依存症の人間と変わらない。それならせめて一度でも、本質について時間をかけて考えた方がましではないか。そんな風に考えない人間が多いことに対する嘆きを、多くの哲学者や評論家が表明し続けているのを私はこれまでに多くの本で目にしてきた。そういう表明が昔から今に至るまでの長い間、ずっと続いているという事実を謙虚に受け止めるとすれば、多くの人間は根本的な不安が解消されないままなのかもしれない。それはキルケゴールの『死に至る病』や『不安という概念』の主張と通じる、人間の根本的な問題なのかもしれない。

避けられない悪としての原罪

広義と狭義の原罪

「原罪」(original sin)という言葉は本来、エデンの園に住むアダムとイブが、蛇にそそのかされて神の注意に背き、知恵の木の実を食べたというエピソードに由来し、人類で最初の罪の意味である。しかしこの言葉にはもう一つの用法があり、避けることができない罪の意味で使われることがある。前者を狭義の原罪、後者を広義の現在と呼ぶことにし、ここから先は基本的には広義の方を使うことにする。ここまで「避けられない悪」と表現してきたものは広義の原罪に対応する。偏見に限らず、人間は悪を避けることができる。

 ある人間が、キリスト教に対する信仰とは関わりなく、避けられない悪として原罪を抱えているということを一旦認めてしまうと、その重さに耐えられないと感じて救いを求めるところから、信仰が生まれる場合も少なくないだろうということは、容易に想像がつく。これは本筋から逸れる推論だが、人類にとって、実は狭義の原罪よりも広義のそれの方が先に意識されたのではないかとすら思える。その意識から生まれた宗教が、後から狭義の方の原罪の概念を生み出したという順序なのではないか、と。

自由意志と原罪の関係

 一見すると、自由意志と原罪は両立しないように見える。意思によって何かを自由に決めることができるのであれば、人はどんな罪も避けられる。反対に、避けれらない悪としての原罪があると考えるならば、人に自由意志などない。どちらかの存在を認めれば、もう一方の存在は認めることができない。意思によって悪をなすことを避けられるということを前提にして成り立っているものはいくつもあるし、そのいくつかは今後も残り続けるかもしれない。だがすでに述べた通り、避けられないものを避けられると錯覚して信じ込むことによって苦しむ人間は少なくない。

 しかし、偏見の前提について考えた箇所で述べたように、自由意志の存在を認めなくても、選択肢の多様性が認識されていれば、人は悪を避けられる可能性がある。そこで以下では、選択肢の多様性を認識するための前提について考える。

自己責任の拡大解釈について

 偏見に限らず、あるいは悪に限らず、自分にとって望ましくないことがらを避けられるかどうかは、自分をとりまく環境に依存する。個人をとりまく環境は、個人の人生を方向付けたり制約したり、ときにはただ一つに決定することさえある。ここではそれを「外的条件」と呼ぶことにする。外的条件について正確に理解することは、自分には何が選べるのかという選択肢に対する認識の前提となる。今はまだ、人間は外的条件に対する理解が十分ではなく、したがって個人の能力で避けられるものと避けられないものの区別が十分でない。悲劇の多くは、個人にとっては動かしがたい外的条件が、まるでそれが必然ででもあるかのように望ましくない結果をまねく過程を描くことで成り立っている。

 自己責任の名の下に個人が背負わされることがらの中には、確かにその個人の責任と呼んでいいものも含まれているだろう。けれども、そうでないものも含まれている。たとえそれが、当人の選択の結果であるとしても、実態は選択などと呼べるものではなく、外的条件が生んだ当然の帰結にすぎないようなものごとが、自己責任論の中には含まれている。そこにぼんやりと理不尽や不条理を感じる者があったとしても、このように拡大解釈された自己責任論は強く、個人の違和感など簡単に潰される。潰された後には苦しみしか残らないことも少なくないだろう。

しかたのないこと

 われわれの社会が個人をとりまく外的条件をすべて見つけ出し、それらの間に成り立つ関係をうまく整理し終えるまでは、自己責任論の拡大解釈はしぶとく生き残り続けるだろう。そしてその間はずっと、望ましくない結果や今置かれている状況は、自分の人格や考え方のせいだと自分を責めて苦しむ人間や、結果として相手を苦しめるだけでしかないことに無自覚なまま、それが何か唯一の重要な答えででもあるかのように「他人や環境のせいにするな」とひたすら言い募る人間もいなくならないだろう。しかたのないことを、人はまだ十分に理解してはいない。

