働き方改革もインフレターゲットもマイナス金利も意味ないんじゃないか

と思っている。問題はむしろ一部の人間がもっている莫大な資産*1が消費でなく銀行預金に回され、しかし預金に回されたところで消費の当てがなければその預金が融資につながることもなく、それでも銀行はやっていかなければならないので日本やアメリカの国債を買うくらいしかなくなっている。日本やアメリカの国債を買ってそれぞれの政府の財政を維持なり改善なりしたところで、消費が増えなければ意味がない。

 ではどうするか。政府による再配分、あるいはせめて、一部の裕福な人間たちにもっと消費してもらうしかない。それはもう、とんでもなく豪勢に使ってもらうしかない。そうでないとお金が回っていかない。貨幣の流動性はいつまでも低いままだ。不動産は文字通り不動の資産になってしまっている。マイホーム幻想は広がるばかりだ。

 大学にいた頃、マクロ経済学の授業では経済を短期と長期で分けて考え、短期では需要(消費)が、長期では供給(投資)がそれぞれ重要であるということを教わった。「供給はそれ自体が需要を作り出す」というセイ法則は長期に当てはまる法則として説明される。古典派もそれを数学的により精緻に体系化した新古典派も、基本的には長期を軸に経済の変動を考えている。これに対して、公共事業の拡大やそのための増税の正当化に用いられるケインズ主義は短期を軸に考えている。

 そして消費を喚起するためにインフレ率を操作するインフレターゲットは、消費をするための原資を持つ消費者が十分な数いれば成り立つが、給料が上がる前に消費を喚起されても消費は伸びない。大多数の人間は消費しようにもそんな余分などそもそも持ち合わせてはいない。そんな余分があるごく一部の人間が消費しなければ意味がない。そしてそういう消費のゆとりがない人間の残業がなくなったりインフレになったりすることが、消費を一気に増やす効果をもつとも思えない。

 あるい銀行にマイナス金利を設定してもっと積極的な融資を促したところで意味はない。買いたくても買えない人だらけなのだ。家も車も、旅行も、もっと小規模の色々なものですら。家なら豪邸を10軒以上、車なら100台以上買え、旅行も一生できるような資産をもっているごく一部の人間が、当然家は多くても数軒、車も多くて数台、旅行も年に何度かというくらいしか行かず、余ったお金はどうするかと言えば、当然預金だ。その預金は銀行で融資のための原資になるが、融資先がない。

 高級外車を何台も買ったり、豪邸をいくつも買ったりする成金的な富豪が非難されたりするが、私はむしろそういう人たちはどんどん消費した方がましだと思う。高級外車にしろ豪邸にしろ、消費をすればそれは別の誰かの所得になるのだから。逆に「清貧」を気取ってお金を使わない富豪の方が、哲学としては立派かもしれないが、それが経済にもたらす負の効果を考えると、思慮が浅いのではないかと思ってしまう。グッチやプラダを着ている富豪よりも、ユニクロを着てあとは貯金という富豪の方が、マクロ経済に与える負の効果は大きいのではないか。あるいは別の言い方をすれば、言動が鼻につく若いIT企業社長よりも清貧を説く中高年の大企業社長の方が、困った存在なのではないか。 

 再配分という意味では企業の内部留保を減らして労働者にもっと給料を与えるというのも手だと思う。これは時々目にするが、企業の内部留保が多いのは不景気の原因ではない。むしろ結果なのだという論もあって本当に厄介だと思う。因果関係は逆で、消費の原資として賃金が労働者に配分されないから消費が増加しないままになり、その結果として不景気になるという順序だ。莫大な資産を持っている人間に消費してもらうなり課税を通じた再配分なりを考えた方が効果は大きいと思うが、実現のハードルを考えると企業の内部留保を取り崩すということを何らかの政策を通じて促す方が手をつけやすいかもしれない。

 あるいは富裕層の預金が銀行を通じて別の企業への投資へ回り、その投資はその企業の労働者への賃金として分配されていけば、有効需要は増えるので経済へよい効果を与えるだろう。しかしいくら投資がなされてもそれが人へ配分されなければ、少なくとも短期では意味がない。その意味では、投資一般が悪であるというのではなく、賃金上昇を通じて有効需要を増加させないようなタイプの投資はよくないということになる。

  こういう構造を変えることは難しいから、他の方法として働き方改革なりインフレターゲットなりマイナス金利なりに手をつけているということだと思うが、それらでは構造を変えるほどの効果はないのではないかと私は思う。

 お金持ちが消費せずに投資ばかりするようになった経済は回らない。そういう意味では日本に限らずアメリカも同じではないか。

*1:「一部の富裕層が」ということが話題になると「でも日本は富裕層だと収入の半分は税金で持っていかれるじゃん」ということが指摘されるのを目にするが、半分持っていかれてもなお手元に残る金額が膨大だったらどうなのだろう。日本人はアメリカほど派手にお金を使わないことがまるで美徳のように言われることもあるが、結果論からいえば富裕層はむしろ派手に使った方が経済全体のためではないか。

情報の系列化

 少し以前のできごとになるが2月の上旬にこんなニュースがあった。18歳のアイドルである松野莉奈さんが急死し、その死因について、事務所の正式な発表がなされる前から「ウイルス性の脳症が原因では?」というデマの情報がTwitterなどで拡散したというものだ。*1

 起こったことを時系列に沿って並べると以下のようになる。

 

2月8日 松野さん急死

2月9日 ウイルス性の脳症が原因ではというデマ情報が拡散

2月10日 松野さんの所属事務所が死因(致死性不整脈)を公表。

 

 9日の時点の情報だけに接した人間は、そこで一気にウイルス性の脳症について調べ、その影響はTwitterのツイート検索でも当時は検索候補の上位に「ウイルス性 脳症」という言葉が表示されていたことに現れていた。10日の事務所発表によって、ウイルス性の脳症が死因とする情報はデマだったことがはっきりしたが、それまではデマと気付かずにその情報を信じた人も少なくなかったのではないか。当時、Twitterでは「ウイルス性の脳症」というツイートをたくさん見かけた。ほんの数日待つだけで、調べるべき単語は「ウイルス性脳症」から「致死性不整脈」へと変わっただろう。ツイート検索の候補もそれに応じて変化しただろう。

