読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文体という建築、或いは文体という迷路

   ここ一週間くらいの間、早稲田大の高橋順一さんが吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の内容を解説する動画*1を見ている。とても面白く、考えさせられることが多い。そして自分はまだ原典を読んだことはないので、書店で文庫版を探している。日曜に新宿の紀伊国屋書店を探してみるかな…。

 吉本の議論によれば、自分の内面を表すもの(自己表出)とあるものをどう呼ぶか(指示表出)の両方がそれぞれどの程度の水準にあるかによって、ある言語の表現の限界が決まってくるという。

 いわゆる「ボキャブラリー」は、何をどう呼ぶかということを指示する指示表出に過ぎない。隔靴掻痒という言葉を覚えても、それを適切なときに使えなければ表現の幅は広がらない。だからいくら辞書の言葉をたくさん覚えたところで、人間は誰もが作家になれるわけではない。しかしその一方で、自分が感じたことや考えていることを表現するのに、適切な言葉をもっていなければ、いくら内面世界が豊かであっても、それはそれでよい作品として結実させることはできない。せいぜいが「あの人は独特の世界観を持ってるよね」とか「オリジナリティがあるよね」ということにしかならない。そんな言葉は賛美でなく、ただの気休めでしかない。ボキャブラリーと内面世界の両者のバランスをとり、色々な言葉を知っていながら、それでいてそれぞれの言葉を自分が表現したいと思っている内容とうまく結びつけて表現できる、そういう能力に長けたものが優れた作家や詩人になれるのだろうと思う。

  そういうことに触発されて、私自身の文章はどうなのだろうと考えることになった。指示表出や自己表出にとらわれず、どんな形式、どんな語彙、どんな構成、どんなテンポで私の文章は進んでいくのか、そういうことについて考え直してみた。

 私が経験したことは極めて限られている。おそらく人並み以下の経験しかしていないのではないかとよく思う。誰かと会って一緒に何かをすることは少なく、友達も少ない。そういう人間が経験することは大抵人間でない何かに関することばかりになる。一人で電柱を見ていたり、一人で自転車であちこちへ行き、その途中で色々な道を通り、風を感じ、匂いをかぎ、或いは部屋でひとりでもの物思いにふける。私の経験の中には、他人が経験したことのないようなものも含まれているが、それが通奏低音のように私の書く文章に影響を及ぼしているとか、何らかの肥やしになっているという実感はない。私の経験は、そこに他者が登場しないことが多いという意味でごく個人的なものが多いが、そういう経験をむしろ積極的に文章の中に盛り込み、それを起点に論理を展開していくというスタイルを私はもっている。

 また私が文章を書くとき、いつも念頭に置いていることがある。一見何の関係もなさそうに思える複数の出来事や概念を、ある一つの点から見ることで結びつけ、その深い関係を示すということだ。ある点からできるだけ遠いところにある別の点を選んで、実は見方を変えるとその二つの点がすぐ近くにあったと示せるかどうか、そういうことを意識しながら文章を書いている。それは私が何を「面白い」と思うかという感覚と深く結びついているのだろうと思う。せっかく書くからには面白いものを書きたいと思うのだ。

 ちなみに、先ほど「通奏低音」と書いたが、私が文章を書くときの態度に通奏低音があるとすれば、迷路と建築の2つではないかと思う。私が書く迷路は紙の左上に作ったスタートから始まる。そこから定規を使って線を引き、一ミリのズレも許さずに几帳面に道を作り、それらを分岐させ、合流させ、交差させ、紙の右下にゴールができる。一度紙全体を道が埋め尽くしたら、そこから第二ラウンドが始まる。すでに作った道のいくつかを通行止めにして、一度こっちに入ったら全体にゴールには行けないというような領域を作っていく。そしてゴールへ至る道は必ず一通りになるように気を配りつつ、その道はできるだけ気づきにくいようにする。そこで私は自分の心の中で他者に出会う。つまりこの人だったらどういう道に気がつきにくいだろう、あの人だったらどうすれば迷いやすくなるだろう、或いはあの人だったら…。そんな風に誰かのことを思い浮かべながら、迷路という作品を作っていく。そのときの感覚というのは今自分が文章を書いているときの気分の深いところに残っているんじゃないかと思う。

 また建築は、実際に建築物を建てたとか、特定の建築家が好きだとか、或いは有名な建築物を見に行ったりということはないのだが、頭の中にイメージとして建築物がある。その建築物というのは、まあいわばフィクションとしての建築であって、自分の理想の家についてのイメージなのかもしれない。そのイメージは、私が書く文章をひとつの建築として捉え、構成する際に影響しているのではないかと思うことがある。

 そういう2つの通奏低音があるとして、私の文章は2つの遠く隔たった2点をつなぐように進んでいく。だからAと書いて、それから遠く隔たったBを書く。この二つは初めのうちはどう結びつくのかわからない。しかし文章を読み進めるうちに、「ああ〜、そうつながるわけか」とわかるときがくる。そういう風にして私の文章は展開されていることが多い。

 もう少し別の構成、別の迷路、別の建築を生み出せないかということを考えてみようかな。