金髪で深緑のコートを着た女性
井の頭線吉祥寺駅の改札近くにスターバックスがある。久しぶりにそこで読書をしながら過ごしている。窓際の席だから、窓から駅の構内を移動するいろいろな人が歩いたり走ったり誰かを待っていたりするのが見える。
さっき、金髪で深緑のコートを着た女性が駅の改札に通じる上りのエスカレーターに向かって歩いているのが目に止まった。その金髪の金と、コートの深緑がなんともよく調和していて、その女性に特有の雰囲気を与えていた。
金髪というと、個人的にはなんだか「アメリカやヨーロッパの人々のもの」という感じが拭えないけれども、「金色」という色に注目すると、なんのことはない、日本では古くから使われている伝統的な色だということに気付く。そんな金色と深緑とがよく合っているなあと自分が思うのと同様に、たぶんその女性もその組み合わせを気に入っていて、街へ出るときにその格好をしたのだろう。
自分がその二つの色の組み合わせがよく似合うと感じたのには、これまでの自分の見てきたもの、経験したこと、いろいろな人からの影響などが関わっている。そしてその女性もまた、私とは違うものを見て、私とは違うことを経験し、私とは違う人達から私とは違う影響を受けてきたのだろう。それでも「金と深緑の組み合わせ」というほんの些細なところで、私とその女性とは同じようにそれを気に入っている。
私はこれから先、その女性と会うことはたぶんないだろうし、また話すこともないだろう。しかし金と深緑という言葉を連想したり、実際にその組み合わせを目にしたりすることがあれば、私はその女性のことを思い出すかもしれない。私とは違った人生を生き、私とは全く接点のないその女性のことを。
自分と全く接点のない、自分とは全く違う経験をしてこれまで生きてきた人間との間に、思わぬ接点、思わぬ共通点を見つけてハッとさせられることがある。
塾にいてもそうなのだが、全くしゃべったことがなく、また共通の友人もいない二人の生徒の喋り方が似ていて驚くことがある。どうしてこの二人の喋り方は似ているのだろうと考えてみても、納得のいく答えが見つからない。もしかしたらその二人は同じテレビ番組を見ていて、その番組の中に出てくる人の喋り方に同じように影響されて居るのか、その二人の親の喋り方が実はよく似ていて、親同士の喋り方が似ているのは、実は同じドラマや小説にかつてはまったことがあったからで…という風に想像してみることはできても、それを確かめることはできない。
自分とは違うように生きてきたはずの他者が、思わぬところで自分と似ていることに気付かされるとき、それは共通の体験がある場合よりも大きな驚きを感じる。共通の体験があれば、しかもそれが多ければ、私と他者の間に共通点があるのも頷ける。しかしそういうものがない他者との間に共通点があるとき、不可解な気持ちになる。「どうしてこの人と私は似ているのだろう」と考え込んでしまう。私もその他者も互いに独立に、影響を及ぼすことなく生きてきたのに、それでいて確かに二人の間には共通点がある。そういうとき、「ああ、目の前のこの人も同じ人間なのだな」としみじみ思う。
問題は、そういう共通点が見つからない他者を相手にしたとき、どのようにしてその相手を「同じ人間である」と考えて尊重することができるかということだ。共通点が見つからない相手の中でも、自分に迷惑をかけない相手であったなら、尊重も承認もしやすいだろう。しかし自分の何かを脅かすような他者が相手であったなら、それは難しい。私はそのような相手を嫌悪したり、遠ざけたりするかもしれない。…とこんな風に積極的自由と消極的自由と絡むようなかたちで考えが展開してきたのは、さっきウィル・バッキンガムほか著の『哲学大図鑑』*1のアイザイア・バーリンの項を読んでいたせいかもしれない。
さて、こんな風に指を動かしている間にも、駅の構内ではいろいろな人が歩いている。「リュックサックを背負った女性と、バッグを手持ちで持った女性とは、内面になにか違いでもあるのだろうか」というテーマが新たに浮かんできた。ここで一度手を止めることにしよう。