 芸能人の死という問題に限って言えば、「所属事務所の公式発表を待つ」というのを基本姿勢にしていれば、デマに振り回せれずに済んだという考え方もできる*2が、一般にこういう医学関係のニュース、あるいはさらに一般に専門知が関わるニュースでは、私自身も含めて大多数の人は専門的な知識を持たないため、情報の真偽を自分の力で評価することができない。少し前に問題になったDeNA運営のWELQでも状況は同様であったし、医学以外の領域、例えば原発事故や食品の安全性、STAP細胞地球温暖化、最近では森友学園に関する大阪での国有地払い下げ問題など、専門知が問われるニュースというのは短期では意見が割れやすく、長い時間をかけてコンセンサスが形成されていくものだ。しかしコンセンサスができる前にはもう別のセンセーショナルなニュースが現れて、短期間でなされた評価が消費されて終わる。そして多くの門外漢の人間は「結局どれが正しいの?」ということを判断できず、誰の情報、或いはどこの情報を信じればいいのかということがわからなくなりやすい。人々が社会で起こる問題について参照するメディアが、全体として「短期」に引っ張られ過ぎていて、もう少し時間をかけてまとめられた意見がメディアの中で見かけなくなった。本は別だが。

 「誰が言うかよりも何を言うかの方が重要である」というのが私の個人的な考え方であって、これについては以前にも記事を書いたことがあった。これに関連して最近こんな記事を読んだ。

gigazine.net

 「誰がシェアしたか」を基準にするのは、ある意味では妥当と言える。自分の専門外の問題について理解を深めるために、その分野について自分よりも詳しそうな人間の見識に頼るのは妥当であるし、たとえば教育というのも自分よりも詳しい人間から学ぶ機会を与えるということを前提に設計されている。教育的効果という意味では、「誰がシェアしたか」基準は非専門家の人間に専門家の視点を紹介し、専門知に触れる機会を与えるという意味で意義がある。私がそれでも「何を言うか」の方を重視するのは、専門知は自分で学べばよく、一旦学べば誰が言うかよりも何を言うかで言論の内容を評価できるようになると考えているからだ。

 しかし一方で、世間で起こる問題について人々が意見を参考にする人間がその問題についての専門家であるかというと、いつもそうとは限らない。いや、むしろ「著名人」ではあっても専門家ではない人間の意見が参照されていることも少なくない。起業家が原発問題についてツイートしていたとして、いくらその起業家が大きなお金を動かしているとしても、原発についての専門知を持っていなければ「誰が言うか」に引っ張られるべきではない。これについて、ショーペンハウエルの『読書について』から引用する。

 作品は著者の精神のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、常に比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だがそれだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間の書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくてためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。(ショーペンハウエル『読書について』(岩波文庫)p.138, 139)

 私が個人的に好きな映画の一つに『グッド・ウィル・ハンティング』がある。その後半部分で、主人公のウィルは数学の証明の問題を解くためにマクローリンの公式を使うのだが、それが誰の公式かということはちっとも気にしていない。これも「誰が言うかより何を言うか」の一例と言えるのではないか。映画のスクリプトの一部が載っているサイトを見つけたので引用する。

トム:教師が天分を見抜けないので自分はバカだと思い込む優秀な学生が多い。その点君は幸せだ。ランボー先生は君を認め手を差しのべてる。
ランボー:やあ、ウィル。トム、コーヒーを。
トム:いいとも。
ランボー:解けたか?いいぞ。正しい証明だ。マクローリンの公式か。誰の公式だか…こうなるのか。私が間違いを?
ウィル:それが正解です。次からはショーンの所で。ここはバイト先が遠くて…
ランボー:いいよ。この計算は…
ウィル:計算は合ってます。ゆっくり確認を…
そしてウィルは去る。

(表記を一部修正の上、以下のサイトから引用

http://www.oocities.org/take12take/zeminar1.htm

 

 SNSでは、情報は早くシェアされやすいという速報性のバイアスがかかっている。数日、あるいは数週間、あるいは数ヶ月に渡って時間をかけて調べた結果をまとめた投稿などは、SNSで見た試しがない。4月7日に発表されたニュースは数時間以内、あるいは遅くとも翌日か数日以内にはシェアされてしまう。そこには複数の情報を連ねた系列が存在しない。 他の情報との間の連関が見えない。「情報の断片化」というのは、SNSの登場以前から、ネット上にある情報の特徴としてしばしば指摘されてきた特質であったから、その意味では今更という感じもするが、それだけ指摘されてきたにもかかわらず、ネット上の情報も、そしてSNS上の情報もちっとも系列化されていないのは何故なのかということついては、今更ではあれ考える意義はあると思う。

 もちろんあるサイトの内側で、同一執筆者の記事が連載記事としてまとめて読めたり、ある記事の途中や下に関連記事として同一イシューの記事が紹介されているということはある。けれども他サイトの記事は利害関係に引きずられて紹介されていない。プラットフォームのYahoo!のニュースやLINEニュース、NAVERまとめなど、複数のソースの記事が関連記事として紹介されているページもあるが、そこでは同じ日付の記事どうしが横並び的に参照されていたり、あるいはラグがあってもせいぜい数日か数週間というくらいの時間の幅しかなく、問題の背後にある構造を照らし出すのに必要な時間の幅として十分とは思えない。個々のサービスとそれが提供するコンテンツの時間的な幅の関係については、以前からいくつかの記事を書いた。

[1] 情報と時間 - ありそうでないもの

[2] ランキングと記憶と銀行について - ありそうでないもの

[3] RSSでもキュレーションでもGoogleでもSNSでもなく、欲しい情報をどうやって得るのか - ありそうでないもの

 キュレーションサイトやニュースサイトはそもそもそういう目的で作られたものではないといえばそれまでかもしれないが、では他にそういう目的を持って機能しているサイトなりサービスが大きな規模で展開されているかいえば、今は単行本くらいしかないように思える。新書や文庫本では紙幅の都合などで付いていないこともあるが、巻末の索引や参考文献のページを見ると、2017年の問題を論じる本であっても1990年代や2000年代、あるいはもっと以前の本や記事や論文が参照されながら論が展開されていることが確認できる。TwitterFacebookで、そういう時間の幅をもったツイートや投稿を見かけることはほとんどない。ほとんどのツイートは、今この瞬間の反応の速さを競うようなものばかりで、「自分の方が早くから知ってた」というアピール合戦に終始しているような印象すら受ける。そこでは「真実が何か」ということよりも、「今この瞬間にインパクトのある素材かどうか」という、昨今しばしば指摘される「ポスト真実」(post-truth)の状況が展開している。

 デマかどうかを確かめることやファクトチェックについては、Facebookも対応を取るようになったし、他の様々なサービスでも真実かどうかを確かめることに重きを置く風潮は生まれてきている。WELQの問題もそういう風潮を後押しするのに一定の貢献をしたというポジティブな評価を与えることもできないではない。けれどもこの問題について、ここまでの趣旨に即して考えるならば、情報をある程度の時間の幅を持って系列化し、人々がその系列を容易に確認できるようにすること、そしてもちろんそれは情報を得る各人の興味関心に影響されてフィルターバブルの問題につながらないようにすることが必要ではないか。
 思えば検索エンジンGoogleは創業当初、他の多くのサイトからリンクされているサイトこそが、内容的に価値のあるサイトであるという考え方をベースにしてネット上のページをランクづけすることで、スパムに対して頑健なサービスを生み出したというところに意義があった。もっとも初期のGoogle検索エンジンアルゴリズムについて解説した『PageRankの数理』から引用する。

 HITSとPageRankとは,  地理的にも時間的にもそう違わないところで発見されたのだが,  独立に研究されたきたようにみえる.  この2つのモデルの間の関連は驚くべきものである([110]*3参照).  それにもかかわらず,  この多忙な年以来,  PageRankが主たるリンク解析モデルになったが,  それは,  クエリー独立性(3.3節参照),  スパムに対する事実上の免疫性,  およびGoogleのビジネスにおける巨大な成功によるものでもあった.

