コンピュータの誕生を促したもの
ジョージ・ダイソン『チューリングの大聖堂』を読み始めた。アラン・チューリングが考え出した「チューリング・マシン(Turing Machine)」という、実体のない純粋な概念を、フォン・ノイマンがどうやって形のあるものとして実現したかというところに関心をもったためだ。
チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来
- 作者: ジョージ・ダイソン,吉田三知世
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/02/22
- メディア: 単行本
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私の場合、コンピュータの誕生と進歩についての歴史について知ったのは、「正のフィードバック(positive feedback)」がかかる社会機構の一例として、ITの社会への浸透と未来を考える、というテーマで卒論を書くときに、いくつかの本を読んだことがきっかけだった。
そもそもが核爆弾の実現可能性や水爆の威力に関する計算をするべくして生まれたという、軍事的な背景が指摘されることが多いが、もうちょっと違うところから考えてみたい。
「世界がどうやってできているか」ということについて、古代ギリシャにおいて早くも原子(ατομ:atom)の存在が指摘され、実際にそれが観察で確認されたのが19世紀後半である。世界は人間自身の肉眼では確認できない「小さなもの」を材料としてできているということが広く知られるようになった。そしてその数は、これまた人間が日常で扱うような桁数を大きく超えるものであることも、併せて知られることとなる。
「天文学的」という言葉がぴったりな、とても大きな数のものが相互作用しているというとき、それを人間が自力で計算するというのは難しい。時間もかかる。世界はとてつもない数のものが相互作用し合って成り立っているということを、計算で確かめるために、人間の力だけしか使えないとしたら、今実際にわかっていることの多くは、依然としてわからないままだっただろう。わかったのは偏ににコンピュータの誕生と進化のおかげだ。
WIRED vol.13を読んでいたら、気象予測技術についての記事があった。
WIRED VOL.13 (GQ JAPAN.2014年10月号増刊)
- 出版社/メーカー: コンデナスト・ジャパン
- 発売日: 2014/09/10
- メディア: 雑誌
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記事では、雲の動きをシミュレーションするために開発された「全球雲解像モデル(NICAM)」というのが紹介されていた。
少し引用しよう。
地球全体の大気海洋の現象をシミュレーションするプログラムはいくつかあるが、NICAMは計算が最も難しいとされる「雲」のモデリングを可能にする。現在の最高レベルである、870mもの細かな格子間隔で動きを予測できる。
(WIRED vol.13 22ページより)
雲の動きをシミュレーションする場合には、870m間隔でも「細かい」 という言葉を使えるらしい。まあ地球全体(或いは世界地図)を基準にすれば「870m」というのはボールペンのインクのシミくらいのサイズになるので、十分細かいと言えなくもないかもしれない。人間を基準に考えれば。
しかし、「雲」というのがほとんど「水分子の集合」として機能していると考えるならば、870メートル間隔というのは依然として目が粗いと言わざるを得ないだろう。分子の側からすれば、Ⅰmですらかなり大きなものだ。
だから分子の側から雲を分析するならば、よりきめ細かい間隔でシミュレーションをした方がいいかもしれない。大気中にⅠm間隔で分子をモニターできるようなセンサーを飛ばしてリアルタイムでデータのフローを解析し…というようなことをした方がより正確な予測が可能になるかもしれない。
しかし現在のスーパーコンピュータをもってしても、いや、すべてのスーパーコンピュータやパーソナルコンピュータを合わせて計算処理をやらせたとしても、処理は不可能だろう。
人間の手には負えない天文学的な数のものが世界を動かしている。
そしてその動き方を計算することができれば予測も可能になる。
しかしそのためには大規模な計算処理を実行できるコンピュータが必要になり、それが進歩すればするほど、ますますコンピュータによる計算処理の比重が拡大していく。
人間には無理だが、コンピュータには可能だろうと思われるような計算処理は、どんどんコンピュータの手に渡っていく。今日のコンピュータが処理できなくとも、明日のコンピュータができるという風に考える。
「問題を解く」ということの本質はどこにあるのか、ということを考える。人間が考えている部分とコンピュータが計算処理している部分のどちらの方が問題解決にとって本質的なポイントなんだろうか、と。
どうも後者の方が本質的なんじゃないかという気がしてしまう。つまり、人間が考えている部分というのは、人間自身を納得させるためだけの「物語」であり、世界そのものにとっては本質的でないものなんじゃないか、と。
今もコンピュータはとんでもないスピードと規模で計算処理を続けている。