簡潔な表現について
ある事柄について、その本質だけを簡潔な言葉で無駄なく表現できる人間というのがいる。滅多に目にすることはないけれども、たまに見かけることがあって、感心させられる。そういう人物どうしであれば、たとえば140字の字数制限のあるTwitter上でも齟齬なくやりとりを続けることができるのかもしれないが、たいていはそういうわけにはいかず、仮に一方がそういう頭のよい人間であるとしても、他方のおつむがよろしくなくて、変な言いがかり→無駄な議論→無駄な妥協or譲歩で事態は収束という展開になっていることが多い。私がフォローしているごく少数の人々の間でもそういう状況に陥っていることはある。
私自身も、本質だけを簡潔に述べられるように気をつけていて、そういうことの訓練としてTwitterを使っている面もあるのだが、なかなかうまくいかなくて、変な誤解や軋轢を生んでしまうだけという結果になる場合も少なくない。これでは損だと思うこともこれまでに何度もあった。
簡潔な表現ができる能力が今の私にはないのだとしても、こうしてブログで文章を書き続けているうちに、次第に自分の頭の中が整理されていって、重要なことや必要なことだけを簡潔に表現出来るようになればいいなあと思っている。
少し前から「ゼロ秒思考」*1というのを実践し続けている。マッキンゼーの赤羽さんという方が書いた本がもとで知ったものだ。A4の紙に自分の考えていることを箇条書きでどんどん書いていくというシンプルなものだが、これがなかなか効果があって、続けているうちにある問題について何が焦点になっているのかということを見抜きやすくなったような実感がある。今でもこれは続けている。私の場合は紙に書くのが面倒なので、メモのアプリを使っている。
簡潔な表現というのは、「抽象的な表現」といってもいい。E(エネルギー)がc(光速)の二乗とm(質量)の積に等しいという等式があるとして、これはきわめて簡潔な表現だが、その意味を正しく理解するにはある程度の素養と知識が必要になる。それらは「文脈」と言い換えてもいい。ある二者の間でやりとりがかみ合っておらず、問題となっている命題それ自体は正しいものであるとすると、少なくとも両者のどちらかが文脈を正しく理解できていないということになる。
私が誰かとやりとりをしていて噛み合わないとき、
①相手がこちらの意図を正しく理解してくれていないからだと考えるべきか
②それとも私の言い方がまずいせいだと考えるべきか
③その両方
④どちらでもない
の4通りの可能性を考えたときに、それはケースバイケースで判断すればいいが、「問題を起こさないために、あるいは問題にうまく対処するために私にできることは何か」という視点で考えた場合には、私はつねに自分の表現に気をつけるべきだということになる。
引き続きこの場で表現力を洗練させる努力を続けていきたい。
*1:
マンガでわかる! マッキンゼー式ロジカルシンキング (まんがでわかるシリーズ)
- 作者: 赤羽雄二,大舞キリコ,星井博文
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