(第3章 人気度によってウェブページをランク付けする

    3.1 1998年の場面 p. 32, 33より太字筆者)

 それは学会の論文の相互参照のしくみにヒントを得て生まれたアイデアだったが、その後のネット上のサイトの群れを見ていると、検索エンジンアルゴリズムのアップデートの間で今もいたちごっこを続けているSEO対策を割り引いて考えても、学会の論文参照とはかけ離れたノイズばかりの世界になってしまった。検索者個々人に最適化した結果としてフィルターバブルの問題が指摘されたりもした。学会の論文についてもすでに頻繁に引用されている論文ほどさらに多くの参照をされやすいという歪みがあることは以前から指摘されているが、それにしてもネットほど酷くはない。

 それでは学会の論文参照と今のGoogleはどこがどう違っているのか。あるいは冒頭の問題意識に引きつけて言うならば、どうして他のどの領域よりも多くの情報がアーカイブされているこのネットという空間が、アーカイブという長期の情報が活用されず、短期のセンセーショナルな情報ばかりが消費される最大の消費地のようになり、新聞やテレビもその短期性に引きずられるというような状況になってしまったのか。

 学会の論文参照に相当するシステムをネット上で実現しようとするときにGoogle以外のやり方はないのか。アーカイブされた過去の情報がもっとうまく掘り起こされて有効活用される空間を作る方法はないのか。

 

ある、と思う。あとは「ではいかにして?」だけではないか。手がかりはある。図書館の本の並べ方について、ほとんどの人は文句も言わずに受け入れているのは何故なのか、ということだ。そこにはフィルターバブルなどない。そして個人への最適化もない。けれども人々は図書館へ足を運び、そこでそれまでは知らなかった本に出会う。恣意性のない並べ方をすれば、たとえ「自分個人向け」に最適化などされていなくても、人々は自然にそれを受け入れるのではないか。本の巻末の参考文献について文句をつける人がほとんどいないのも同じ理由ではないか。ではそれをネット上で実現するにはどうするかということだ。

 

*1:

matome.naver.jp

*2:芸能人の死とは異なるが、集団的自衛権をめぐる憲法改正に関する論議で生じる誤解についても、政府の公式発表を参照しないために誤解が輪をかけて拡散していくということがあるのではないかということを以下の動画を見て感じた。

www.youtube.com

*3:Amy N. Langvile and Carl D. Meyer. A survey of eigenvector methods of web information retrieval. The SIAM Review, 47(1):135-161, 2005

情報と時間

 近頃、情報と時間の関係について考えることが多くなった。それぞれの情報は、その属性に応じて、必要とする人へ届けられるべき「タイミング」というものがあるが、現在のインターネットはそういうところがうまく設計されていないのではないかと感じることがある。リアルタイムの情報はどんどん忘れ去られ、アーカイブはほとんど活用されていない。それは新聞を読んだりニュースを読む人が多くても、図書館へ足を運ぶ人が少ないことから推してもわかる。ネットであれば解決する問題とも限らない。

 TwitterFacebook、ニュースサイトやRSSフィード購読では、個人の他愛ないつぶやきから近況報告、これからやろうとしていることの宣言、今のこの自分を認めてもらえないことへの不満、叙情たっぷりのポエム、どこかのサイトの記事のシェアなど、良くも悪くもあらゆる情報がリアルタイムに更新される。RSSフィードならば、記事を後からまとめ読みすることもできなくはないが、TwitterFacebookともなると、過去の情報はタイムラインの下へ下へとどんどん押し流されていくため、後からまとめて読むのが面倒だ。ニュースアプリともなれば、そもそも「後からまとめて読むもの」としては設計されていないだろう。例えば、Yahoo!ニュースはあとからまとめ読みができるが、Smartnewsは政治のタブや経済のタブなど、それぞれのタブにタイル表示される記事は時間に応じてどんどん変わっていくため、過去の記事を読むのには向いていない。もしも過去の記事を読みたければ、GizmodoならGizmodo、東洋経済オンラインなら東洋経済オンラインというように、それぞれのサイトを訪問する必要がある。もっともそこで読むことができるのは、それぞれのサイトごとの過去記事であって、他のサイトの過去記事を読みたければまたそのサイトを訪問し…ということになってしまう。

 ある問題があって、それを解決するのに必要な情報がまさに必要なタイミングでもたらされるためには、情報を共有するタイミングが重要だが、ある人が今日共有した情報が、他の誰かにとっては昨日必要な情報であったり、或いは1年後に必要な情報であったりということは十分考えられる。ではそれぞれの人がそれぞれ必要なタイミングで、必要な情報をうまく入手できるためにはどういう条件が必要であるか。

 例えば私は今日、こんな記事をSmartnewsで目にした。

j-town.net

 タクシーを降りるとき、もしも忘れ物をした場合にタクシーの番号が特定でき、その忘れ物を届けてもらえるため、レシートは受け取っておいた方がいいという趣旨の記事である。私はこの記事を19時過ぎに読んだ。別の人は朝、或いは仕事の合間、或いは電車に乗っているときに読んだかもしれない。しかしまさにタクシーに乗っているときにこの記事を読んだ人間はかなり少ないだろう。この記事がもっとも役に立つとき、つまりタクシーを降りる直前に、この記事のことを思い出しやすくするためには、タクシーに乗っているときにこの記事を読むのが最適であるにもかかわらず、である。

