論理的思考よりも大事なことを見落とさない注意力の方が欲しい

 SNSも含めネット上をあちこちウロウロしていると、たまに性格診断系のサービスに出くわして、これはまともそうだなと思ったものだけ診断をしてみるのだが、「あなたは論理的思考タイプです」というような結果になることが多い。自分ではまだまだ論理的思考というには程遠いほど甘々だと思っているので、あまり診断結果が励みにならない。知人や友人などからもよく「論理的」と形容されるのだが、これもこれで額面通りに受け取ることができない。誰かが「論理的」と言ったとき、その言った人間が論理的でなければ、「論理的」という言葉に説得力はないからだ。そして論理的でないタイプの人ほど誰かを指して「あの人は論理的」と言ったりするものだ。論理的かどうかを判断するときには、判断している人間自身が論理的かどうかを確かめなければならない。

 さて、論理的うんぬんの話はこの辺にして記事の本題に入ろうと思う。論理的思考などというものは、訓練次第で誰でもある程度は身につけることができるし、その素養は誰でも持っているものだと私は思っている。だからそこではそんなに差はつかない。それよりも私が気になるのは、ある問題に直面したときに即座に答えを出せるかどうかということの方だ。それは論理的思考とはまた別の能力で、素早く正しい判断が下せるという能力は、論理的思考を身につけるよりももっとずっと難しいのではないかと思う。

 私はまだ27年とちょっとしか生きていないが、それでも頭のいい人というのに何度か出会ったことがある。頭のいい人の特徴は、ある問題にぶつかったときに即座に正解を出せるかどうか、また間違った考えをしているときに、どこが間違いであるかを即座に見つけて軌道修正がとれるかどうかだと思っている。IQテストでも解答時間が重視される。時間をかければ誰だって解けてしまう問題でも、IQの高い人間はより短時間で、たいていは数秒で答えを出す。重要なのは「時間」なのだ。

 私は自分のことを「けっこう抜けている」と思っていて、あれこれ考えたつもりでも重要なことを見落としていたり、そもそも前提条件が違っていたりというように、気付くと嫌になるようなミスをしょっちゅうやっている。そういうことを減らそうと思っていてもなかなかうまくいかないでいたりすると、「やっぱり才能の問題なのか?」と思ってしまうこともある。「才能の問題」というのは厄介な言葉で、もし本当に才能の問題なのだとしたら、それはそもそも問題にはならない。言葉の定義を考えることが大切なのだ。「問題」というのは「答え」があって初めて問題といえる。もしもある事柄が才能で決まるならば、自分にはどうすることもできず、したがってそれは、少なくとも自分にとっての問題にはならない。太陽が東から出て西に沈むということが問題にはならないのと同じ意味で、それは問題にならないのだ。

 論理的思考よりも注意力の方が欲しいなあと思う今日この頃。メモをとったりこうして文章を書いたりすることで注意力が高まればと思っている。

簡潔な表現について

 ある事柄について、その本質だけを簡潔な言葉で無駄なく表現できる人間というのがいる。滅多に目にすることはないけれども、たまに見かけることがあって、感心させられる。そういう人物どうしであれば、たとえば140字の字数制限のあるTwitter上でも齟齬なくやりとりを続けることができるのかもしれないが、たいていはそういうわけにはいかず、仮に一方がそういう頭のよい人間であるとしても、他方のおつむがよろしくなくて、変な言いがかり→無駄な議論→無駄な妥協or譲歩で事態は収束という展開になっていることが多い。私がフォローしているごく少数の人々の間でもそういう状況に陥っていることはある。

 私自身も、本質だけを簡潔に述べられるように気をつけていて、そういうことの訓練としてTwitterを使っている面もあるのだが、なかなかうまくいかなくて、変な誤解や軋轢を生んでしまうだけという結果になる場合も少なくない。これでは損だと思うこともこれまでに何度もあった。

 簡潔な表現ができる能力が今の私にはないのだとしても、こうしてブログで文章を書き続けているうちに、次第に自分の頭の中が整理されていって、重要なことや必要なことだけを簡潔に表現出来るようになればいいなあと思っている。

 少し前から「ゼロ秒思考」*1というのを実践し続けている。マッキンゼーの赤羽さんという方が書いた本がもとで知ったものだ。A4の紙に自分の考えていることを箇条書きでどんどん書いていくというシンプルなものだが、これがなかなか効果があって、続けているうちにある問題について何が焦点になっているのかということを見抜きやすくなったような実感がある。今でもこれは続けている。私の場合は紙に書くのが面倒なので、メモのアプリを使っている。

 簡潔な表現というのは、「抽象的な表現」といってもいい。E(エネルギー)がc(光速)の二乗とm(質量)の積に等しいという等式があるとして、これはきわめて簡潔な表現だが、その意味を正しく理解するにはある程度の素養と知識が必要になる。それらは「文脈」と言い換えてもいい。ある二者の間でやりとりがかみ合っておらず、問題となっている命題それ自体は正しいものであるとすると、少なくとも両者のどちらかが文脈を正しく理解できていないということになる。

