「機械的なものvs人間的なもの」の胡散臭さについて

 

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(中国の食品工場の生産ラインの一部。出典:中国北京の食品工業:燕京ビール公司・三元食品公司;鳥飼行博研究室

人間と機械

ある通念とそれに対する懐疑

 人間的なものと機械的なものが対比的に論じられることがよくある。いわく、

機械的なもの・・・方程式で表せる、硬い(融通が利かない)コンピュータ、大量生産、没個性、均一性

人間的なもの・・・方程式では表せない、柔らかさ(臨機応変に変化できる)、個性がある、多様性

という風に両者を描き出し、「機械的なシステムの方が効率がよい」だとか、「いや、それは20世紀のフォーディズムに始まる大量生産主義の遺物で、これからは人間の時代だ」とか、それはもう色々な言説がある。こうした言説は政治における官僚主義批判から経済における資本主義(取引・競争を通じた資源配分の効率性を追求する市場原理)批判、企業における「望ましい組織のあり方」など、様々な領域にまたがって利用される基本的なコンセプトで、日本だけではなくアメリカやヨーロッパも含め、国境を越えて世界中で議論されている数多くの問題の奥底に、通奏低音のように存在し続けているイメージだ。しかしこの二項対立で現実を捉えている限り、永遠に見えないままになってしまうものがあるのではないか。果たして人間というのは、本当に「機械の反対側」にいる存在なのだろうか。

最も機械らしい存在としての人間

 私はそうは思わない。むしろ逆だ。人間ほど、あるいは生物ほど巧妙に設計された機械は他にない、それが現実なのではないかと思うのだ。近頃は人工知能の進化がよく取りざたされるようになったが、人工知能の研究とは「脳」の研究、つまり人間の知性をいかに再現するかという研究として始まったものであることはそれほど知られていないように思える。究極のAIとは「脳」と機能的に等価なものを意味する。人工知能によって再現されることが期待されているものは、我々「人間」の思考なのだ。最も機械的と思われるような研究領域の一つである人工知能研究の土台にあるものが、もっとも人間的なもの、いやむしろある意味では人間の本質ですらある「脳」についての理解なのだ。

 こうした発想の転換によって色々なことがひっくり返る。なぜなら私たちが営む社会の中では、人間は理屈じゃ動かない、論理よりも感情が大事、大事なことは理屈じゃない、理屈は打算的、人間は本来合理的な生き物ではないなどなど、表現のバリエーションは他にも色々あるが、これらが私たちの常識や社会通念といった、ものの考え方の前提になるものをかなり深いところから制約・規定しているからだ。これらは普段意識されることはほとんどない。意識されないからこそそれに左右されてしまう。

 私たちは自分の身体がどんな風に機能しているか、ふだんは気にしない。いや、気にしないように私たちを作ることすら、私たちの身体の役割なのだ。それは遺伝子レベルで設計・指定され、タンパク質が中心となって作り上げている構造だ。わざわざ意識しなくても処理できるからこそ、身体は身体として正常に機能する。なにか病気にかかったり、外傷を負ったりして、医者に説明してもらうと初めて、「人間の体とはそんな風にできていたのか」と気付かされたり、あるいはその複雑さや精巧さに驚かされたりする。

 ガン、認知症自閉症、性病などなど、いろいろな疾患が私たち人間を襲う。ほとんどすべての人間が大なり小なりなんらかの疾患を抱えている。それらの疾患の少なくない部分は、私たち自身が生来備えた免疫によって十分対処できるレベルのものだろう。生化学の教科書を見ると、体内における細胞、神経伝達物質の発するシグナル、免疫系などの機能のしかたは、知れば知るほどその巧妙さに感嘆させられる。あるいは神経科学の教科書を見ると、脳を構成する一千数百個以上のニューロンシナプスによって広大なネットワークを形成し、それらがいかに連携・協調・分担して思考や判断などの活動を機械以上に機械的な正確さで行っているかがわかる。