 ネットで公開されるそれぞれの記事をいつ読むかということは個人の選択の自由であるから、もちろんこの記事もいつ読まれるかは自由である。各自が時間のあるときに読めばいいだろう。しかしその一方で、それぞれの情報には知られるべきタイミングというものがあることも確かである。各自の選択の自由に任せておいて、タイミングがうまく合う保証はない。冒頭に「ネットであれば解決する問題とも限らない」と書いたのは、ネットであれリアルであれ、情報の入手とそのタイミングは各自の選択の自由に委ねられているからだ。自由であればよいというわけではない問題もある。タクシーのレシートを受け取っておくべきという内容の記事の場合、それをベッドで寝転んで読もうが電車の中で読もうが、彼女がトイレに立ったレストランの席で暇つぶしに読もうが、それは各自の自由だと考えるよりも、タクシーでレシートを受け取らず、かつ忘れっぽい人間は一律に「タクシーに乗っているとき」にこの記事を知った方がいいだろう。忘れっぽいというのは、「タクシーの中にものを忘れてしまうような」という意味だけでなく、「まさにこの記事を必要なタイミングで思い出すことが苦手な」という意味もある。

 ネット上の様々な情報について、それぞれの情報が閲覧されるべきタイミングを機械学習で学習させ、分類器で属性ごとに分類し、タイミングを分散させるというアイデアが浮かんだ。本が優れているのは、家にいれば必要なときにいつでも手にとって閲覧(ブラウズ)できるからだ。「確かこれについてはあの本に書いてあったな…」ということがわかりさえすれば、その本を手にとって必要な情報を見つけ出して活用することができる。ネットともなるとそうはいかない。Evernoteにどんどん記事を保存する人もいるが、必要なときに必要な情報を取り出すのに、Evernoteは本ほど最適化されてはいない。キーワードが思い出せればいいが、思い出せなければ該当記事はEvernoteの記事の海の中に沈んだままである。タグである程度の分類を行なっているとしたら、毎回毎回タグの分類を行う手間が生じる。それを手間と考えない人間ならばそれもいいだろうが、万人向けではないことは確かだ。タグの分類基準が変わることもある。

 そういうわけで、やはり機械学習の技法に習熟して、情報と時間の関係を最適化した仕組みを作ってしまう方が効率がよいということになりそうだ。

クリスマス

 久々の投稿になる。前回の投稿から何冊か本を読んだり、考えたりしたこともあったが、特に文章にしたりはしないまま、27歳だった私は誕生日を迎えて28歳になり、気づけばもうクリスマスである。

さて今年のクリスマスイブは去年とは違い、あえて仕事を休んだ。休みをもらうとき、「彼女?」と勘繰られたりもしたが、そういうわけではない。Twitterでもつぶやいたが、恋人でもいないと仕事を休めないのかと思わないでもない。私の場合、個別指導の塾で中高生を相手に授業をしており、この時期ともなると中学や高校は冬休みに突入している。だから通常授業に加えて冬期講習が入ることもあるし、とりわけ受験生ともなると、年末年始の時期は重要だ。そんな中でクリスマスイブに休みとはなんたることか、という考え方もないではないが、私はそれでもあえて休みを取った。

 去年は普通に仕事を入れていて、いつもよりも早い時間帯から授業をしていたと思う。そしていつものように電車に乗り、特にケーキやチキンなども食べずに、なんとなく「クリスマスだなぁ」としみじみ思いながらTwitterを眺め…という、そんなクリスマスだったように思う。

 今年はといえば、特にクリスマスに予定はなく、強いていえば日曜だったので、青山のBLENZコーヒーで読書をしながら来るはずのない人を待とうかと思ったりもした。クリスマスの一週間以上も前からそう思っていたが、結局実行せず、私は特にどこへも出かけなかった。夜になってから近くのコンビニへ行ったくらいのもので、クリスマスプレゼントなども特に買わなかった。

 しかしそれでも、数日前にAmazonで注文した洋書のうちの1冊が12月26日に届くことになったというメールを受け取っており、強いていえばそれが1日遅れのクリスマスプレゼントと思うことにした。恋人でもいればもう少し違った気分で過ごすことができたのかもしれないが、何しろ今の自分には出会いなど全くない。何より経済的には未だに自立すらできていないのだから、恋人よりも先にまずはどこかの企業に正社員として就職し、奨学金の返済や年金を払ったりしなければならない。

 

さて、もう26日だ。今日は12:00から授業があるため、10時には家を出なければならない。それまでに洋書が届けばいいのだが…。

 

視力

 比喩的にも文字通りの意味でも、目の悪い自分に比べれば、作家や画家やアニメーターや、映画監督やデータサイエンティストといった人たちの目の方が、何かについてよほどよく見えているんじゃないかと感じることがある。

 たとえば自分に見えている「東京」よりも、こういう人たちの見ている「東京」に触れる方が、東京がよく見えるのではないか、と。

 その一方で、目が良くなりたいという願望も消えず、「この人の目は良いに違いない」と自分が信じられる人のその「見え方」を、よく考えるようにはしている。何を見ているのか、何をあえて見ないのか、どんな角度から、どんな位置から、どんな範囲を見ているのか、網膜には何が写り、脳には何が映るのか。網膜には100の事柄が写っていても、見え方の型を身につけた人は、見るべきところだけを選択的に見て、それ以外はあっさりと無視する。見方にメリハリがあるといってもいい。

 また、しゃべったり書いたりすれば、その人が何を見たのか、何を聞いたのか、どんなことを感じ、考えたのかは、ある程度はわかる。

 昨日は大崎駅の近くにある、スタバとツタヤが併設されている書店で、森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』を買った。帯に「三年ぶり待望の文庫化!」とあるので、この作品は2013年のものだ。当時の森見さんは何を見ていたのか。それは作品をよく読めば見えてくるはずだ。そこにどんな問題が見えるか、どんな京都が見えるのか。或いはどんな人間の姿が見えるのか。

 自宅に帰って読んだWIREDの記事には、Googleで働いてたトーマス・ミコロフが自然言語処理の革命的なアルゴリズムであるWord2Vecを開発し、そのコードを一般公開したのが2013年だということが書かれていた。これも2013年。一方では世界中の情報を整理して誰にとっても使い易いものにしようとするGoogleで働くミコロフが言葉をプログラムとして眺め、他方では京都を舞台に作品を描き続けている作家の森見登美彦の書いた若手社員の冒険の物語が単行本になっている。両者のあいだには、一見したところなんのつながりも見えない。けれどもどちらも、言葉を介して同じ年に表現されている。また彼らに限らず、2013年に生きていたそれぞれの人が、それぞれの関心に沿ってものを見て、何かを表現している。あるいはしつつあるということもあるかもしれない。或いはできずに悶々としているかもしれない。自分に見えているものをうまく表現することは、今でも難しい。