 私が誰かとやりとりをしていて噛み合わないとき、

①相手がこちらの意図を正しく理解してくれていないからだと考えるべきか

②それとも私の言い方がまずいせいだと考えるべきか

③その両方

④どちらでもない

の4通りの可能性を考えたときに、それはケースバイケースで判断すればいいが、「問題を起こさないために、あるいは問題にうまく対処するために私にできることは何か」という視点で考えた場合には、私はつねに自分の表現に気をつけるべきだということになる。

引き続きこの場で表現力を洗練させる努力を続けていきたい。

*1:

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

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ゼロ秒思考[行動編]―――即断即決、即実行のトレーニング

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速さは全てを解決する---『ゼロ秒思考』の仕事術

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マンガでわかる! マッキンゼー式ロジカルシンキング (まんがでわかるシリーズ)

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並べ替えや選別から処理へ

 改めて考えてみると、検索エンジンやキュレーションが行っていることの本質は、ウェブ上の様々なページのランク付けや選別だ。Googleはウェブ上の厖大なウェブページの中から、検索者が最も必要としていそうな特定のページを探し出そうと、今日もアルゴリズムの改良を続けている。Feedlyなどのフィード購読サービスの場合は、ユーザー自身が「最新情報を知りたいページ」を指定していく。そうすれば自分のお気に入りのサイトの更新情報だけを取得した「自分仕様のマガジン」ができあがる。Smartnewsなどの機械学習が実装されたニュースキュレーションアプリなら、使えば使うほどユーザーの嗜好を学習して表示する記事の選抜の精度を上げていく。

 ちなみにSmartnewsがユーザーに配信する記事を選別する際に、ネット上の記事をどのように分類しているのかについて、開発者の方やマーケティングディレクタの方の記事を見つけたので、ここに貼っておく。

developer.smartnews.com

web-tan.forum.impressrd.jp

 そしてまた、改めて考えてみると、私はネットを利用するとき、私がしたいことは何かというと、私の疑問に対する答えが書いてある「特定のページ」を探したいわけではなく、厳密には「答え」が知りたいだけなのだ。だからそれが必ずしも、「特定のページ」に対応している必要はなくて、ただ今の検索エンジンの慣行に従って、「ページごと」に内容を確認しているだけのことだ。私はGoogleを始めて使ったのは確か中学3年の頃だったと思うが、そのとき以来、私はいつのまにか検索エンジンというものの「常識」に暗黙のうちにしたがって答えを探すようになってしまっていただけの話だ。

 最近は「データサイエンティスト」と呼ばれる人々が重要だと世間一般には言われている。データサイエンティストの定義は人によって様々で、いまいちピンとこないところもあるが、検索エンジンやキュレーションとの重要な違いは、データサイエンスにおいては情報を何らかの手順で「処理」しているということだろう。ここで「処理」というと、なんだか抽象的な表現で伝わりにくいかもしれない。検索エンジンやキュレーションでは、特定のページの「中身」まで踏み込んでそれを書き換えたりはしない。あくまでもページを外から評価して並べ替えたり、表示するページとしないページを選抜しているだけだ。一方でデータサイエンティストが行うのは、様々なデータをウェブ上から集めてきて、それらを「加工」し、別の見せ方で提示してみせるということだ。ここでいう「加工」というのが「処理」の内実だと考えればいいだろう。

 私がある事柄について、何らかの情報を欲しがっているというとき、その情報について「ズバリこれだ!このページを探していたんだ!」と思えるような書き方をしてくれているウェブページが常に存在するとは限らない。もちろんそういうページが見つかる場合もある。デパートの営業時間や、近くにあるスタバの場所などは、「検索」によって簡単に答えを確認できる。しかしもう少し込み入った事柄を調べるとなると話は別で、検索してもすぐに目当てのページは見つからず、結局は複数のページを虫食い的に読みあさり、それらの内容を頭の中でまとめ直さなければならない。これは面倒だ。

 それならば、検索の初めから複数のウェブページ上の情報を統合し、簡潔にまとめられた状態で表示するようななんらかの処理の手順を自動化したらどうだろう。今はそれをデータサイエンティストと呼ばれる特定の人間たちが行っているわけだが、これを機会の手に委ねて自動化し、あたかもGoogleで検索するときのように、何かを打ち込んだらそれについての必要なデータが一目瞭然という形で表示されるという風にできないものか。

 ウェブページの中身にまで踏み込んでそれを処理に利用してしまうというのは、ある意味では著作権の侵害ということになるのだろうか。単にページを並び替えているだけならば、そういう侵害に当たることはないだろう。しかしページAとページBとページCから適当な処理を施した上でページDを生成したとしたら、それは何らかの意味で「パクリ」ということになるのだろうか。法律に詳しくない私には、このへんのことはよくわからない。

 「世界中の情報を整理して人々に使いやすいものにする」というGoogleのモットーはあまりにも有名で、今更取り上げるほどのものでもないかもしれない。ただ、これを深読みすると、「整理」というのは「適切な並べ替え」のことを指している。「加工」とか「処理」ではない。ネット上に色々な人がどんどん何かを書き込んでいけば、あなたの欲しい情報について書き込んでくれている人間のページがきっとあるだろうから、私たちはそのページをトップに表示できるようにがんばりますよ、というのがGoogleのやっていることの本質だという言い方ができる。