部品の数

 機械について考えるために、その部品の数を考えてみる。自動車の部品は20000〜30000個、スマホの部品は約1000個、そして私たちの身体を構成する細胞の数はおよそ37兆個だ。従来は「約60兆個」という説が一般的だったが、2013年に出されたとある論文によると、どうも実際はもう少し数は少ないようだ。しかしどちらでも構わない。そんな数の部品から構成されている機械を私たちは「知らない」のだ。そして「知らない」ということがまさに、私たちが人間と機械を真逆のもののように捉えがちであることの原因でもある。それほど莫大な数の部品で構成された機械を、ほとんどの人間は理解することも説明することもできない。そしてその機械の圧倒的な複雑さゆえに、ある手頃な結論に達することになる。つまり「人間は機械とは違うものだ」と。

 私たちは人間の感情を理性や論理的思考などに対置させる。「理屈じゃない」という表現がよく使われるが、私はこれほど胡散臭い言葉はないとすら思う。かつて私たちが理屈ではないと思っていたことのほとんどは、今では私たちの理屈の側にある。人間だけが永遠に例外的に理屈の反対側にいるなどとどうして断言できようか。私は人間だけがそのような特権的な存在であるとは全く思わない。そして「人間」というものにまとわりついたその手の特権や超自然的なものを否定したからといって、人間という存在が不当に貶められたことになるとも思わない。ものごとの価値とは、理解されない場合よりも、理解された場合の方が際立つこともある。人間もまたそのようなものの一つではないかと思う。

 感情とは、あるいはもっと広く「理屈ではない」と思われているものとは、今のところはそれを説明する理屈が存在しないものに過ぎない。感情には感情なりの理屈があり、衝動には相応の論理があり、不合理にすら透徹した合理性が潜んでいる。それらは単に、私たちには見えにくいだけで、「見えにくいこと」と「存在しないこと」が厳密にはイコールではないことに注意すれば、実はそこにも何かしらの論理が潜んでいる可能性を見て取ることができる。おそらくは生化学や神経科学の発達が、人々の今のブラックボックスの多くを解体し、中に潜んでいた超自然ならぬ超機械的なものを人々にまざまざと見せつけることになるのではないかと思っている。とても楽しみだ。

集合で考える

 集合の概念を使って考えよう。いま存在する機械(飛行機、車、テレビ、パソコン、スマホなど)が機械の全て、つまり全体集合というわけではない。厳密に考えれば、それはあくまでも「現時点で人類が作れるレベルの機械」という部分集合にすぎない。私たちはいまある機械をもって「機械的なもの」について語ることに馴染んでいるが、それは言い換えれば部分集合から全体集合の性質を推定していることに等しい。だが今の時点で、その部分集合の中に実はヒトやサル、犬、猫など、さらには桜やバラなどの植物も含めた生物(さしあたりここでは多細胞生物の範囲で考えることにする)が入っていると考えている人間はどれくらいいるだろう。ごくわずかではないだろうか。そしてそういう状況が背景にあって、「人間と機械」という二項対立が出来上がってしまっているのではないか。他の多くの物事と同様、「多くの人がそう信じたり考えたりしているからそれが正しい」というような、ある種の多数決による決定を前提として。

 未来のある時点で、人間の方が機械より機械的だと多くの人が認めざるを得なくなるときがやってくるのではないかと思うことがある。コンピュータとは、もはやシリコンでできたものだけを指すわけではない。エーデルマンによってDNAコンピュータの概念が登場し、分子をコンピュータとして利用する研究が進んでいる。そうした傾向と共に、私たちが機械について抱くイメージもどんどん変わってきている。そしてイメージだけではなく、実際に生み出される機械の方もまた、ナノテクやナノマシンウェアラブル端末の進歩に見られるように、その内実をどんどん変化させている。そして蒸気機関や電信、自動車といった古参の機械たちのイメージをもとに、こうした最新の機械たちのイメージや内実を捉えることは難しい。部分集合から全体集合の性質を誤って推定してしまっていることが、その原因なのではないか。

 機械と人間の関係は、今考えられているような「互いに対立するもの」ではなく、もっと広くお互いを矛盾なく説明できるような関係、あるいはよりラディカルにいえば「同じもの」として捉え直したほうがよいのではないかと思う。