 最近はデザインやユーザーインターフェース、或いはインフォグラフィックに関する本を少しずつ買っている。Googleとは別の検索エンジン、或いはポータルサイトのようなものを作ろうと思い続けて今日に至っているが、それはどう表現すればいいのか、なかなかはっきりしないままだ。それは見えてはいるが、表現が難しいのか、それともそもそもよく見えていないのか。おそらくは両方なのだろう。よく見えておらず、しかも表現するための技術も今の自分にはない。なかなか困った状況だ。それでも誰かの書いた文章を読み続けることによって、色々な人の見ているものに触れ、インスピレーションを得ようとしている。

非父論

 道徳論を声高に主張する女性が抱く父へのイメージというのが、大体似通っているということを経験的な直観としてもっていたのだが、阿川佐和子さんが最近『強父論』という本を出しているのを書店で見て、ますますその直観に対する確信を強めた。

強父論

強父論

 

 

つまり、「強くて怖くて、でもやさしい父がいないから世の中おかしいんだ論」というジャンル。

 こういう主張をする人間は何も女性に限らないし、あまり言い募れば偏見の謗りを免れないのかもしれないが、その一方で道徳にうるさい女性が持っている父のイメージについては実際その通りではないかという印象が拭えない。そしてその傍証は次々と目にすることになる。もちろんこの発見の過程には私の確証バイアスが関わっているだろうし、いまこうして記事を書いている最中に記憶から思い出されることについては利用可能性ヒューリスティックが関わっているということもいえるだろう。

 また、何か問題があるときに「道徳的にはこれが正しい!そして後はそれをバシッと言えるリーダーシップの強い男らしい人間がいればよい」という論の立て方をしている人は、何も阿川さん個人に限らない。その意味では、上のような私の書き方は阿川さん個人への過度な責任転嫁をするつもりはない。単にそうした考え方をもっている女性の一人に阿川さんが含まれるのではないかと考えているだけだ。そしてちょっと注意深く見ていれば、そこかしこに同じ類型の論者を見つけることができる。

 しかし、そういう論じ方になってしまったらおしまいだと個人的には思う。道徳的に何が正しいのかなど、大抵の人間は一々言われなくてもわかっている。わかっていながらそれでもやっぱり問題を起こしてしまうわけで、「ではどうするか」というところから考え始めなければ話が前に進まない。

 「人を殺してはいけません」と恐くて優しい父が言えば殺人がなくなるほど、物事は単純ではないし、そんなことで解決した気になっているのだとすれば、人間をなめすぎだとさえ思う。「簡単ではない」とか「単純ではない」という表現は厄介で、本当はそうではない問題すら無駄に複雑にしてしまう危うさがある。そういう危うさには注意しつつも、依然としてやはり怖くて優しい父という主体に寄りかかりすぎであると私は考える。

 そもそも「父」的なものの典型的なイメージは、女性の社会進出と男女平等が制度の面でも社会通念の面でも前進*1し始めるより前の産物であって、その後はフェミニズムの潮流が生まれ、それに対するアンチフェミニズムも生まれ、最近ではいわゆる「LGBT*2もあったりで、時代錯誤感が否めない。

 性の認識について社会が変化した今、阿川さんが育てられたころとは状況がずいぶん異なり、もはや社会で起こる問題の責任を、父だけでは支えきれない。

 ちなみに私はこの本『強父論』を読んでいない。そもそも読む気になれない。おそらくは阿川さんの恐くて優しい父と、阿川さんの感動のエピソードがてんこ盛りなのだろうと思う。もちろん感動一辺倒ではないかもしれない。阿川さんの反抗期があり、そして後になって、父の厳しさや怖さの意味、その奥に潜む優しさに気付く…というような、そういう展開なのではないかと推測している。それを裏付けるためだけに読むくらいならば、はなから読みなどしない。裏切られるのであれば喜んで読むが、どうも裏切られる気はしない。私が何より違和感を感じるのは、そういう父に育てられた阿川さん自身が、一人の女性として父と同じ役割を担おうという意識がないのではないかと思われるからだ。本当に男女平等を考えるなら、女性が自分で何を担うのかということを書かないと、現代の性認識からは乖離しているように思えるのである。私が『強父論』を読まず、ここで勝手に推測した以上の「何か」が、この本の中で語られているという「期待」が持てないのだ。実際にそうか否かということは問題ではない。どんな本も、読む前の「期待」によって1ページ目、2ページ目…そして30ページ、100ページと読み進めるかどうかが決まるのだから。

*1:ここで「定着」とか「浸透」とか「普及」という言葉でなく、「前進」という表現を使ったのには理由がある。社会を見ていると今でも女性の社会進出が十分とは思えないし、男女差別は依然として存在しているからだ。しかしそれでも、前進はしているのではないかというのが私の認識である。

*2:LGBT」という言葉については、自分は違和感を感じている。この4文字で名指されるような人々が、「普通ではない」ということを暗に示していると感じるためだ。「LGBTの人々の立場」とか「LGBTの人々への配慮」という表現に、私は強い不信感を禁じえない。それはそう主張する人間の、「私たち普通の人々が、普通でないあなたたちもちゃんと認めますよ」というポジションを無自覚に宣言したものであるように思われるからだ。LGBTという表現の前に「いわゆる」という表現をつけたのもこうした理由による。

Siriたち、或いはGoogleたちについて

 iPhoneに標準搭載されている音声ガイドのSiriは、使えば使うほど利用者の要求にあった対応ができるように学習していく。しかし多くの人はそこまで辛抱強くSiriを使い続けることはないのではないだろうか。一部のヘビーユーザーたちのSiriは、とってもとっても賢いだろう。そして他の多くの、おそらくは大部分のライトユーザーたちのSiriは、ずっと聞き間違いばかりしている。そしてそのうち、全く使われなくなる。Stay SilentなSiri。

 これは何も音声ガイドの領域にとどまらない。昨年から人工知能ブームが続いている。機械にどんどんデータを与えれば、機械はどんどん学習して賢くなっていくとされる。日常的に色々なことをググっている人のGoogleは、そうでない人のGoogleよりもずっと賢い検索ができるようになっているだろう。ヘビーユーザーとライトユーザーのギャップ。AさんのGoogleとBさんのGoogleは、おつむが違うのだ。

 ある企業の機械学習と別の企業の機械学習の学習スピードの違いよりもむしろ、同じ機械学習を使っていながら、ヘビーユーザーとライトユーザーの間で機械の側からのレスポンスの質に違いが生まれていることの方が、もっとずっと本質的な問題ではないかと思うのだが、そういう指摘はネットでは見当たらない。ネットでは人工知能といえば相も変わらず、「我々人類の仕事は人工知能にどれほど奪われてしまうのか」をめぐる冷静な研究者と熱狂的に恐怖を垂れ流す評論家の対立、或いは「介護ロボットで日本経済は復活するかも」のような、国家の行く末を特定の技術進歩によって打破しようといういかにも近代主義的な国民国家像を下敷きとする議論ばかりだ。世界の現実はグローバル化の方にある。

