新聞とテレビについて

 メディアの偏向報道が取りざたされることが増えた。いつからか。安倍政権になってからか?安倍政権はイカれてるのだろうか?私としては正直そんなことはどうでもいい。というより、そういう捉え方で実りある議論が成り立つとは思えず、あくまで自分が解決に寄与すると信じられる捉え方でもって議論を展開したい。

 

「いつからか」ということについて、私の中では開始のタイミングははっきりしないが、増えたことは確かだとは思う。

 

 中でも新聞テレビの2つが問題になることが多い。新聞であれば慰安婦問題に関する朝日新聞の吉田調書の誤報、テレビであれば報道ステーションにおける古賀茂明氏の発言などをめぐって、言論の自由が抑圧されているとか、メディアの偏向報道だという形で問題が捉えられているのもよく目にする。

 

 しかし本当にそういうことが問題なのだろうか。「人と違うこと」にこだわる性格だからかもしれないが、どうも問題はそういうところではなくて、もっと別のところにあるように思えてならない。というか、もし言論の自由の弾圧」とか「メディアの偏向報道というところが問題だとしても、それはこれまでにも山ほど議論がなされてきたトピックで、どうも袋小路に追い込まれていくだけではないかという気がしてしまう。つまりどこかで「議論し続けるの疲れちゃった。もういいや。この辺でやめときましょ。」という形で、問題が解決しないまま終わってしまうのではないかと思えてしまう。

 

 さて、それでは問題は何なのだろう。

 

 まず指摘したいのは、テレビと新聞とをメディアとしてひとくくりにして論じるのは「議論のしかたとして雑だ」ということだ。両者の基本的な違いについて認識した上で、それでも共通している点に限り、ひとくくりにして論じるというのであればまだわかるが、そこを踏まえないまま論じているのではないかと思えるようなコメントや投稿が目立つ。

 

 テレビやラジオの場合は、他のメディアに比べて利用者が多いために公共性が高く*1、電波は限られているので、そこである方向に偏った報道を行うことは避け、公平・中立・客観・公正な報道を行うことが求められる。現在ではどれくらい名残があるのかはわからないが、ヒトラーによるラジオを用いたプロパガンダに対する警戒感も、ラジオというメディアの影響力について慎重である理由のひとつなのかもしれない。そういう形でラジオやテレビが利用されると国民は簡単に扇動・洗脳*2されてしまうのではないか、と。

 

 一方で新聞の場合は、その報道は複数の新聞社が並存した状態で行われているので、それぞれの新聞社は自分の「カラー」を出しても構わない、むしろある程度の偏向は自然なことであるというふうに割り切って捉えられる。ジャーナリズムの観点では、こうした偏向が同時に複数存在していることによって、ある問題に関する論調に幅が生まれ、厚みのある言論空間を作り出すことができるというふうに考える。

 

 基本的にはこうした違いがテレビと新聞にはある。しかし私はここに違和感を感じる。

 

 違和感の正体に話を進める前に、少し回り道のようになるが、よく目にする退屈な論調について書いておきたい。「テレビをつければどこの局も似たようなニュースしかやっておらず、日本のテレビは『カラー』がなくてつまらない」というような論調をたまに目にする。そして、大抵そういう論調の記事の中には、欧米のメディアの事情が日本と対比的に紹介され、「向こう(海外、そして基本的には欧米)では…」とか「世界標準では〜なのに、それに引き換え日本では…」という方向に議論が進んでいく。

 

そして結論。「なんだかおかしな国だよ、ニッポン」というやつだ。これはもう散々目にしてきた。個人的にはいい加減うんざりだ。議論に発展性を感じないし、なにより「おもしろくない」。時間をかけるに価するという感じがしない。

 

 こうなるともはやおきまりの、「海外に比べて日本は遅れている!日本も早く追いつかなければ!」的な危機意識を投稿者自身が確認する「作業」として後付けの論理で書かれているだけではないかという気すらしてくる。投稿者の反省に付き合わされているだけで、読者としてはいまいちスッキリしない読後感を味わうことになったりもする。

 

 さて違和感の正体であるが、テレビと新聞が基本的なところで異なる性格をもつものであるとされているのは、正しいのだろうか。多くの人にとっては新聞もまた、社会の出来事について知るための主要なチャンネルである。朝日新聞を購読している人の多くは、朝日新聞しか購読していないし、読売新聞や産経新聞しんぶん赤旗などの場合も同様だ。一紙しか購読していない購読者にとっては、新聞もまたテレビと同じように強い影響を受けるメディアということになるのではないか。たとえ企業間の競争環境や「紙と電波」という技術的なベースの違い、あるいは視聴者・購読者の規模の違いなどを考慮しても、「個々の人間に対して個別に及ぼす影響」という意味ではテレビも新聞も対等に強い影響力を持ちうるのではないか。

