ランキングと記憶と銀行について

 私は時々、順序がつけられる前のウェブというものがどんなものだろうと考える。莫大な情報がなんの秩序(order / pattern)も持たずに散乱している広野のようなウェブ。検索エンジンが、ニュースキュレーションアプリが、或いはSNSが、私個人に最適化したランク付けをする前の、雑然としたページの大群、あるいはジャングルを自分で探検してみたくなるのだ。そのときの「探検」というのは英語で言えばsearchというよりもexploreの方が近いかもしれない。私はInternet Explorerは全く使わないが。

 ウェブ上で目にするページの多くは順序がつけられた後のものだ。情報が多すぎるのだからこれは当然といえば当然かもしれない。探索するには情報が多すぎるために、検索エンジンといえば「ページのランクづけをするもの」ということにもなる。

 「ネットサーフィン」という言葉がある。最近はあまり使われなくなった言葉だ。それは裏を返せば、ネットサーフィンという行為を支えるテクノロジーが、生活の中に浸透していって、多くの人々が、呼吸をするのと変わらない感覚でネットサーフィンを行うようになったことの裏返しなのだろう。「私は今まさに呼吸をしている」とわざわざ口にする人間はいない。

 さて、サーフィンをするためには、波にうまく乗らなければならない。それも自分のすぐ近くの波に。遠いところにある波に乗ることはできないのだ。乗るべき波を見つけることを実現しているのが検索エンジンだとするならば、もしもそれなしでウェブの海へ出れば、私はウェブに飲み込まれてしまうだけかもしれない。波には近いものも遠いものもなく、いろいろな方向の波が混じり合い、どの波に乗るべきか、どういう風にすれば波に乗ることができるのかわからずに、ただただサーフボードとともに海にのまれるだけになってしまうかもしれない。

ネットでExploreするということ

 ところで、そもそも私はウェブで「サーフィン」をしたいのだろうか。ウェブ上でできることというのは、サーフィンだけなのだろうか。なるほどインターネットは情報の海であって、その中で移動するのであれば「サーフィン」という言葉で表現するのが適当かもしれない。しかし、そもそもネットという空間を喩えるのに、「海」しかないのだろうか。海以外の、そしてサーフィン以外のいい比喩はないのだろうか。冒頭では"surf"の代わりに "explore" という言葉を使ってみた。

 Internet Explorerは、かなり初期からGoogleを使うことによってexploreする人が多かったから、"Explorer" のようで実態は "Searcher" になっているといえる。それでは言葉の本来の意味での "Internet Explorer" はどこかにあるのだろうか。ネットで何かを探すときには、当然のように検索エンジンが使われるようになり、今やその大半がGoogleによって行なわれている状況では、Searcherばかりになっているのかもしれない。何かを知ろうとして検索ボックスに調べたい単語を入力するとき、私たちは当然のようにページのランク付けをGoogleに依頼することになる。

 検索エンジンは図書館の「司書」(librarian)を参考にして、検索者が最も欲しがる情報を的確に探し出すことを目的として設計された。それは今も基本的には変わらない。検索エンジンの後でSNSが登場し、こちらは利用者の人脈を広げるだけでなく、その人脈を使って欲しい情報を探し出すという方向でも発展してきた。

 ウェブというのは「蜘蛛の巣」であるから、検索エンジンSNSでは後者の方がウェブと相性がいいという見方もできるように思う。情報の網(ウェブ)を、人間の網(ソーシャルネットワーク)を使って探し出すわけだ。今でも、何か知りたいことがある場合、検索エンジンを使うよりも「しかるべき人」に相談した方が、自分の欲しい情報を探し当てられることが多い。例えば私はロードバイクであちこちを走り回るが、見知らぬ土地へやってきたとき、Googleマップを使って経路を考えるよりも、その土地の住人に道を聞く方が、具体的な経路をイメージしやすかったりする。

ExploreとMemory

 先日は割と分量のある文章で、グラフとランク付けの対応を中心にして検索エンジンの意味というものを考えた。SearchではなくExploreを行うためには、ネットを使うにあたってすっかり浸透しきっている「ランキング」というものから一度離れなければならない。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 グラフをランク付けのリストに変換したりするのは、人間の記憶(memory)のしくみと関係があると私は思う。ここからは、記憶と言っても「長期記憶」に限定して話を進めていく。完全記憶を持つ人間は、自分の経験した出来事や見聞きしたことなどを何ひとつ忘れることができず、苦しむことになる。記憶というと、「覚えること」の方と結びつけて理解されることが多いが、これでは片手落ちであって、忘れることの方も同様に重要であると考えなければならない。何を覚え、何を忘れるかという選択によって記憶が成立しているというのが、少なくとも生物にとっての記憶の意味ということになるだろう。覚えることと忘れることは記憶という一枚のコインの裏表をなしている。

 ランク付けのリストというのは、いわば人間の記憶の「代わり」なのではないだろうか。多くの人間が検索結果の1ページ目しか参照しないのは、多くの人間にとっては、思い出せる情報の量が検索結果1ページ分と対応するほどの量であるということなのではないか。私にはそんな風に思える。2ページ目以降はほとんど参照されなくても、存在していることがわかっていると、それらも自分の記憶と地続きであるかのように錯覚してしまわないだろうか。本当はそんなことは全くないにもかかわらず。