 考えてみればこういう「処理」のサービスというのはすでに存在していて、Twitter上の手間情報をフィルタリングして弾いてくれるサービスというのがある。これは特定のぷらっとフォーム上に存在している厖大な情報について、ユーザーの嗜好に合わせて適切な処理を施すという志向のサービスだ。もちろん誰か特定のユーザーのツイートを書き換えたりしているわけではない。そこまでしたら完全に法に触れるだろう。それならば、こういう処理というのはどこまで踏み込んでいいものなのだろうか。

 先日、unoの機械学習を使ったサービスを使った。

www.socialbarber.uno

 

 これはTwitterFacebook上のユーザーの投稿内容を分析して、ユーザーの性格分類を行うもので、29パターンのエゴグラム(人格のタイプ)に分類して、それに応じた髪のスタイリングを提案するというサービスだ。ちなみにこのサービスに関するEngadgetの解説記事があるので、ここに載せておく。

japanese.engadget.com

 私はTwitterの場合とFacebookの場合と両方を試してみたが、どちらも「論理思考優位の勝ち組タイプ」というような結果だった。これは私個人の情報を利用して処理を行うことに私が同意して行われるわけだが、もしもこれがネット全体のあらゆるウェブページや投稿に対して行われたとしたらどうだろう。それは「検索エンジン」でも「キュレーション」でもない、情報処理の新しい見方ということになるのではないか。これを書いただけでは、「若者に典型的な誇大妄想狂の戯言」というラベルを貼られて終わりそうなものかもしれないが、おそらく技術的には可能だろうと思われる。今の私にはまだ技量が不足していて、これを実現させられないが、プログラミングの学習を続けていって、そのうちプロトタイプだけでも完成させたいと思っている。

 

 

RSSでもキュレーションでもGoogleでもSNSでもなく、欲しい情報をどうやって得るのか

 高校生の頃、ジャパハリネットというバンドの「物憂げ世情」*1という曲が体育大会で使われた。ふとしたきっかけで久しぶりに聴きたくなって、YouTubeで探して聴いていると、歌詞のある部分が気になった。

溢れすぎる情報と毎日飛び交う電波の中

良くも悪くも上っ面な虚像に騙されては

まだ見ぬ明日を夢見ていた

 

 この部分の、特に「溢れすぎる情報」という部分に引っかかった。別に特別変わった表現ということでもない。むしろ聞き飽きたような表現とすらいえる。それでもこの言葉が気になったのは、ちょうど今、イーライ・パリサーの『フィルターバブル』(『閉じこもるインターネット』から改題)を読んでいることや、機械学習を身につけようとしていることも影響しているのだろうと自己分析している。

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

 

  こんなことは今更だが、確かに情報は溢れている。しかし自分の欲しい情報が簡単に手に入るかというと、意外とそうでもない。RSS(フィード購読)やニュースキュレーション、SNSなど、プログラムで大量の情報を処理して表示してくれるサービスはかなり普及しているにもかかわらず、である。なるほどネット上に色々な人間が書き込みをするようになればなるほど、自分の欲しい情報を発見できる確率は上がるかもしれない。10人しか投稿していない掲示板よりも、100人以上が投稿している掲示板の方が、自分の目当ての情報が見つかるはずだと考えるのは、ある意味では妥当だ。だからどんどんネットユーザーの投稿が増えていったら、あとはそこから目当ての情報をうまく見つけ出す方法さえ作り出せればよいと素朴に思う。しかしそううまくはいってない。人々が多様なソースから情報を得るのは時間の制約があって難しく、いくらキュレーションでコンテンツのソースを多様化するサービスが出てこようとも、そもそも1日に読む記事の数に限りがあるとしたらどうしたって限界がある。

 RSSは「最新の情報」は伝えてくれるけれども、「欲しい情報」を伝えてくれるわけではない。欲しい情報というのは、必ずしも最新の情報の中にあるとは限らず、古い情報の中に眠っているということもある。そういう場合、RSSという仕組みでは必然的に欲しい情報は新しい情報の登場によって流されて見えなくなってしまう。5月10日に書かれた記事が重要な事実を指摘していたとしても、それはRSSでは5月11日には表示されなくなってしまう。RSSにはそういう側面もある。

 では新しいか古いかによらずに「欲しい情報」を手軽に見つけることはできないかと考える。最近はキュレーションを利用したニュースアプリやサイトが増えた。しかしそれらは「ニュース」、つまり「最新の情報」の中からキュレーションを行っているので、情報の選び方の本質はRSSと重なる。新しいものの中から、あなたが欲しそうな情報をなるべく高い精度で探してきますよ、という考え方だ。

