隠喩としての鉄道或いは自転車

「レールの上を進む人生」という表現がよく使われる。レールとはそもそもは鉄道のレール(線路)のことだから、これは隠喩である。隠喩とは、「まるで〜」とか「〜のように」という表現を付けず、何を例えたのかはっきりさせないままで使う比喩表現である。

   レールの上を電車は走る。ときには脱線もする。脱線したとき、それは「事故」として扱われ、復旧作業が行われ、電車はレールの上に戻される。

 会話の中でも脱線することがある。本旨を外れて、何か別のことについて話し続けてしまう。それでもある程度したら、また本旨に話が戻っていく。復旧である。レールから外れることは、脱線のイメージにひきづられてか、ネガティブなイメージで捉えられ易い。また脱線してしまった、とか私はよく脱線するんだよね、というとき、それを口にする者は脱線を何かよくないことのように捉えていることがわかる。

    スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』*1 の中で、病は単なる病というだけではなくて、その時代時代を象徴するような役割を果たすことがあると述べる。たとえば「現代」という時代を象徴するような病といえばガンであり、エイズであり、或いは現代の中でもとりわけグローバル化という側面を特に象徴するような病としてはデング熱エボラウイルスなどが浮かぶ。

   私はこれについて、病だけでなく、技術やシステムもまた、その時代時代を象徴するようなところがあるのではないか、或いはその時代を生きる人々のものの考え方を左右するところがあるのではないかと考える。交通手段としての鉄道は、単なる交通手段であることを超えて、「レール」「脱線」という言葉を隠喩として用いる語法を生み出した。人々は日常的にこの語法を使っている。

   震災以降、日本でも自転車による移動が増えたと聞く。街中を見ればロードバイクやクロスバイクに乗っている人々をよく見るようになった。いや、もしかしたら以前からいたけれど、私が興味を持っていなかったから、あまり気が付かないでいただけかもしれない。そんな自転車で通勤したり買い物に出かけたりすることが日常になった近頃、ふと思ったことがある。

 

自由な移動や終電や始発という時間的制約からの解放、或いは駅という地理的な制約からの解放など、ロードバイクなどの自転車に象徴されるような価値観というものがあって、それが人々のものの考え方に影響を及ぼすような日がくるのだろうか、と。「ロードバイクする」という隠喩が、自由な移動や時間や地理からの解放を意味する語法として用いられるような日がくるのだろうか、と。

*1:

隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本)

隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本)