バイアスと外的条件の複合

 「恋愛不適合者」とか「結婚不適合者」というような言葉をときどき耳にする。人口分布や所得分布、あるいは産業構造や就業に関する条件などの外的条件が原因であるにすぎない可能性もあるにも関わらず、当人から見えていなければ存在しないのと同じであるというような理由から、心を落ち着けようとしてもっともらしい原因で強引に自分を納得させたりする。原因がわからないままであるよりは、もっともらしい原因を採用する方が心が落ち着くというような心理的なバイアスが、人間にはデフォルトでセットされているのかもしれない。そしてもっともらしい原因の中でも「自分のせい」というのがトップに位置しているとしたら、どうだろうか。もしも世の中が、バイアスと外的条件があるしかたで組み合わさった結果、一定以上の確率でオートマチックに「苦しみ」が発生するしくみになっているとしたら、どうだろうか。私にはどうもそうだという気がしてならない。

自己責任とは別のしかたで

 外的条件についての理解が進めば、何については諦めたり割り切ったりした方がいいか、何については悩む必要はないかがはっきりするだろう。もちろんそれでもなお、悩んでもしょうがないことについて悩む人は一定数残ることになるかもしれないが、その数は今よりも減るのだとすれば、自己責任論などを素朴に信じて苦しむよりは、外的条件について理解を深めることを選ぶ方が、いくらか希望があるように思える。空を飛べないことを、人はごく自然に受け入れる。それはしかたのないことだから、それについて思い悩んでもしかたがない。けれども拡大解釈された自己責任論のもとでは、空を飛べないことが自分のせいだと悩むことで苦しみ続ける人間がいるように思えてならない。

想定されるある種の批判に対して

動機への批判

 こうした論の運び方について、「色々と理屈をつけているが、結局は責任から逃れたいという願望に基づく、体のいい言い訳に過ぎないのではないか」と感じる読者もいるかもしれない。実際この手の批判はネット上でもしばしば目にする。何かを批判する人間に対して、「社会から認められない腹いせだろ」とか「現実の生活がうまくいっていないからネットでいきり立っているんだろ。恋人でも作って休日にどこかへ出かければ、そんなことで怒ることもなくなるさ」などの類の批判である。それらはいずれも、動機を批判しているにすぎないのに、動機を批判すれば主張それ自体も批判できたことになると勘違いしているように見える。

 なるほど私の場合もその通りかもしれない。私はたとえば「自分を守る」という動機のために、長々と体のいい言い訳をでっち上げ、それをネットの片隅にわざわざ残すという無駄な営みをしているに過ぎないのかもしれない。しかし率直に言って、私はその手の疑問や批判には関心がないし、それに答えることに意義があるとも感じない。これについて、たとえば批評理論の立場から答えることもできなくはない。批評理論によれば、筆者の意図とは独立に作品を解釈することは可能であり、筆者の言いたいことは何かと考えてもしょうがない。あくまでも作品自体がどういう風にできているかという内的論理を明らかにすることに意味があるという考え方である。

 それでは私の立場は批評理論のこうした考え方と同じであるかといえば、そういうわけでもない。意図が好ましくないという理由で主張内容の真偽を判断するのは妥当でない。しかしその一方で、主張内容の真偽を判断するために、筆者の意図を理解することが役に立つ場合もある。上で取り上げたような批判が妥当でないのは、あくまでも意図が好ましくないことを示しているにすぎないのに、批判の内容も妥当でないと主張しているように思えるためである。妥当でないと感じることに、関心や意義を感じることはない。

