視力

 比喩的にも文字通りの意味でも、目の悪い自分に比べれば、作家や画家やアニメーターや、映画監督やデータサイエンティストといった人たちの目の方が、何かについてよほどよく見えているんじゃないかと感じることがある。

 たとえば自分に見えている「東京」よりも、こういう人たちの見ている「東京」に触れる方が、東京がよく見えるのではないか、と。

 その一方で、目が良くなりたいという願望も消えず、「この人の目は良いに違いない」と自分が信じられる人のその「見え方」を、よく考えるようにはしている。何を見ているのか、何をあえて見ないのか、どんな角度から、どんな位置から、どんな範囲を見ているのか、網膜には何が写り、脳には何が映るのか。網膜には100の事柄が写っていても、見え方の型を身につけた人は、見るべきところだけを選択的に見て、それ以外はあっさりと無視する。見方にメリハリがあるといってもいい。

 また、しゃべったり書いたりすれば、その人が何を見たのか、何を聞いたのか、どんなことを感じ、考えたのかは、ある程度はわかる。

 昨日は大崎駅の近くにある、スタバとツタヤが併設されている書店で、森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』を買った。帯に「三年ぶり待望の文庫化!」とあるので、この作品は2013年のものだ。当時の森見さんは何を見ていたのか。それは作品をよく読めば見えてくるはずだ。そこにどんな問題が見えるか、どんな京都が見えるのか。或いはどんな人間の姿が見えるのか。

 自宅に帰って読んだWIREDの記事には、Googleで働いてたトーマス・ミコロフが自然言語処理の革命的なアルゴリズムであるWord2Vecを開発し、そのコードを一般公開したのが2013年だということが書かれていた。これも2013年。一方では世界中の情報を整理して誰にとっても使い易いものにしようとするGoogleで働くミコロフが言葉をプログラムとして眺め、他方では京都を舞台に作品を描き続けている作家の森見登美彦の書いた若手社員の冒険の物語が単行本になっている。両者のあいだには、一見したところなんのつながりも見えない。けれどもどちらも、言葉を介して同じ年に表現されている。また彼らに限らず、2013年に生きていたそれぞれの人が、それぞれの関心に沿ってものを見て、何かを表現している。あるいはしつつあるということもあるかもしれない。或いはできずに悶々としているかもしれない。自分に見えているものをうまく表現することは、今でも難しい。

 最近はデザインやユーザーインターフェース、或いはインフォグラフィックに関する本を少しずつ買っている。Googleとは別の検索エンジン、或いはポータルサイトのようなものを作ろうと思い続けて今日に至っているが、それはどう表現すればいいのか、なかなかはっきりしないままだ。それは見えてはいるが、表現が難しいのか、それともそもそもよく見えていないのか。おそらくは両方なのだろう。よく見えておらず、しかも表現するための技術も今の自分にはない。なかなか困った状況だ。それでも誰かの書いた文章を読み続けることによって、色々な人の見ているものに触れ、インスピレーションを得ようとしている。