形而の上と下

 

形而上学と哲学

語源から考える

 形而上学と哲学は、しばしば実質的に同じものとして扱われる。普段の生活の中で、両者の違いを意識することはまずないかもしれない。形而上学というのは、形而の上でものを考えることである。ところが「形而」なんて言葉は日常生活ではほとんど使わない*1ので、この訳語のもととなった英語に遡って考えることにすると次のようになる。

metaphysics(形而上学)はphysics(物理学)に対してmeta(上)の立場でものを考えることである。

 哲学 (philosophy) についても、その語源となった古典ギリシア語に遡れば、philosをsophosすること、つまり知を愛することが哲学であるといえる。その意味では、形而上学的であるが哲学的ではないというようなしかたでものを考えることも可能だ。つまり物理に対してメタな立場に立ちながら、それでいて知を愛しているわけではないというような立場*2に立ってものを考えるということが可能だ。

 私はといえば、先ほどの例とはむしろ反対に、知を愛しているといって差し支えないけれども、形而上学的 (metaphisical) に考えることができているかと言われれば必ずしもそうだとは思わない。何故かといえば、私は形而下に、つまり物理に基づいてものを考えることに十分慣れておらず、それなのに物理に対してメタな立場に立つことなどできるのだろうかと疑問に思うからだ。

哲学の起源と形而上学

 哲学の起源を辿れば、どこへ行き着くか。ここでは仮に、ソクラテスプラトン、あるいはアリストテレスに行き着くということにしよう。彼らはいずれも、物理に対して理解があり、その上で形而上学的にものを考えた。それは英語でいえば、phisicsに対して理解があって初めて、それでは扱うことのできない問題があることが正当に理解でき、そこで初めてmetaphisicsが意味をもつということなのではないか。もちろんそのときの「物理」というのは、その当時の水準の物理ということであって、物理学はその後にいくらか発展したので、今となってはメタな立場に立たなくても、物理の枠で考えることのできる範囲がずいぶん広がったといってよい。例えば、以前にいくつかの記事で触れたことのある社会物理学は、それが登場するまでは哲学の領域とみなされていたようなことがらを、形而下の枠組みで考える学問領域であるといえるだろう。

 社会物理学以外の例として、脳科学が挙げられる。脳の中で起こっていることがらについて、ソクラテスらの時代には物理的なことはほとんど何もわかっていなかったが、今では多くの人が、それについて脳科学の枠組みで考えることができるということを知っている。それは現代の教養とか常識と言ってもいいかもしれない。「多くの人が」と書いたけれども、もちろん脳科学の体系に基づいて様々なことを考えられる人間はというと、その数はそれほど多くない。「体系に基づいて」というのは、単に「脳科学ではこうだと言われている」というような、個々の研究成果についての知識があるということとは意味も水準も違う。

 純粋に自然なものごと、つまり人間が関与しないものごとについては、さきほど挙げた哲学者やその後に続く哲学者たちは物理の原理に則して考えた。けれども知性や記憶、あるいは法などのことがらについて、当時はその物理的な対応物を見つけることはできていなかった。だからその種のことがらについては、物理に基づいて考えることの限界を認め、形而上学によって考えた。ものの考え方についてのこうした立場は、これまでに述べてきたように言葉の由来に基づいて評価するなら、全くもって妥当なものだといえる。その思考を支える杖になったのは、しばしば他者との対話であった。それは杖であると同時に、スタイルでもあった。

 物理に基づく思考の限界と形而上学的な思考との関係について、以前に私が考えたときにはもう少し別の手順で考えていた*3。そこでは物理を科学、形而上学を哲学と呼んでいたが、筋としては同じである。ここでその手順を簡単に振り返ると次のようになる。人間が関係する現象について科学的に説明をつけようとしても、「どうしてその人間はそう思ったのか」とか「どうしてその人間はそれを望んだのか」ということは説明できずに残る。そこから先は哲学に頼るしかない。この手順もまた、形而下の思考の限界を超えるものとして形而上学を考えるというこの記事の筋と通じるものである。

 

抽象的思考と哲学、そして形而上学

 この記事の主題はあくまで形而上学と物理学の関係であるが、ここで少し別のことがらを扱う。形而上学とはまた別に、「哲学的」と同じような言葉として「抽象的」という言葉が使われることがある。しかし哲学的に考えることと抽象的に考えることは異なるし、そのどちらも、形而上学的に考えることと異なる。哲学と形而上学の違いについてはすでに述べたので、ここでは抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることとの違いについて順に述べる。