 

 注2で触れたように、ある個人が自分の見解を形成するときに、メディアからどれくらい影響を受けているのかということは、それほど明らかではない。認知科学的なアプローチ、心理学的なアプローチ、統計学的なアプローチなど、いくつかの領域からのアプローチが考えられるが、「洗脳」と簡単に断言してしまえるほど単純なものではないと私は思う。だからといって「洗脳されている人がいない」という意味でもない。「みんながそうとは限らない」というくらいの意味だ。ただしここで強調したいのは、「影響の経路がそもそもひとつとかふたつしかないというのはやっぱりまずいのではないか」という点だ。

A: なるべく複数の経路にアクセスできる状態を確保し、アクセスした上で、その中で自分はこういう位置に自分を位置づけますというのと、

B: ある経路にしかアクセスできず、自分でも気づかないうちにその経路に沿った立場に自分を位置付ける

とでは、意味が全然違う。自分の考えをまとめたり表明したりする前提として、情報源には幅広くアクセスできること、その上でどのポジションに自分を位置付けるかを選べる自由は、社会のインフラとして担保されるべきだと思う。

 

 仮に朝日新聞と読売新聞、産経新聞東京新聞日経新聞しんぶん赤旗毎日新聞など、主要紙を網羅的に購読している「時間的・金銭的余裕のあるインテリ読者」がいたとしたら、まあ実際一部にはそういう人がいるとは思うが、そういう人たちは新聞各紙の論調の違いについても日常的に目にする機会が多いので、ある問題について複数の視点にアクセスすることができ、バランスのとれた意見を構築しやすい「前提」があると言えるだろう。

 

 しかし現実にはそんな「余裕のあるインテリ読者」はごく少数だ。だいいち主要紙を毎日読む時間など、ほとんどの人間には存在しない。だから特定の新聞、特定の番組からしか情報を得る機会がないわけで、そうなれば当然、情報を入手する段階ですでにある程度範囲が狭められてしまう。ある問題について、本来ならA, B, C, D, Eの5つの意見がグラデーションのように並存しているとしても、そのうちのひとつしか知ることができないまま、その問題について意見を持ち、投票にしろ討論会での発言にしろ、友人・知人・同僚との他愛ない世間話の一環にしろ、それを表明しなければならないということになりがちである。

 

 理想論として言えば、みんなが余裕のあるインテリ読者になれるような社会的な条件を整備するというのがわかりやすい解決さくだろうし、現にそういう見方で提言している人も少なくない。そういう人は「上から目線」として非難されることも少なくないが、個人的には彼らと同意見だ。「みんなのことはみんなで決める」(民主主義)社会を選択したのだったら、それくらいの務めは果たせるべきだと思う。「果たすべきだ」ではなく「果たせるべきだ」と書いたのは、あくまでも各人の行動について「べき論」で語ることは避けたいからだ。「果たせるべきだ」というのは、「果たすために必要な前提条件を整えるべきだ」というくらいの意味で書いている。ここには、ある問題の解決策として、個人の責任というところに問題の原因を帰属させ、個人の行動に対して「べき論」を展開するアプローチには、個人的には懐疑的であるという、私個人の思想的な立場も関係している。

 

 ワークシェアリングでもキュレーションアプリの進化でもいい。情報についてはとにかく多様なソースに時間をかけてアクセスできる「ゆとり」がなければ、新聞だろうとテレビだろうと、メディアの報道のしかたに由来するとされている問題は解決に向かって進まないのではないかと思う。「ゆとり」というのは、金銭的な意味と時間的な意味の両方で。

 

 まあキュレーションアプリが進化することによって、新聞各社はますます危機感をつのらせ、部数を伸ばすためにこれまで以上に「特ダネ」に走りやすくなり、誤報が増える…という流れになってしまうと本末転倒であるわけだが。

 ジャーナリズムは甦るか

ジャーナリズムは甦るか


 

*1:少なくともネットメディアがはやり始める昨今までは、という留保が必要だが

*2:今でも「テレビ=洗脳装置」というような議論を時々目にするが、これは個人的には胡散臭く思えてならない。タバコとガンの因果関係は証明されていないにもかかわらず、タバコを吸っている人はガンにかかる人が多い!タバコは危険だ!という「トンデモ論理」統計学的にいえば「見せかけの相関」と因果関係の混同)と同じで、テレビ番組を見ている人がその番組と同じ立場を表明していたら、それだけで「ほらみろ、テレビ番組の洗脳の証拠だ!」ということになるだろうか。そうは思えない。「証拠不十分で不起訴」ではないか。