 古いもののも含めて、「欲しい情報」を見つけることのできるサービスと言われると、今のところはGoogleなどの検索エンジンしか思いつかない。けれども、自分が本当に欲しい情報について、前もって知識を持っていることは少なく、その一方で検索するときには、「スリジャヤワルダナプラコッテ」のように「固有名詞」を知っていることが求められる。Googleで何かを検索するとき、品詞に注意してみると、検索語のほとんどは「名詞」である。しかし自分の「欲しい」という感情は名詞ではなくむしろ形容詞で、感情に紐づけられた情報というのは、名詞ではなく、「面白い!」とか「意外!」とか「驚いた!」というような「形容詞」で評価されているのではないか。そう考えると、形容詞も検索語として有効に使えるような検索エンジンこそが望ましいのではないかという風に考えが進んでくる。

 検索エンジンは今も、「物知り」に有利なサービスだ。物知りというのはもちろん、「名詞の物知り」だ。自分が欲しい情報を探すときに、手掛かりになるような名詞を頭の中からすぐに引き出せる人間、それもいくつもの名詞を引き出せるような人間がGppgleには向いているのではないかとさえ思えてくる。無知な人間は、そもそも検索ボックスになんと打ち込めばいいのかさえわからないままになってしまいがちだ。そして特に見たいわけでもなかったおもしろ動画をYouTubeで見始めたり、聴きたいわけでもなかった音楽をSoundCloudで聞き出したりするのだ。

 Facebookでつながっている人に聞いたり、Twitterでフォローしている著名人の投稿をチェックしたりするのも手だろうけれども、そこには「待ち」とか「受け身」の姿勢しかない。自分から積極的に、能動的に情報を取りに行くということができない分、どうしても制約がある。主導権は相手にあるままで、自分でコントロールすることができない。

 辛抱強く待っていれば、Googleは世界中の情報を整理してくれるはずだから、今よりももっとずっと精度の高い検索エンジンが利用できるようになる日もやってくるだろう。………そう、東京オリンピックくらいまでには?

 私は今、日本の首都、東京に住んでいる。地元の福岡を離れて東京に出てきたそもそもの動機は、地元が退屈で、東京には面白いことがたくさんあって、どんどん変化が起こって、色々な人が集まっていて楽しめそうだと思ったからだった。

 しかし現実はといえば、別にそういうわけでもない。私の交際範囲がきわめて限られているせいもある。一時期はFacebookの友達が1ヶ月の間に100人以上増えるということが数ヶ月にわたって続いたこともあった。その頃はピークで、私の友達の人数は800人を超えたけれども、集まる情報にこれといって変化はなく、あっちで見た情報がこっちで今頃になってシェアされている、とか、これって一年以上前に自分のニュースアプリで見た記事じゃないか、という記事が別の友達の投稿で「天啓」のように崇められているのを目にしたりした。

 やがて現実にはちっともやりとりをしない友達ばかりだということに気が付いて、私はFacebook上の友達を200人とちょっとまで削った。次から次へと友達を切っていった後に、特に後悔することはなかった。

 話が少しそれてしまった。自分の欲しい情報を人間関係を利用して得るということを SNSを通じてやろうとしてもうまくはいかない。大抵はどこかの大手のサイトの記事でしかなく、そうでなければ誰かの趣味の延長で、それは自分にとって特段欲しい情報というわけでもないというような、そういうことがほとんどだ。なにより、情報を手にいれる主導権は自分にはなく、あくまでも個々のサービスの裏側で動いているプログラムが選択を行っているに過ぎず、自分がそのプログラムに対して何らかのフィードバックを返すことはできても、それを変更することはできない。

 もしかしたら、まだスポットライトが当たっていない方法があるのではないか。どうもそんな気がしてきた。次々出てくる新しい、かっこよさ気な単語の群れに流されず、スタート地点まで戻って「欲しい情報を手に入れるにはどういう方法があるか」という問題に向き合ってみようと思う。

 

【参考文献】

 『フィルターバブル』と似たような本として、『勝手に選別される世界』がある。こちらはまだ読んでいないが、ざっと目を通した感じでは、私たちの日常生活や人生の重要な進路などがGoogleFacebookなどの一部の巨大企業のコンピュータ・プログラム(アルゴリズム)によって左右されるようになっていくことに対する警鐘を鳴らすという論調で、抽象論一辺倒ではなく固有名詞もほどよく使われていて面白そうだ。

勝手に選別される世界

勝手に選別される世界

 

 

 

決済手段が変わると行動パターンが変わる?

 FinTechやブロックチェーン、或いはビットコインが流行るようになってから、「決済手段」ということにも世間の関心が集まるようになった。この決済手段ということについて、自分の場合で考えてみると、何かを買う場合にその決済手段がauWALLET中心に変わっただけで、Amazonを利用することがなくなった。理由は単純で、AmazonではauWALLETが使えない」と思い込んでいたから*1

 「決済手段」ないし「支払い方法」というのは、少なくとも経済学的には、「買い物」(消費)という行為に対して中立的であるはずなのに、実際には私の場合、Amazonでの購入から実店舗での購入へのシフトという形で、自分が購入する商品のバリエーションに影響を及ぼしている。Amazonであれば洋書なども制限を感じずに購入することができていたが、実店舗だと洋書の品揃えには限りがあるし、理工系の書籍についても同様だ。

 今回の件は自分の思い込みによる勘違いが原因だったけれども、それによって自分の購買行動のパターンは少なからず以前と比べて変化したことは確かで、その原因になったのは支払い手段についての自分の認識だった。