 検索エンジンでは、たとえ私たちが見ないとしても、200位と201位のランキングが行われている。その二つのページのランク付けは、私たちの多くにとって意味をなさない。それは私たちがものを考えるときに思い出されないでいる事柄どうしの順序を問題にしている。

 プラトンの『パイドロス』の中で、ソクラテスは彼の知人パイドロスと木陰で始終語り合う。対話の中で、人間が文字(書き言葉)を使って考えを記録しておけるようになったことによって、記憶力が衰え、ひいては思考力が衰えてバカになってしまうのではないかという懸念を示す場面がある。これは書き言葉に対する話し言葉の優位という文脈で論じられることもあるが、ここではこれとは別の文脈、つまり検索エンジンとの関係から考えてみたい。検索エンジンが、基本的には文字によって記述されたページの解析によって成立しているのは、パイドロスにおけるソクラテスの弁の意味では、人間の記憶と逆行する皮肉のようでもある。こうして「ネット検索は我々をバカにする」だとか、「ネット検索をする者はバカ」*1といった議論が生まれることにもなる。あるいは「記憶の外部化」という形で論じられることもある。

 「長期記憶」に絞って話を進めてきたが、人間の記憶には短期記憶もある。人間がものを考えるとき、時間が経ってもいつでも思い出せる記憶(長期記憶)だけに基づいて考えを展開していくわけではなく、一時的に記憶している事柄も使って考えることはできる。ネットで何かを検索する時にも、この一時記憶に頼ったりする。一時的な保管庫に新しい情報を蓄えていって、それらと長期保管庫の情報を組み合わせて思考を展開しているというのが人間にとっての日常の思考の実態なのではないだろうか。

 記憶を蓄えておく場所を指して「保管庫」と表現したが、これは「預金口座」に喩えることもできる。多くの人は、実際にはどんな金額でも預けることができるとしても、一定量の金額しか口座には預けない。もちろんそれはその預金額に比例する所得を稼ぐ人が多いからであって、人々がもっと多くの金額を稼ぐようになれば、それに応じて平均的な預金額も増えることになるだろう。しかし比例定数は増加しない。所得の3割を貯金する人は、稼ぐ金額が増えても貯金する割合は3割のままだろうと思われる。

教養とExplore

 すぐに引き出して使うことのできる知識を「教養」と呼んだりすることもある。単に「知っている」だけの状態では、いつでも引き出して使いこなすことができる状態とは違い、それでは教養があるとは言えない、と。教養というのは本をたくさん読めば身につくというものでもない。それは言い換えれば、情報量を増やしても教養が身につく保証はなく、1冊1冊の本を丁寧に読むことによって、それほど多くの本を読んだわけではなくても、ちゃんと「教養」と呼べるものを身につけている人もいる。教養は本の読み方に依存して決まる。教養にもとづいてものを考えられるようになるためには、ある程度の集中力が必要になる。一定の範囲に限定して、その中だけで活字を追っていく。そして同時に、自分の頭をはたらかせて考え続けることで、初めて教養が身につく。そしてこれは、記憶と結びつけて考えるならば、長期記憶の領域の情報だといえる。一時的に吸収して利用するものを教養とは呼ばない。文字どおり、その人の血となり肉となっていなければならないのが教養である。

 それでは、人間の持つ記憶と、ランキングが「資源の有限性」を媒介にして結びついているのだとしたら、ランキングから距離を取るのはそう簡単ではない。しかし、預金口座の比喩や教養について言及した箇所で述べたように、人間は長期記憶だけでものを考えているわけではなく、一時的に記憶した情報を使ってものを考えることもできる。ネットで検索をすればするほど、私たちは長期記憶をおろそかにするようになる。長期記憶をおろそかにするということは、その領域で醸成される教養にもとづいてものを考えることをおろそかにすることにもつながる。ネットがどんどん普及すればするほど、巷の書店では「教養本」があふれかえるようになっているのは、無関係ではない。ネットを使っていても教養は身に付かず、したがって体系的にものを考える術が身に付かないために、教養を身につける必要性は高まるのだ。

 人々はどこかから引き出してきたお金を、まるで自分のお金ででもあるかのように扱い、預金口座に預けられている金額は一向に増えない。ネットを使うということがそういうことにしかならないのだとしたら、これほど情報が溢れかえっているというのに、なんという大いなるムダであることだろうかとすら思う。預金口座の残高を増やし、そこに作り上げられていく教養の樹を豊かにしなければ、たくさんの情報を簡単に集められても一向にものを考えられるようにはならないだろう。 

*1:

 即座に思いつく文献をあげると次のようなものがある。もっとも、この本のどちらも直観的に「ハズレ」のような気がして、私は読んでいない。私個人にとっては「筋の悪い議論」としか思えなくとも、ある程度は世間の中で話題になっているテーマではあるらしいので一応取り上げた。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
ニュースをネットで読むと「バカ」になる

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