安易な一般化の問題ーりんごが赤いからといって、果物がすべて赤いとは限らない

このブログもついに100個目の記事になった。なんだか妙に感慨深い。

 

 今回は固定観念とかバイアスということについて、最近の例も挙げつつ書いてみようと思う。あらゆる暴力性や残酷性は、必ずしも悪意に由来するとは限らず、無知や偏見に由来する場合もあって、それらは自覚がない分かえって厄介だと感じる、そういう背景で考えたことでもある。

 

 イスラム国」という呼び方を変えようという動きがある。国際的にはISISアイシス)」或いは「ISIL(アイシル)」であり、また「イスラム国」という呼び方だとイスラム諸国の代表というか、イスラム圏全般に余計なバイアスがかかることを懸念してということもあるだろう。日本国内で未だに「ISIS」や「ISIL」の呼び方が定着しないのは、「アイシス」や「アイシル」という読み方を併記しないことにも原因があるように思う。

 

 余計なバイアスというのは、この場合は「安易な一般化」に由来するもので、原因は知識の不足にあることが少なくない。イスラム国が過激な行為を続けていることを知って、「イスラム教は危険な思想である」とか「イスラム教徒は怖い」という風に考えるのは早計であるし、実際に「イスラム国」の行為についてはイスラム諸国、イスラム教徒の多くは反対しているという事実もあるのだから、あくまでも一部の人間たちの行為であるという理解が必要だ。

 

 ISISというのは、もともとスンニ派とシーア派に分かれていたイスラム教徒のうちのスンニ派の一部の過激派がもとになって生まれたテロ組織であって、「イスラム教徒全体の代表者」ではないということだ。

 

修学旅行に行くときに、先生たちがよくこんな風に注意する。

 

「君たち一人ひとりが本校の代表なのであり、本校の生徒として恥ずかしくないような節度を持った振る舞いを期待します。」

 

 それでも実際に修学旅行の途中ではたとえば300人のうちの数人が問題を起こしてしまったりすると、「◯◯高校ってひどいよね」ということになったりする。確かに節度のない振る舞いは悪いけれども、それで「ひどい」という形容詞でもって簡単に、さもそれが当然であり正当ででもあるかのようにひとくくりにされた◯◯高校の他の生徒たちはどうなるというのか。

 

 先日井の頭線の電車に揺られていると、向かいに座っていた大学生数人がサークルの飲み会について話していて、そのうちの一人が飲み会で記憶が飛ぶくらい飲んで問題を起こしてしまったらしく、そのサークルはそのお店から出入りを禁止されたということだった。

 

 ある組織や集団(ここには宗教の信者や国民なども含まれる)のメンバーが何か問題を起こしたとき、私たちはその組織全体、或いは集団全体を悪いものとみなすような固定観念を持ってしまっているところがある。それは今回の「イスラム国の呼称」の例に限らず、例えば中国のとある工場で起きた問題だけをもとに「これだから中国は…」とか「やっぱり中国は…」という風に「中国全体の問題」として一般化してしまったりする。そうして、その集団の一部の偏ったサンプルを、ある集団についての典型例として認識することを繰り返すうちに、代表性ヒューリスティクスが生まれる。つまり「工場で問題を引き起こす中国人」(イメージX)というイメージが、大部分の「工場で問題を引き起こさない中国人」(イメージY)を押しのけて、中国人の代表と判断されやすくなるのである。

 

いわば結論ありきで自分を納得させる事件を見つけると、それを自説の正当化の材料にするというような、誤れる思考方式である。

 

 他にも若者が事件を起こすと「少年犯罪の過激化」と言われたり、ネットを使っている人が犯罪を起こすと「ネット利用の闇」とか「現実と虚構の区別がつかなくなってしまった若者たち」という風な「お題目」ないしは「フィクション」が声高に主張されたりする。そういうことは以前からしょっちゅう起きていた。

 

 こうしたことは、たとえば100人の若者が集まって、そのうちの一人が発狂したとしたら、「近頃の若者は何を考えているかわからない」と結論づけるようなもので、一般化のしかたがあまりにも安易だ。これは統計学でいうサンプリングバイアスであって、もうちょっとサンプリング(サンプルの選定)に気をつけるべきだと思う。偏見は、サンプリングの安易さに由来することが少なくない。そして固定観念や偏見は、集団だけでなく、個人に対しても向けられるものだ。