 しかし、auWALLETで決済ができない店もまだ少なくないこともまた事実ではある。そしてその状況が消費者の購買行動に対して非中立的な形で何らかの影響を及ぼしていることも十分に想定される。

 auWALLETに限らず、SuicaEdyなどの電子マネーが使えない店はまだ少なくない。これは日本での「現金至上主義的な価値観」はすぐには変わらないということなのかもしれない。もっともこの点については、自分が海外で電子マネーでの生活をした経験に裏打ちされた言葉というわけではなく、ネット上のあちこちで見聞きした情報をもとにした考えである。別に「現金至上」ということではなく、単に新しいことを取り入れることに及び腰な国民性が決済手段というケースにも当てはまるだけで、もしもauWALLETが一旦定着したなら、それはそれでまた新たな決済手段が出たときに、いつまでもそちらには変わらずにauWALLETが使われ続ける…という状況が起こりそうな気もする。

 決済手段は中立的でなく、しかも人々は多かれ少なかれそのことについてある程度認識している節があって、その認識もまた決済手段の中立性を歪める結果につながるという、なんとも困った状況に陥っているということなのかもしれない。

 

【追記】

AmazonでもauWALLETが使えるとの情報を手に入れて、早速試してみたが、「クレジットカードの利用承認が得られなかった」というメールが送られてきて決済できない。

結局使えないということになってしまう。じゃあやっぱりAmazonで買うことはないままになりそうだなぁ。

*1:実際にはauWALLETを使ってAmazonから何かを購入することはできるらしい。以下のサイトでそのことを知った。

www.dalahast.jp

増刷のタイミングを予測するには

 以前から気になっていながら、結局読まないままでいた柳広司さんの『ジョーカー・ゲーム』がアニメ化され、アニメの方を見てみたら面白かったので、原作の文庫本を買った。アニメの放送に合わせて、アニメ版のキャラクターの絵が載った特別の表紙が期間限定で被せられている。

 ただこの『ジョーカー・ゲーム』、アニメがスタートしてからすぐに増刷*1…という風にはいかず、本屋に並べられた原作本は、経年による摺り切れを起こしていた。私はこういうところには割と神経質な方で、普段だったらこういう状態では買わず、版を重ねるまで待つことにしている。

 もっとも書店の方たちの名誉のために付け加えておくと、ここで私が「こういう状態」というのは、多くの人々からしたら「そんなの気にしないよ」というレベルの話であって、決して書店に新品として並べておいても一向に問題ないレベルだ。ただ私個人は、それでもやはり気になってしまうということだ。それこそジョーカー・ゲームの中で結城中佐が言っているように、余計なこだわりなど捨ててしまった方がマシだと思う部分もあるが、なかなかそうもいかないこだわりが私の中にはまだまだいくつもある。

 さてそんな私が、「たまには思い切って状態の悪いものでも買ってみよう」と先日思いたち、シリーズ4作のうち2作目までを購入した。最新作の4作目は、まだ出てから日が浅いので、状態のいい本が簡単に手に入るものの、3作目は状態のいいものが見つからず、これも諦めて状態の悪いものを買おうと今日もぶらっと書店に立ち寄った。

 すると角川文庫のコーナーにはいつもの様に平積みされた『ジョーカー・ゲーム』のシリーズがあり、私は3作目と4作目に手を伸ばした。そこで3作目の方の状態を何気なく目にして驚いた。ページの状態が新刊本のように綺麗だ。奥付を見ると4月30日に増刷が出ていることが知れた。

 私はこのシリーズの2作目までを購入するとき、アニメ版の人気いかんによっては、増刷がかかって綺麗な状態の本が購入できるようになるかもしれないと考え、それまでしばし待ってみようかと思ったこともあった。だが結局、それまでの自分の「余計なこだわり」を捨てる意味でも、思い切って(少なくとも私にとっては)「状態のよくない」ものを購入した。

 私の行動は早計だったのだろうか、それともさっさと原作本が読めたのだから、増刷を待つよりも合理的だったではないかと考えるべきだろうか。何を目的と考えるか、あるいは何が優先されるべき事柄であるかということによって、私の判断と行動の評価は変わってきてしまう。

 しかしせめて、私は増刷について、「もう少し待ってみよう」というよりも一歩踏み込んだ行動がとれるよう、増刷のタイミングを何らかの指標から推測する方法がないかということを考え始めた。すぐに浮かんだのは次の2つ。

①アニメの視聴率が高いほど、増刷までの時間は短くなる傾向があるだろう

②出版社が増刷を決定する際の社内での手順・仕組みがわかればいいのではないか

 ただ①も②も簡単に調べられない。視聴率については、あまりにもひどい場合*2や、とてもよい場合*3には、メディアが記事にして取り上げたりするので、それを参照することもできる。しかし、「そこそこ」の数字の場合には、わざわざそれが取り上げられることはない。