 さて本題に戻ろう。コンピュータをめぐる「デジタル・デバイド」というのであれば、FacebookユーザーとGoogleユーザーのギャップよりも、むしろFacebook内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップ、或いはGoogle内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップの方が問題だろう。なぜならそれは、個々の企業の方針の違いではなく、むしろ利用者の主体性によって、利用者たちが自ら生み出し拡大させているようなギャップであるからだ。何か気になることがあったときに、すぐにググる人のGoogleはどんどん使いやすくなっていくが、その場でパッと調べたりせず、「まあいっか」と流してしまう人のGoogleの精度はなかなか上がらない。もちろん協調フィルタリングによって、同じような類型の利用者どうしのデータの比較を通じたアップデートは進んでいるだろうが、ヘビーユーザーたちの精度よりは劣る。

 利用者がサービスからどれくらいの便益を享受できるかは、そのサービスをどれくらい使うかという利用者の主体性にかかっている。まるでポイントカードの割引サービスのようだ。しかし人工知能(正確には機械学習)を用いて展開されている主要なサービスの多くは、いわばこの「ポイントカードの割引サービス」自体がサービスの中核にある。それはアルゴリズムという形でサービスに体化されている。

 もう少し別の比喩を使うなら、これはいわば、手をかけた子どもが出世して親孝行するのと、放置した子どもがずっと親不孝のままであることの差に似ている。ヘビーユーザーの使うサービスは親孝行的であって、いやどんどん親孝行度を増していって、ライトユーザーの使うサービスは親不孝的であって、親であるライトユーザーはやがて、子どもを全く見なくなる。そんな光景が頭に浮かぶ。

 どんどん使ってください、そうすればどんどん使いやすくなっていきマスカラというマスカラが流行中のようだ。

 

 

※本製品の使いやすさは、マスカラを作っている当社ではなく、利用者皆様方それぞれの主体性、皆様方の自己責任によるところが少なくない点をどうぞご理解ください。

…という但し書きが、空中にふわふわと浮かんでいる。それはほとんど誰にも見えやしない。雲の中にいるときには、雲は見えない。クラウドの中に日常的に浸りきっている私たちは、クラウドがどんな姿をしているのか、ますます見えなくなってきている。

 これが、通販ではAmazon、検索ではGoogle、音声ガイドではApple、「友達」との交流とオススメによる情報収集ではFacebookというようないくつかのアメリカの大企業が自然と作り上げている「アーキテクチャ」の最も先端にあるものの本質である。

 誰にとっても見えにくいものがデバイドを生み出すとき、そのデバイドもまた誰にとっても見えにくい。しかしそのデバイドは、無視するにはあまりに根底的な変化をもたらしている。

出合った相手ではなく、出会い自体とどう付き合うか

 

アナロジーと等価性

 数学では、マイナスにマイナスをかければプラスになる。このことは環(ring)と順序(order)の基本性質から導かれる。この性質をネガティブ思考の反転に強引にこじつける人間がいたりする。しかしそういう考え方は安易なアナロジーに過ぎないと私は思う。アナロジーであることがいけないのではなく、安易であることがいけないのだ。

 このアナロジーが正しいかどうかとは別に、自分にとって確固たるものに思える何かを、自分の実存と結びつけ、それによって自分の実存も確固たるものにしようとすることがある。ここで実存とは、自分の生き方全体というような意味を指すと考えればよい。そういう結びつきが生まれるとき、数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく利用される。そこでは数学も科学も、「私の実存を支えてくれるかどうか」というただ一点で、宗教と同じように機能する。その一点において、それらの中身の違いは消えてしまう。

実存から構造へ

 サルトルは、『弁証法的理性批判』を中心としたいくつかの著作において、人間の実存を根拠づけるものを探った。同書はレヴィ=ストロースの『野生の思考』で批判の対象となった。このようにしてフランスでは、実存主義は次第に構造主義へ移っていく。1960年代のことだ。サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は、2016年に生きながら、ある意味では1960年代よりも以前のフランスに生きていることになる*1。こういうことは、個人のレベルでは至るところで起こっているだろう。時間や好奇心、あるいはチャンスがないことによって、2016年のこの世界には、1960年代を生きる者、1970年代を生きる者、紀元前を生きる者というように、一見同時代でありながら、その内側では実質的に様々な異なる時代を生きる人間たちが共存している。タイムマシンで過去に遡るまでもない。今この瞬間にも、世界は共時的であると同時に通時的でもある。

他の誰かが通った道 

 1960年代より以前のフランスに生きること自体が問題なのではない。そうではなくて、その後に人類はどう考えたか、どういう勘違いをしたのか、或いはどうやって袋小路から抜けつつあるのかなどについて知らないまま、無自覚に自分を過信して考えようとすることが問題なのだ。それは端的に言って、歴史を知らないということでもある。ここでひとつ種明かしのようなことをいうと、冒頭で「数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく使われる」と書いたが、構造主義のあいだ、そういうアナロジーが次々に登場し、やがてそれに対して批判がうまれた。その象徴的な現象であったソーカル事件とそれに対する批判は『知の欺瞞』に凝縮されている。それでもマイナスにマイナスをかければプラスになるというようなアナロジーが今でも消えないのは、一体どうしてだろうか。壁や石が見えない者は、それを乗り越えることもできない。

歴史と出会い 

浪費と出会い

 現代人は時間がないというのに、とりわけ日本人はどこもかしこも働きづめで時間がないというのに、それではかえって時間を浪費している。浪費とは、何も生まないものに対して資源を費やすことだ。ここにある問題を抱えている人間がいて、その人間がキャンプへ出かけたとする。キャンプは楽しいから浪費でないと言うかもしれない。けれども、抱えている問題がキャンプでは解決しないなら、その問題からみればキャンプは浪費である。別の問題からみれば、キャンプが浪費でないといえるかもしれない。どの問題からみるかによって浪費かどうかが違ってくる。

 ハイデガーが「Das man」と呼んだ人間は、暇のない人間だ。Das manになりやすい労働環境、Das manから逃れにくい条件に生きる者にとっては、その限られた時間を浪費することはほとんど命取りに等しいとすら言える。自分の頭や同時代のヨコのつながりに重きを置くばかりでは、この浪費から完全には逃れられない。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で指摘されている論点である。