 固定観念や偏見は、理性の不徹底に由来するという意味では、分野横断的な議論において生まれやすい。そうした事態について以前に記事を書いた。

 ①答え合わせのないまま進む議論と、それについていく人々 - ありそうでないもの

 ②専門が複数にまたがる問題 - ありそうでないもの

 

 そこでは、議論の妥当性について、聴衆がレフェリーになることができない。しかし話し手の雰囲気や社会的地位、これまでの経歴、或いはその場の空気などの要因によって、話し手自身の専門外の事柄についても、内容が妥当であると判断してしまう可能性が高まる。議論をしているのが誰かということではなく、議論の内容自体について判断することの比較はナンセンスであり、本来的には何を言うかということがまず判断の対象となるべきであるということも以前に書いた。

誰が言うかと何を言うかを比べるのはナンセンス - ありそうでないもの

 

 

 今回のイスラム国の呼称の話が、単に呼称を変えただけで解決とされるのではなく、もう一歩踏み込んで、私たちが呼称を変えたほうがいいと考えた背景にはどんな事情があったのかということにまで深まってほしいと思う。「安易な一般化」という根を変えない限りは、同じような問題はこのケースとは異なる個別の社会問題でまた起きうるし、それがメディアで流れれば偏見は助長され、固定化されていくことになるだろう。

 

 問題とされるべきは、問題を生み出す背景に潜むなんらかの社会的認識、或いは通念である。そこが明らかにされない限りは、問題は同じ領域であれ、或いは別の領域であれ歴史的に繰り返され、本質的には問題が解決されないだろうと思う。このことについて、近頃読み始めたドネラ・メドウズ『世界はシステムで動く』にちょうどよい引用が載っていたので引用する。引用の引用である。

 

工場を取り壊しても、工場を作り出した理屈がそのまま残っているなら、その理屈が別の工場を作り出すだけだ。革命が起きて政府を倒したとしても、その政府を作り出した組織的な思考様式がそのまま残っているなら、その思考様式は同じことを繰り返すだろう……。システムについて語られることは多い。そして、ほとん理解されていない。

ロバート・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』〔邦訳は早川書房

 

 

 また、そういう偏見の助長や固定化にソーシャルメディアが一役買っているところがあるとしたら、なんとも残念である。「テクノロジーは中立的な存在だ」とナイーブに信じているわけではないけれども、信じないのであれば、「いかにして中立的たりえないのか」という原因について自覚的でありたいと思う。このことについて、包丁と車の2つの例を挙げて考えてみる。またこの2つの事例は、道具の使用を禁止しても問題は解決しないということの例でもある。

 

 テクノロジーを生み出す人間が中立的ではあり得ないという理由によって、あらゆるテクノロジー自体もまた中立的なものではあり得ない。包丁は料理のための道具であると同時に、殺人のための道具にもなりうるということがよく言われる。しかし、包丁が殺人の凶器として使われたからといって、包丁の使用を全面的に禁止するのは、ナンセンスだ。けれどもその一方で、「では料理のための道具としての包丁とは?」ということを考えると、それは「料理」という行為が、殺人ではないにせよ、やはり動物や植物の命を奪うことを前提として成り立っているということを思い起こすと、殺人とは異なるにせよ、やはり「殺す」ということと無縁ではありえないものであることに気がつく。その上で「包丁を生み出す精神」ということを考えてみると、やはりそれが中立的なものとは言いがたくなる。

 

「殺す」ということを中心に道具の議論が展開されることに違和感を覚えるのであれば、車でもいい。車もまた、包丁と同様、人の命を奪っているという側面が確かにある。もちろん車自身が奪っているわけではなく、法的には「運転者、或いは歩行者などの過ち」ということで対応されることになるけれども、やはり包丁と同じく、道具を巡って人の命が奪われているという現実がある。しかしだからと言って、車の運転を全面的に禁止するのは、やはりナンセンスだ。この場合は、車はそもそも移動手段として、馬車よりも効率良く遠くへ移動できる手段として生み出されたという背景がある。そこに潜んでいるのは「移動の効率化」という価値観であって、もちろんこれは中立的なものではないし、これを抜きに自動車が生み出されるということはなかっただろう。

 

 こうした道具の使用と禁止についてはまた別の記事で詳しく書こうと思っている。そこでは、近頃教員と生徒の間で問題の種とみなされがちなLINEの使用とその禁止ということを中心に考える。

 

 偏見の持つ潜在的な暴力性や残酷性ということについて近頃考えているせいだろうか。改めて偏見の原因について考えさせられることになった。