そこで、視聴率を間接的に把握することができるような別の指標が必要で、例えばネット上のアニメサイトにおける作品の再生回数やTwitter上での盛り上がりぶり、YouTubeでの主題歌の再生回数、関連グッズが出ている場合にはその人気ぶり(もっとも「人気ぶり」は、関係者の場合を別として、一般人がそれを数字で捉えるのは難しい)などから、アニメ版の視聴率がある程度推定できるのではないかと思ったりする。

 

 何かを判断するときに、そのための指標をどれくらい作れるものなのか、またその指標というのは、一部の利害関係者だけでなく、なるべく多くの人が使えるものであることが望ましい。そういうものを探すトレーニングの一環として、この問題を考えてみようと思う。

 

【追記】 

 視聴率の予測に使える指標として声優は 重要かどうか聞いてみると、「声優や制作会社、制作スタッフは重要だ」という指摘をもらった。最近少しずつ声優は誰かということを気にするようになったが、今回は事前に調べていなかった。

 ジョーカー・ゲームの場合は、声優のメンバーがかなり豪華で、曰く「女性にとってはたまらない」ような豪華メンバーらしい。また監督もすごい人物だという。私は制作会社がProduction IGということは知っていたが、所詮その程度の知識でしかなく、声優や監督までは気にしていなかった。まだまだ勉強不足だなあ。

 

 ということは、一旦まとめると

A: 声優も含めた制作スタッフ*4の知名度→B: 視聴率→C: 原作本の増刷までの時間

という流れで考えていけばいいと言える。この仮説に基づいて、過去にジョーカー・ゲームの声優さんや制作スタッフの方々が手がけたアニメについて、原作の増刷の状況を調べれば「裏付け」はできることになる。これは少し手間だが、やってみる価値はありそうだ。その上で、Twitterなどでこれらの人々の登場回数なども考慮しながらデータを取っていけば、視聴率との相関がとれそうだ。

 

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

 
ダブル・ジョーカー (角川文庫)

ダブル・ジョーカー (角川文庫)

 
ラスト・ワルツ (角川文庫)

ラスト・ワルツ (角川文庫)

 
パラダイス・ロスト (角川文庫)

パラダイス・ロスト (角川文庫)

 

 

*1:そもそも増刷というのは、書店に在庫がなくなったら起こるものであって、書店に並んでいる本が完全に売り切れなければ、増刷はかからない。もちろんこれは書店ごとの話であって、丸善ジュンク堂といった大手の書店の場合には、他店舗からの取り寄せによって対応することもあるだろう。

*2:こういう場合は「テレビドラマの〇〇、初回は9.7%からのスタート 打ち切りの可能性も…」という様なタイトルの記事が出たりする

*3:こういう場合には「テレビドラマの〇〇、初回は32.4%と好発進」という様なタイトルの記事が出たりする

*4:監督:野村和也、

シリーズ構成・脚本:岸本 卓

キャラクター原案:三輪士郎

キャラクターデザイン・総作画監督:矢萩利幸

チーフリサーチャー:白土晴一

美術監督:谷岡善王

美術設定:成田偉保

3DCGI:サブリメイション

色彩設計:野田採芳子

特殊効果:村上正博

撮影監督:田中宏

編集:植松淳一

音楽:川井憲次

音響監督:岩浪美和

アニメーション制作:Production I.G

〔声優〕

結城中佐→堀内賢雄

三好→下野 紘

神永→木村良平

田切細谷佳正

甘利→森川智之

波多野→梶 裕貴

実井→福山 潤

福本→中井和哉

田崎→櫻井孝宏

蒲生次郎→津田健次郎

佐久間中尉→関 智一

麻婆丼と割り箸

 GW初日、外は天気がいいものの、一方で風が強く、外出らしい外出はしないまま、さっきコンビニに行ってきた。何となく麻婆丼を食べたい気分だったので麻婆丼を手にとってレジに並び、新しく入ったバイトの女性が対応だった。そこで「お箸はご利用になりますか?」と尋ねられ、「はい」と答えたのだが、何かがいつもと違うという違和感を感じた。その正体が何なのかはすぐにはわからず、初めは店員さんが新しいせいかとも思ったがどうもそういうことでもない気がする。一体何がいつもと違っていたのか。

 

 家に帰り着き、麻婆丼を食べるときにやっと違和感の正体がわかった。これまでであれば、丼ものを買ったときは顔なじみの店員さんが黙ってスプーンを入れてくれていたのだが、今回はそうではなかったからだ。「麻婆丼といえばスプーンで食べる」という私の個人的なルールを把握しているはずもない新人の店員さんが、彼女の中では「麻婆丼は割り箸かな」と考えて私に割り箸を使うかどうかを確認したのだ。

 

 こういう何でもないようなことでも、即座に違和感の正体に気がつくことのできる頭の働きができるようになりたいなぁと改めて思った。最近名探偵コナンのアニメや『ジョーカーゲーム』のアニメと原作を見ていることも自分のこうした気分に影響しているのだろう。

 

 

これもひとつの老獪?