 確率的に決まる「出会い」は、過去と同じことを繰り返すのを避けるようにできているわけではない。出会いは、それが人であれ物であれ概念であれ、どうしても確率的にしか決まらないが、かといってそこに介入の余地がないわけでもない。出会いの確率的な条件を逆手に取り、出会わなそうな人間と出会う機会を作るという戦略もまた、多少の改善はあれ、根本的な解決には至らない。朝活や合コン、街コン、パーティーなどなど、確率的な出会いを生む制度を人間はいくつも作り出してきた。とはいえ、これらの制度を積極的に活用していくら色々な人間に出会おうと、知らないままであることが残り続けたり、知らないこと自体を知らないままであったりする状況から、根本的に自由であることはできない。

技術がもたらす出会いの形式

 その一方でFacebookでは、出会いは確率的でない。誰が紹介されるかは、それぞれのユーザーの交友関係から、アルゴリズムが自動的に決める。自分の知らない人間が「友達かも?」とタイムラインで紹介されれば、Facebookで偶然出会ったと感じるかもしれない。しかしそこにある偶然性はFacebook自体がもたらしたものではなくて、Facebookの外での出会いーリアルの出会いーが偶然であったことを反映しているに過ぎない。その偶然性をFacebookアルゴリズムが一定の手順で処理するプロセスの中には、偶然性は含まれない。

 この点はTwitterも同じで、あるユーザーをフォローした時に紹介される他のユーザーたちもまた、Twitterのシステムが確率的に選んだものではない。それもまた、自分が初めにフォローしたユーザーを、Twitterアルゴリズムの外側で、自分が確率的に選択した結果の反映であるに過ぎない。FacebookアルゴリズムTwitterアルゴリズムも、「他者との出会い」において確率的な要素を持たない。それは出会いをアルゴリズムで実現しようとすることに起因すると考える者もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。アルゴリズムで確率的な操作を行うこともできる。ただ両者がそういうアルゴリズムを使っていないだけのことだ。

出会いとは別の道

 誰かとの出会いによって、自分が抱える問題の袋小路から抜け出せる場合ももちろんある。そういうことを描いたドラマや映画、漫画、アニメはたくさんある。しかしもしも、これまでに書いてきたように、FacebookTwitter、あるいは他の様々なマッチングアプリのもたらす出会いには限界があることがわかったなら、出会い以外の道もないのかを考えてみればいい。それは歴史を観察することではないか。出会いのあれこれ、ひとつひとつの出会いの良し悪しに一喜一憂することなく、落ち着いて歴史を観察すればいい。ここに出会いの限界を超えるための介入を行う余地があるのではないか。それは単に出会いを否定することとも違う。それはむしろ「出会い」との距離をうまく見積もり、出会い自体とうまく付き合うということだ。そのために、自分とは別の誰かが通った道を知らなければならない。

*1:サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は…」というような書き方をすれば、それこそ2016年の日本においては、「上から目線」と呼ばれるかもしれない。しかし「上から目線」というフレームほど不毛なフレームもない。それを言って何がどう変わるのかを考えてみればいい。上から目線と言って相手を批判しても、何も変わらない。そしてこのフレームもまた以前からずっと「不毛なフレーム」としてあるものだ。歴史を知らないということはそういうことではないか。

入門の門の奥

 私は書店が好きで、特に何か特定の本を買うというわけでもないのに、毎日のように書店に行く。書店に行くと、そこに置かれている入門書の多さに驚く。いったい世の中には、どれほど多くの「門前」の人々が存在しているのだろうかと思わずにいられない。経済学の入門書、政治経済の入門書、歴史の入門書、文学の入門書などなど…。

 入門というのは、「門から中に入る」ということであって、入り方は色々ある。だから経済学の入門書であっても、人によってテイストが異なる。ある人は文学作品からの引用を通じて、ある人は基礎的な数学的概念の定義から、そしてまた別のある人は身近な経済の問題(アベノミクスや日銀の政策や、TPPや…)の解説からというふうに。

 何かに入門するときには、門から中に入ると、そこから先のコースが大抵決まっているものだ。それは道場でも、料理教室でも、大学でも変わらない。コースを定め、広く一般に共有可能なように全体の形を整えることが形式化ということの意味であって、そこでは各人が同じコースをそれぞれのペースで進む。そしてコースを進むにつれて、門の向こう側にあるものの景色の全体が、少しずつわかってくるものだ。大学の場合、それは学部レベルではまだ見えないままで終わることがほとんどだろうと思う。理系の人間は大学院まで進むことが多いのに対して、文系の場合は学部卒で即就職という状況だ。それ自体の批判には大した意味もないとは思う一方で、この違いが学問について個々人に与えるイメージの違いはかなり大きいだろうと思う。理系の人間にとっての学問と、文系の人間にとっての学問とでは、大学院というところまで進むか進まないかという点で考えても、景色の見え方に大きな差異があるのではないかと思われる。

 ところで、門から先がまだ存在しないのに、ただ門だけがあるということはあるのだろうか。つまり「問題」だけがあり、門を通って中に入っても、そこから先はどう進めばいいのかが入門者にはわからず、したがってそこに広がる景色の全体像もはっきりしない、ということが。

 私はここ数ヶ月間、ネットにおける人々の情報収集の形態を考え続けている。もう検索エンジン的な仕組みでは手詰まりだろうと個人的には思っている。Google検索エンジン部門のトップが人工知能が専門の人間に変わって久しいが、深層学習(deep learning)を使っても、人間による解釈が難しくなるだけで、それほどネットの風景が変わるとは思えないのだ。だから人工知能を活用するかしないかという考え方からいったん距離をとって、とりあえず人工知能は使わずに、人間が何かよいアルゴリズムを考えられないかと考えている。もちろんこれは、人工知能の研究が進んだ近年の過熱気味な人工知能礼賛ムードとは完全に逆行する立場である。

 けれども、Googleはどうもこれから先も「検索エンジン」にこだわり続ける様子だし、今の自分の技術では大したことはできないけれども、「どんなものを作りたいのか」について、なるべく具体的なイメージを作ろうとしている。

 私にとっては、「ネットの風景を変えるにはどうすればよいか」という問題に対する「門」は哲学(特に言語やテクストを主題とするようなタイプの哲学)や思想であるわけだが、問題はそれによってどんなことを、どんなふうに表現するのかという「方法」がはっきりしていないということだ。自然言語処理によって、というレベルまでははっきりしているが、それ以上の具体性がない。門はあるが、その奥には何の立派な建物もない。ただし私の頭の中には、まだおぼろげではあるものの、大きな景色が広がっている。哲学や思想という門を通ってみれば、自然言語処理という方法によって、ちっとも整理されている気のしない検索エンジンともうるさいばかりであまり楽しくもないソーシャルメディアとも全く異なる、何か新しいことができるという直観だけがある。