抽象的に考えることと哲学的に考えること

 まずは抽象的に考えることと哲学的に考えることとの違いを考える。これも言葉の起源や定義に基づいて考えればよい。抽象的に考えるということについては、少し前に別の記事*4でも少し説明をした通り、何か複数の具体的なことがらについて、その間に共通する部分にのみ注目して他の部分は捨て去り(最近の言葉で言えばスルーして)考えるということである。それに対して哲学とは、すでに述べた通り知を愛することであるから、知を愛しながら考えるならばそれは哲学的な思考と呼んで差し支えない。ここで、知を愛する人間が、抽象的に考えずに済むということが果たしてありうるのか、言い換えれば知とは常に抽象的に表現されるものであるはずだから、知を愛する人間ならば抽象的に考えるということと無関係ではいられないのではないかという疑問が生まれるかもしれない。

 もしもあらゆる種類の知が、抽象的に表現されるとしたら、知を愛する人間は知を求める限り、抽象的に考えることから逃れられない。しかし果たして本当にそうだろうか。別に知を愛しているわけではなくても、抽象的に考えることはできるのではないか。哲学が嫌いであっても抽象的に考えることを得意とする人間はいる。数学者や物理学者の中にはそういうタイプの人間も少なくない。彼らの中には、哲学など役に立たないと言ってはばからない人間もいる。あるいは数学者や物理学者を持ち出さなくても、現実の人間関係にたとえて説明することもできる。相手を愛しているわけではなくても、その相手のことがよくわかる場合がある。「別に好きではないけれど、あの人はこういう人だ」と一言で表現できるとき、それは相手に関して抽象的に考えることができていることになるが、相手が好きであるわけではない*5

抽象的に考えることと形而上学的に考えること

 次に抽象的に考えることと形而上学的に考えることの違いを考える。こちらはもっと手短に説明できる。形而下のこと(物理的なこと)であっても抽象的に考えることはできるので、抽象的に考えることと形而上学的に考えることは異なる。物理の体系を支える原理や定理、法則は数式を用いて抽象的に表現されている。それらが形而上学的な思考の産物であるとは言わない。

抽象を通して

 これで抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることのあいだの関係についてはひとまず説明し終えたので、ここで話を本筋に戻そう。すでに述べた通り、私は自分自身、必ずしも形而上学的に考えることができているとは限らないのではないかと考えている。それでもなお、私はものごとを抽象的に考えることを通して、形而上学的に正しい思考を獲得できるのではないかとも考えている。これはすでに別の記事*6で偏見について書いたこととも通じることであるが、偏見と同様に抽象的に考えるということもまた相対的なことであって、抽象的に考えたからといってそれが正しいとは限らない。ある条件のもとでは正しいが、別の条件のもとでは正しくないということがありうる。だから抽象的に考える場合には、正しく考えることができているかということに注意しなければならない。けれども正しく考えることができていれば、たとえ物理に詳しくなくとも、物理の限界を超えたことがらについて正確に捉えるということができる。私はそう考えている。形而下の思考と形而上の思考とは、正しく行われた抽象を通じてつながっている。だから道を誤らなければ、私は物理に対する自分の力量不足をうまく乗り越えることができるかもしれない。

 とはいえ、やはり形而下の思考、つまり何らかの物理的な実体と対応させてものを考えるということをしたいので、私はこれからも、何かを考える場合に「これを表す物理的な指標は何かないか」ということを常に意識することになるのだろう。

*1:「全く」ではなく「ほとんど」と書いたのはもちろん理由があって、形而という言葉は今でも使われることがあるためである。それは一つには、「形而上学」という言葉が辞書に載っているということ、そして一つには物理現象を指して「形而下の現象」とか「形而下のこと」と言ったりする場合があるということが根拠である。

*2:このような立場は、のちに抽象的に考えることと哲学的に考えることの違いについて述べるときにも登場する。

*3:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*4:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*5:この記事の冒頭部分で哲学と形而上学の違いを述べたときにも用いた立場である。

*6:

plousia-philodoxee.hatenablog.com