 本当は答えがわかっているのに、あえて誰かに質問して、その人に答えを出させ、それに賛成するという手順を経ることがある。「自分で答えがわかっているのに、どうしてわざわざそんな面倒を」と思われるかもしれないが、ここに「承認欲求」という補助線を引いて考えると筋が通る。

 相手の方は、自分が出したと思っている答えに賛同してもらえたことで嬉しく思い、それによってその人との今後の関係が円滑に進む。普段からこういう風に潤滑油をさしておけば、いざというときに保険がきく。もしも相手がすぐに答えを出せそうにない場合、こちらから適当に助け舟を出す。しかし最終的な判断は相手にしてもらう。そこがミソだ。円滑な関係によって得られるものに比べれば、自分と相手のどちらが答えを出したかなど大した問題ではない。利のいい保険である。世の良妻賢母の方々、或いは賢者というに相応しいご老人方は、こんなことは日常的にやっているのではないかと拝察している。そういう人々に比べれば、私などまだまだ遠く及ばない。

 ともあれ、このように一見不合理のように見えて、実は一定の合理性を持っていることがらを見つけたとき、私は「老獪」という言葉の意味が少しわかったような気がする。

 私はそんなにあれこれ挑戦するタイプではなく、どちらかというと読書をしたり考え事をしたりして過ごすことの多いタイプだから、経験値は他人よりずっと少ない方だろう。そんな私が、数々の経験を経た人生の後半で見出されることの多い「老獪」を理解するには程遠いという気もする。けれども時々、大抵は何かの偶然が原因で、老獪に触れることがある。

 世の中には、一見不合理に見えたなら、もうそれはどうしたって不合理だと思い込んでしまって、不満を募らせていく人も少なくない。けれどもそこで一歩引いて、物事を見つめ直して、見えにくくなっている合理性を見出すことができれば、人生はもう少し生きやすいものになるだろうと思う。

 

 

 

問題A→問題B→…

 ある2つの問題AとBがあって、Aの結果はBの結果次第で決まるとする。例えば「今日、ロードバイクで通勤するかどうか」(問題A)は、「今日の天気が何であるか」(問題B)の結果によって決まる。今日が晴れならば(実際今日は晴れだ!だから私はロードバイクで通勤させていただく)ロードバイクで通勤できるし、逆に雨ならば我慢ということになる。考えるべき問題の順序は、

 

B:天気の確認(晴れか曇りorそれ以外) → A:ロードバイクで通勤するか否かの決定(通勤するor通勤しない)

 

ということになる。今は問題の数が2つの場合を考えたけれども、これが3つや4つ、或いはもっと厖大な数に上った場合、どの問題からまず手をつけ、2つ目3つ目4つ目は何かという「順序」を正しく決めるのは骨が折れそうだ。これは一般に「空・雨・傘」*1と呼ばれる考え方とも重なる。

 

 また問題の数が3つ以上の場合、最初の問題を解決すれば他の2つの問題は同時に解決出来るという場合も考えられる。たとえば先ほどの例に「電車利用のためにSuicaを持っていくか否か」という問題(問題C)を足してみる。すると天気の確認をした時点で、「ロードバイクに乗るか否か」と「Suicaを持っていくか否か」は同時に解決される。これは楽だ。こういう場合は、最初に片付けるべき問題が何かを正しく見極める能力がものをいう。もしも「Suicaを持っていくか否か」という問題を最初に考えていたら、他の問題は片付かない。問題に取り組む順序が肝心なのだ。

さて、それでは現在、自分の身の回りで、複数の問題が絡まり合っているということはあるだろうか。或いは絡まり合っていることに気づけていないということはあるだろうか。

まずはその問題から考えなければ。

 

 

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 

*1:ちょうど今読んでいる『イシューからはじめよ』にこれが載っていたので、少し引用する。

 もうひとつのストーリーラインづくりの基本形は「空・雨・傘」と呼ばれるものだ。多くの人にとってはこちらの方が馴染みやすいのではないかと思う。

・「空」…◯◯が問題だ(課題の確認)

・「雨」…この問題を解くためには、ここを見極めなければならない(課題の深掘り)

・「傘」…そうだとしたら、こうしよう(結論)

というようにストーリーを組んで、最終的に言いたいこと(ふつうは「傘」の結論)を支える、という形だ。僕らが普通の日常会話で使っているのはほとんどこのロジックだ。

 

心境の変化

 なんだかここ数日の間、いや1、2週間の間かもしれないが、最近自分の中で心境の変化が起こっているのを感じる。それもいい意味で。「心境の変化」というと、はじめのうちは自覚がなくて、だいぶ時間が経ってから「思い返してみればあのとき…」と気が付くものだと思っていたけれども、今回のようにリアルタイムに近い状態でそれに気付く場合もあるらしい。

 特に何か大きな外的変化に直面したというわけではない。職場が変わったわけでもないし、恋人と別れたわけでも、身内に不幸があったわけでも、優れた書物に出会ったというわけでも、旅に出たわけでもない。1ヶ月前の生活と、ここ最近の生活の間で大きく違うところは特にない。それなのに心境は確かに変化し、それに呼応するように私の行動も後から変化した。

 

I→P→O

 インプット(I)があって、それについて内部で処理(P)が行われ、それがアウトプット(O)として外へ出てくる。これはコンピュータの情報処理の基本図式だ。さしあたってこれを参考に、私に起こった心境の変化について考えてみる。

