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好きということ

 誰かが誰かを好きになるとき、相手のどこが好きになったのか、わかる場合とわからない場合がある。「わかる」というのは「相手のどこを好きになったのか」と聞かれて答えられる、くらいの意味だ。

 

 それに対して、相手をずっと好きでいることは、「わからない」ということが肝心なのかもしれない。つまり、相手のどこが好きなのかがわかるといって、「ここが好き」「あそこが好き」と答えられたとしても、おそらくそれでは相手が好きであるということを本当には表現できていないのだろうと思う。

 

 相手のどこか特定の特徴、背が高いとか、優しいとか、声がいいとか、そういう量で表せるような特徴は、もっと上がいるし下もいる、比べることができるものだ。そしてひとたび相手の特徴をそんな風に量でとらえたとしたら、仮に自分が出会うことはないとしても、世界のどこかに、目の前の相手よりもその特徴において勝る人が見つかるだろう。たまたま出会わなかったから、或いは過去の人だったから、自分にとってそれは問題ではないというのは、ナンセンスだ。

 

 本当は、相手の個々の特徴などは問題ではなくて、その人そのものが好きであるかどうかだけが問題なのだと思う。その人の個別性、他と比べられないこと、それがはっきりわかっていて、そこに関心を持ち続けるということが、「好き」ということの意味なんだろう。

 

 その相手は一人しかいなくて、もちろん考えていけば特徴は色々見つかるけれど、他の誰とも比べることができない。そして比べることができないことを心の底から納得できたら、ちゃんとその相手を好きでいることができるんだろう。

 

そういう風に考えていくと、もし誰かから「あの人のどこが好きなのか」と聞かれて、「〜なところ」と答えた瞬間にその「好き」というのは嘘になってしまう、そういうものなのではないか。「相手そのものが好き」と言う以外に、相手の個別性、かけがえのなさを愛することを表す言い方を、私は思いつくことができない。

 

 あらゆる人が、自分を通して相手を見ている。自分以外の誰かを好きになったその瞬間に、その人は自分ではない、他者であることをまず思い知る。そして他者が他者である限り、自分を通して他者を完全に理解することができる保証は、本当はどこにもない。そのことに気がつくと、いつもどこかに不安が残り続ける。私は本当に、目の前にいる人間の、他の他者とは比べることのできない何かがちゃんと見えているかどうか。そのことを自分以外の誰かが保証してくれるなんてことはないし、仮にあったとしても、その保証にしがみついた瞬間に、私はもはや相手に向き合うということを少なからず手放してしまっている。

 

こうした考えは、好きであるということについてあまりにも厳しいだろうか。あるいは潔癖であるに過ぎないだろうか。

 

 文学は個別性を相手にする。それは比べることのできないものであって、どこまでいっても質の問題になる。顔や体や性格を比べて点数をつけたとしても、それである人の個別性が表現できたわけではない。他と異なっていてひとつしかないものを指して「個別性」と呼ぶのだから、本来それは比べられるはずのないものだ。文学の世界の中で、好きということを表そうとするとき、いったいどんな風に表現すればいいのか。そこにどれくらいの表現の可能性があるのか。好きであるということを表すために、「相手そのものが好き」という以外の表し方で表せる文学を、考えたくなる。

 

 表現の仕方が一通りしかないと思えるようなものについて、別の、しかも元の表現よりよい表現があるという可能性を追求することで、初めて世界が開けてくる文学、そういう文学が気になる。