こころの隙間に入り込んでいくもの

 「考えずにお手軽にインストールすること」の根本的な問題について考えたことを書こうと思う。 

 

 福岡にいた頃には、新興宗教や詐欺の勧誘を経験することがなかった。しかし東京に出てきて以降、そういう勧誘を何度か経験した。ときにはかなり危ないところまでいってしまったこともあった。そういう経験を繰り返すうちに、もともと疑り深かった性質はさらに強まり、「ここは本当に正しいか?」とか「そうだとしてもここではどうか?」「この前提はそもそも妥当だと言えるのか?」など、あれこれと頭の中でチェックリストのようなものを即興的に作り出しては片っ端から確かめていくという、そういうある種の思考習慣のようなものができた。一言で言えばますます注意深くなった。

 

 そしてそういう経験を通して、或いはそういう経験をしていた当時、自分と同様にその場にいた周りの人たちを観察していて、自分が漠然と感じていたことがあった。時間が経ち、そういう喧騒からも距離を置いて、静かになり、一人になって、あれこれと振り返り、ようやく自分の中でその「漠然と感じていたこと」の正体が見えてきた。だからそれについて書いてみようと思う。

 

 それは、心に隙間がある人には、良いものも悪いものも入り込む可能性があって、もし本人に考える力や習慣がなければ、何が入り込んでも結局はその人の根源的な不安をなくすことができないということだ。そして新興宗教や詐欺なども主にそういう「心の隙間」に入り込み、本人の主体的な判断力を奪い、インストールが完了した頃には、本人はそのドグマにどっぷりと浸かってしまっている。そこからは抜け出せないほどに深く深くはまり込んでしまっている。「はまり込む」ときには、たとえ良いことにはまり込んでいるときであれ、「はまり込んでいる自分自身」を外側から(メタの立場から)見られなくなってしまう。何かにはまり込んでいるその時には、それが良いとか悪いというのは、もしかしたら脳にとって区別が存在しないのかもしれない。そして悪いものにはまり込んでいるとしたら、これは本当に厄介だ。隙間に入り込んできたものは、コンクリートのように固まってしまって、もはや簡単には取り除くことができなくなってしまう。

 

 詐欺は悪だけれども、新興宗教については、必ずしも悪だと決めつけるつもりはない。しかし、それを人が信じ始めるときには、徹底的に知識を集め、自分の頭を使って徹底的に考えるという手続きを経ずに、相手の説明に納得し、信じ始めるということがとても多い。宗教の内容云々が問題というよりは、むしろそこが問題だと考えたい。

 

 自分自身を振り返ってみて、これまでの人生の中で、自分の心の支えとなるような道徳的ななにか、確固たる土台、そういうものを教わったという経験はなかったように思う。いや、厳密に言えばないとも言い切れない。しかし、少なくとも相手が「教えよう」と意識して教えているときに、自分がそこから「学んだ」と感じたことはなかった、という方がたぶん正確な書き方なのだろう。学校の道徳の時間もそれほど楽しく感じはしなかったし、各科目の授業でも自分の「核」になるもの、或いは琴線に触れるものを感じたことはなかった。

 

 つまり、自分の心の支えになるもの、あるいはその材料は、自分以外の誰かから与えられるものではなくて、自分の力で見つけたもの、自分の頭で考えて理解し納得したこと、そういうものばかりだった。

 

 人によっては、自分以外の誰かから心の支えになるものを与えられたという人もいるかもしれない。例えばそれは家族や友人、恋人との関係の中で得た場合もあるのだろう。自分の場合も、そういう人々との交わりの中で得たものはいろいろある。けれども「得た」といっても、厳密に言えば、交わりの中で初めは他人から与えられ、或いは気付かされたことであっても、その後に時間をとって自分で考え、そして納得しなければ、結局は自分の実になったとは感じなかった。

 

 自分の頭で納得しなければ、どんな経験も、確固たる主体を形成しない。そして現代人には、そういう「確固たる土台」を感じにくい状況があるのかもしれない。特に日本では宗教が忌避されがちで、そうかといって、代わりに哲学、思想…という風潮もない。そしてそういうところに、自分の頭で考えることなしにインストールが可能な、キャッチーな、或いはエモーショナルな商品たちがぞろぞろと、次から次へとやってきて、人々を恍惚とさせる。

 

 そういうものは、一時的には自分の不安や悩みを見えなくさせてくれるかもしれないが、根本から消し去るというほどではない。根本から消し去るには、結局自分以外の誰かではなく、自分自身でそれに向き合い、頭を使って精一杯考えるしかないのだろう。そういうときに「考える」とは「悩む」と表現される。つまり「悩む」というのは、あらゆる「考える」のうち、自分自身に関わることについて考える場合を言うのだろうと思う。だから方程式の答えについては「考える」と言えても「悩む」とは言えない。しかし「就職する企業をどれにするか考える」という場合には、「就職する企業をどれにするか悩む」と言っても問題はない。

 

 不安は悩みを促すのだろうけれど、人は悩むことに耐性がない。それでも、悩むことは、結局とことん悩みきることによってしか解決しないのだとしたら、何か別のものによってそれを隠してしまったところで消えたりはしないでちゃんとそこに存在し続けるのだろう。

 

 中身が片付いていない押入れの戸を閉めたところで、押入れの中身はひとりでに片付いたりはしない。いずれ、いつか必ず、戸を自分の手で開けて、片付けなければならないときがくる。それが「悩む」ということなんだろうと思う。これは悩むことを回避してみんなで決めること(政治)の答えをなんとなくで出してしまう、あの「空気」とか「世間」と呼ばれているものとも関わってくる。「世間の空気を読むこと」と、「一般意志について個々人が考えること」は大きく異なる。前者は考えるというよりは「察知する」とか「反応する」というようなレベルに近いのに対して、後者は各人の主体的な思考を前提とする。この辺はまたこれで別の機会に書こうと思う。

 

 自分の頭で考えるということ、主体的に向き合うということを抜きにして、他者の考えをインストールしたとしても、それは根本的な解決にはならない。「この人の考えが正解だ!これで解決した!」と本人が心の底から信じていたとしても、自分の頭で点検することなくしてはやっぱり解決ではないのだと思う。そしてそういう場合が少なくないことがまた問題だったりする。そしてしばしばそういうものが「洗脳」と呼ばれる。いや、呼ばれないからこそ厄介だというべきか。

 

 心の隙間に何かが入り込んでくるときに、入り込んでくるものに主体的に向き合うということを抜きにして、心の隙間は本当の意味で埋まることはない。