 心境の変化は内部での処理だとすると、それを引き起こすようななんらかのインプットが外から与えられているはずなのだが、そういうものが何も思い当たらない。何があったっけ…。

 アウトプットの方の変化ならいくつか挙げることができる。

  • 自炊をちゃんとするようになったこと。
  • 以前よりも一層感情に流されないでしゃべるようになったこと。
  • 職場での自分の動き方が変わったこと。
  • 頭の中だけで考えずに、必ずアプリにメモを取るようになったこと。(いわゆる「ゼロ秒思考」の実験として)
  • 以前よりも他人に色々なことを気軽に相談できるようになったこと。

 

…と、ざっと思いつくものを挙げただけでも5つの変化が起こっている。これらは自分の心の中での変化に対応した、アウトプットということになるだろう。心境の変化に対応するアウトプットは、どれもよいアウトプットばかりが浮かんでくる。

I→P→Oについて、I→A→Oをもとに考える

 では「これらの変化を引き起こした原因である『インプット』は何なのか」という問題に戻ろう。ここで一つ補助線を引いてみる。意図(I)と行為(A)と結果(O)の対応関係というのがそれだ。先ほどのI→P→Oに倣って、これを「I→A→O」と表現することもできる。

 ここで一つ具体的なケースを考えてみる。電車で席が空き、自分以外の誰もそこに座らないという状況に私はたまに遭遇する。そういう時、私の中では二つの思いが浮かんでくる。

「座れば楽だなあ」・・・(どちらかと言えば)よからぬ意図

「自分が座れば車内の混雑率の軽減に貢献するなあ」・・・よい意図

私がどちらの意図で席に座ったとしても、引き起こされる結果は「車内の混雑率の軽減」だ。もしもその場に優先的に座るべき人物が特にいなければ、これは「よい結果」と言えるだろう。私の意図がどうであれ、それは変わらない。

 よい意図からはよい結果がもたらされ、よからぬ意図からはよからぬ結果がもたらされると考えられがちであるが、必ずしもそうとは限らない。

意図→よい意図+悪い意図

結果→よい結果+悪い結果

と分解して考えると、最大で次の4通りの対応関係が考えられる。

 

①よい意図からよい結果が生まれる場合(英雄パターン)

②よい意図から悪い結果が生まれる場合(悲劇パターン)

③悪い意図からよい結果が生まれる場合(結果オーライパターン)

④悪い意図から悪い結果が生まれる場合(悪人パターン)

 

 上の4つのうち、①が高く評価され、②と③は同等、④が最も低く評価される。が、②と③は①と④に比べるとあまり意識されないでいる。人間を評価するときには基本的には①か④のどちらかに分類されがちであるように思われる。

 ここで「ところで行為(A)はどうなったのか」と思われるかもしれない。意図と結果はよいと悪いに分けることができたが、「行為」というのはそれ自体によいも悪いもない。「よい行為」とか「悪い行為」と呼ばれるものは、厳密に言えば「行為の結果」のことを言っているのであって、行為そのものを指しているわけではない。ある行為がよい結果をもたらせば、「よい行為」と呼ばれるし、逆もしかり。行為は単独では評価されず、その結果と結びついて評価される。

 また行為は、意図と結びつけられることもある。ただしこの場合も最終的には結果の良し悪しが優先される。よかれと思ってやったことなのに、悪い結果をもたらしてしまったというとき、多少の酌量はされても、やはり結果が悪ければ評価は高くない。

 さてこのように、意図と結果は「よいーよい」「悪いー悪い」という風に単純には対応していないことがわかる。*1これをI→P→Oの方に当てはめると、よいインプットがよいアウトプットにつながるとは限らないし、逆もまた然りということになる。

 

とある言い草とI→P→O

 ここで心境の変化をもたらしたインプットは何だったのかという問題に戻る。よいアウトプットが必ずしもよいインプットに対応しているとは限らないのだとしたら、今回の心境の変化をもたらした原因も、よいものだったとは限らない。もしかしたら何かに悩んでいるうちに、結果としてはよいアウトプットにつながったということかもしれない。「人は悩み苦しんで成長する」とはよく聞くけれども、あれは満更でもないということなのか。これはI→P→Oのフレームワークに当てはめると、

I:悩みの原因となるよからぬこと(マイナス)

P:悩み苦しむこと(マイナス→プラス)

O:成長(プラス)

という風に振り分けることができる。これはさきほど考えたI→A→Oの分類で言えば③の結果オーライパターンということになる。今回私が経験した心境の変化もこのパターンなのかどうかはわからない。インプットがマイナスなのかプラスなのかがわからないからだ。

 そこで今度は、インプットの性質がよいものであれ悪いものであれ、それがわかっていなくても結果の良し悪しを別の方法で予測することは可能かという問題が立つ。

…たかだか一つの心境の変化に対して、こんな「フレームワーク」だの何だのと小難しいことを持ち出すのはどうかしていると思われるかもしれないが、考えを整理するのにはいくらか役に立った。

*1:そうだとしたら、因果律を厳密に信じるなら結果に対応する「真の原因」は何かということを考えたくなる。だがこれはまた別の機会に譲る