誰が言うかと何を言うかを比べるのはナンセンス
先日こんな記事を目にした。
「誰が言うか」と「何を言うか」問題について - Letter from Kyoto
これは以前からよく目にする議論で、「何を言うかよりも、それを誰が言うかの方が重要だ」と「誰がそれを言ったかは重要ではない。何を言ったかが重要なのだ」との間で二者択一を迫る、というものだ。
原則に立ち返って考えると、この二者択一はナンセンスだと思う。比喩的に言えば、果物の中からりんごとみかんだけを選んで、「さあ、どちらか選んでください。あなたが選ばなかった方は、果物ではないということになります。」と言うようなものだ。
原則的には、言葉は「それが用いられる文脈」に依存して意味が決まる。「文脈(context)」というのは、その言葉が使われている文章の中の、他の言葉との関係(これを「文脈a」と呼ぼう)だけを指すものではない。(これは「何を言うか」派の人が重視する文脈である。「誰が言ったか」ということは関係なく、あくまで「文章の内容自体」を重視すべきである、ということである。)その人が誰であるか、言い換えるとその人がどんな人であるかに関する情報もまた、その言葉に対して別の形で文脈を与える。(これを「文脈b」と呼ぼう)
つまり文脈の形式はひとつではないということである。そしてここで重要なのは、その形式は、今挙げた二つだけでもないということだ。記事の冒頭で紹介した議論に、一対一で対応する文脈の形式は確かにこの二つだが、他の形式で与えられる文脈もある。既に二つ例を挙げたので、同様に二つ例を追加する。
「文脈のタイプはひとつでも二つでもない」ということがわかると、そのうちのどれか二つだけを選んで、二律背反的に議論を組み立てることの不毛さが見えてくる。いつでも二律背反が役立つわけではない。
こうした「誤れる二者択一的な思考様式」から脱することは、ある人の人柄を第一印象だけで判断するときにも応用可能なように思える。第一印象と、その後の印象の二つにグループ分けして、前者だけをもとに人柄を判断してしまうのは、冒頭の議論と同じミスに陥ってしまっている。そうではなくて、第一印象と第二印象、第三、第四、第五・・・第n印象まで、常にその人に関する新たに追加された印象も含めて多面的にその人の人柄を推し量る方が、よい判断ができるのではないか。そのとき「第一印象」と「その他」の二つに、予め分類してしまわないことが肝要だろう。
結論:言葉の意味を考えるときには、特定の文脈だけを重視するのではなく、「文脈」を重視することが重要である。
【参考記事】
「第一印象で人を判断すること」の問題については、以前にも記事で言及したが、今回の記事で書いたことが、ある意味でそれに対する解答になっていると言えそうだ。
モザイクでないが、それがモザイクに見えるとしたら - TOKYO/25/MALE
【追記】
ちなみにこの問題で陥りがちな判断ミスはもうひとつある。それは
主張X:周りの人が『誰が言うか派』だから、「この人が言うなら」と思われるような人になるべきだ(本人の願望)
主張Y:言葉は、誰が言うかが最も重要である(言葉の意味を測る問題そのもの)
の二つを「論理的」に結びつけてしまうことだ。この二つは全く次元の異なる話である。「みんながそうしているから自分もそうする」ということと、「みんながそうしているからそれが正しい」ということは、論理的に結びつくものではない。この点は「常識(コモンセンス)」を考える場合に極めて重要な峻別だろうと思う。
*1:例えば主婦同士の会話で「包丁」という言葉が使われるときには、会話の内容によって与えられる文脈を無視して考えても、その言葉が「料理に関するもの」として扱われていることがわかる。それは「その場のメンバーが作り出す状況」がひとつの文脈として機能しているためだ。これに対して「包丁」という言葉が警察関係者の間で使われている場合には、その言葉が「犯罪の凶器」として扱われているであろうということが、同じく会話の内容そのものによって与えられる文脈を無視しても、容易に想像がつく。
*2:これは「5W1H的な文脈」という言い方もできるかもしれない。ちなみにこの考え方でいうと、「文脈a」は「Why」の文脈に当たる。なぜならその文章の展開の仕方が、ある言葉が使われている「理由」を示すからである。文章が展開されるということは、ある意味ではそれぞれの語句が「なぜ」用いられているかが示されていることであると捉えることもできる。そして「文脈b」はもちろん「Who」の文脈である。