生き方という批判

 あるいは、意図と主張内容の関係に対する誤解に基づく上の批判とはまた別に、こういう批判もあるかもしれない。つまり、確かに自己責任とはいえないようなことを自分の責任として引き受けていることもあるかもしれない。そしてそのせいで苦しむこともあるかもしれない。けれども生きていくということはそういうことではないのか、と。本当は自分の責任ではないかもしれないけれど、それでも自分の責任であるとしてそれを引き受け、それによって生じる苦しみにも耐えていくことは、人が生きるということそのものではないか、と。これは強力な批判で、そういう生き方にこそ人間の尊厳が宿るということを描いた芸術作品も多い。特に悲劇にはそういうものが多く、そこに感動する人間も少なくないだろう。あるいは喜劇の中にもそういうものはある。喜劇の場合には、自分が引き受けたことによって苦しむこともあるが、それをどう笑い飛ばして生きていくかが重要なのだというしかたで描かれたりする。これも少なくない人間の共感を呼んでいるし、時代と地域を超えた普遍的なテーマといってもいい。こういう生き様ってかっこいいよねということでもある。明石家さんまは明らかにこの立場だと私は思う。彼以外にも同じような考え方をしている芸人は少なくないだろう。辛いこともあるけれど、それをどう笑い飛ばして生きていくかというところに、芸人の芸人としての誇りがあるのだと。

 しかしこの批判に対しても、私はやはり同意しかねる。外的条件を正確に捉えるということは、真実を正確に捉えることにつながる。そして何が真実であるかということは、話として美しくまとまっているかとか多くの人間から共感を得られるかとかいうこととは何の関係もない。美しくなくても真実であることはあるし、多くの人間から共感を得られなくても真実であるということもある。そういう真実は人間が生きていく支えにはなりにくいかもしれない。あるいはそういう真実を受け止めてよりよい生き方を考えるということは、上に述べたようなかっこいい生き様に比べれば難易度がずいぶん高いかもしれない。それでも、真実を正確に捉えることは生きていく支えになると私は考えている。もちろん難易度が高いかどうかということもまた、何が真実かとは関係がない。

 これについて、少しだけ思うところを述べる。こういう立場でものを考えて生きている人間は、私の見たところごく少数であって、ときどき「あ、この人はそうかもしれない」と思う人を見つけることはあるが、そういう人たちとずっと一緒にいられるわけでもないし、私の勘違いということももちろんありうる。けれどもそういう人を見つけたときには、単に見つけたというだけで、私はいくらか生きていく支えを得たような気持ちになる。

袋小路を避けて別のルートを考えること

 「原罪」という言葉は、それが広義で用いられる場合、誤訳ではなく定義矛盾ではないかと私は思う。つまり、避けられるのに避けなかったことが罪なのだとすれば、避けようがないことは罪にはならない。外的条件に対する理解は、本来は罪でないことを罪であると錯覚して苦しむことからの解放をもたらす。それは別の言葉でいえば、背負う必要のない荷物を背負って苦しむことからの解放ともいえる。原罪と自由意志の両立というルートではやがて行き止まりになるが、外的条件について理解を進めることで、それとは別のルートで、今よりいくらか安らかなゴールへたどり着くことができるかもしれない。

 

自由からの逃走 新版

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選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦

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マインド・タイム 脳と意識の時間

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*1:『自由からの逃走』の初版発行は1941年、『選択の自由』は1980年である。この約40年のあいだで、人間はどれほど賢くなったのだろうか。

*2:「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(村上春樹風の歌を聴け』より) 

*3:法の存在意義を、ケースバイケースで個人が判断する手間を省くというところにあると私は考えている。この点についてはまた改めて別の記事を書く。

*4:論理学の言葉でいえば「前件」である。三段論法に限らず、「pならばq」という形で表現される命題は、前件pが誤りであるとき、偽となる。

*5:これは後に述べる「生き方としての批判」の項の内容とも通じる。

*6:「選ぶ」という言葉は、ここでは特に自由意志を前提としていないことに注意してほしい。自由意志がなくても人は選ぶということができる。それはあることがらについて、起こりうる事態が複数存在し、そのうちのどれかを指定するくらいの意味で捉えてもらえればいい。以下の本文でもそのような意味で「選ぶ」という言葉を用いている。

*7:「必ずそれを選ぶ」ではなく、「選ぶことができる」とか「選べる」というような書き方をしているのにはもちろん理由がある。正しい選択肢が選択肢の中に含まれていても、人はそれを常に選ぶとは限らない。バイアスの存在によって選択を誤る可能性が常に存在している。けれども、正しい選択肢が含まれていなかったら、そもそもそれを選ぶことすらできない。結果として正しくない選択肢が選ばれる可能性が残るとしても、正しい選択肢が選ばれる確率が0から任意の正の値へ変化するなら、選択肢の多様性を認識する経験には意義があると私は考える。