 人工知能のビジネスに携わる人々の間でも、近年では数学や哲学に対する関心が高まってきているようだ。数学であれば圏論、哲学であれば分析哲学言語学フッサールデリダなどの思想が注目されている*1言語学というときに、大抵はソシュールしか登場しないところに注目の「浅さ」を感じてしまうところもある。個人的にはチョムスキー井上和子、あるいは時枝誠記などに対する関心が彼らの間で高まると、もっと自然言語処理の研究は面白くなるのではないかと思っている。私自身は、最近は東浩紀を介してデリダの思想について考えたり、井上和子を通して生成文法の日本語研究への応用ということを考えたりしている。これらの関心が自然言語処理の特定のテクニックとうまく結びつけられるところまで行くことを願いながら、今も大崎駅の近くのスターバックスで、アイスココアを飲みながら『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいる。

 立派な建物がなければ門を作ってはいけないなどということはない。奥に広がる景色の壮大さを信じてまずは門をくぐり抜け、そこには幾つかの「柱」らしきものしか見えなくとも、そこに立派な建物が建つことを信じられればそれで良い。それはある意味で、建築家的な態度でもあるかもしれない。

 門の奥で、どんなアーキテクチャがありうるのか、アーキテクトは考え続ける。

高校生に現代文を教えながらよい文章の構造について考える

 やや更新が途絶えていた間に2016年もすっかり夏に入り、私がアルバイトをしている個別指導塾では夏期講習が始まった。私はその中で、高校生に向けて現代文の読解の仕方について授業をしている。普段の授業では英語(それも英語の文法)ばかり教えている私が、なぜ夏期講習の期間には現代文を教えるのかというと、もちろんこれは、仕事であるという理由もあるが、それとは別の理由もある。つまり、最近の私の関心事である、自然言語処理や検索ということについてより深く考えるために、ふだん何気なく触れている日本語(主に評論だが、小説も含む)の文章の構造について、一歩引いたところから分析してみることが有効だと考えているからだ。

 塾では出口汪の現代文の問題集を使っている。出口メソッドは私が受験生だった2007年や2008年当時もある程度の人気を誇っていたが、今でも人気は続いているらしく、書店では数多くの出口現代文シリーズが売られている。

 さて、「出口メソッド」などとさらっと書いたが、これは基本的には文章全体の構造を記号化・チャート化したもので、分析の単位は「文章」(passage)全体だ。もちろん、「指示語や接続語に注意して読みましょう」というような、文(sentence)の単位での読解テクニックもないことはないが、そちらはあまりメインではない。そこで私は書店に行き、出口メソッドとは別に、文の単位で分析をすることで文章全体の構造を読み解くというタイプの方法論を提唱している参考書がないか探してみた。いくつかそういうものがあるにはあったが、どれも上述した指示語・接続語に注目するという域を超えるものではなかった。

 私はふだんの授業では英語の文法を教えている経緯もあって、生成文法分析哲学といった分野の本も何冊か読んできた。そこでは文という単位について、単に指示語や接続語の機能に注目するといったお粗末な分析にとどまらない、高度に形式化された体系が紹介されていて、学部時代に同じく高度に形式化された体系をもつ経済学を学んでいた私は、生成文法分析哲学、論理学、統語論などの分野の営みに対して、少なからぬ感銘を受けた。

 だから市販の現代文の参考書の解く「方法」に対しては、率直に言って物足りなさしか感じなかった。それは高校生や、20歳前後の浪人生を相手に書いているという事情があることはわかる。けれどそれにしたって、もう少し紹介できる方法があるはずだ。

 ちなみにこの物足りなさについては、市販の英文法の参考書についても感じてはいるのだが、それについてはここで詳しくは取り上げない。しかし「相」(Aspect)や「法」(modality)、あるいは「文法範疇」(grammatical category)くらいは取り上げてもいいんじゃないかと思う。実際に生徒にこういう概念を教えた方が、英語についての理解が深まるということを、私は何度か経験してきた。しかもその生徒というのは、別に偏差値70以上の一流校に通っているような秀才というわけでもない。それでもちゃんと通じたのだ。…とこれくらいのことは書いておこうと思う。

 さて、それでは市販の参考書の中に「きらめく何か」を見出せなかった私はどうしたかといえば、これはもう自分でやるしかないと思うに至り、現代文の参考書という範囲を超えて、「文体」について扱った本や動画(※基本的にはニコニコ動画の有料動画)を探したり、自分なりに文の形式化を行なったりした。具体的には英語で「構文」と呼ばれているものを日本語の中にも見出そうということで、例えば「なるほどX、しかしY」という構文の場合には、Xは飛ばしてYだけ拾えばよいといった、「内容」でなく「形式的な処理」の体系化を積み重ねている。文章というのは形式的な処理だけでどこまで読めてしまうものなのか、あるいはもっといえば、むしろ形式的な処理を通して読む方が、内容にこだわりながらじりじりと味わうような意識で読むよりも本質をつかめてしまうものだと私は考えている。それはまた、特定の人間の能力に属人化されない、技術(テクニック)ということの意味でもある。

 日本語の「構文」に注目しながら読んでいくという読解法は、構文の網羅が面倒に思われるかもしれないが、以外と構文の数は少ないと感じる。段落の分け方や文章全体の構成については、文章の筆者ごとに多様な個性があるとは思うが、構文に関してはそうでもなく、けっこう色々な人が共通の構文を使いまわしていると感じる。さきほど例にあげた「なるほどX、しかしY」という譲歩の構文も、変種として「もちろんXだろう。けれどもYなのである。」や「確かにXではあるかもしれない。しかしそうではない。むしろXとはYなのである。」のようなパターンがいくつかあるにはある。しかしその程度のバリエーションに過ぎない。この程度であれば、私の問題関心の根っこにある自然言語処理では十分に扱えるレベルだ。

 構文から読むことにこだわり始めて改めて感じたことだが、人は意味を追っているようでいて、実はそうではなく、特定の形式で表現されたものに後付けで「意味らしきもの」を投影して満足感を得ているに過ぎないのではないか。売れる本のタイトルには一定のパターンがあることや、twitter上で特定のハッシュタグによって共有される表現が、代入される単語が違うだけで表現全体の形式はひとつの構文に過ぎないという現象が継続的に起こっているのは、「大事なのは形式じゃない、意味なんだ。そこに感動があるのだ。」といった、ナイーブでセンチメンタルなこだわりへの具体的なアンチテーゼになっているように思える。

 そういうわけで、構文という切り口から、日本語の形式的で広く共有可能な読解法、あるいは私たちの日常に対して新たな示唆を投げかけるような、自然言語処理の可能性について、当分は考えていこうと思う。