メディアは知性を評価できるか

 知性の優れた人が、「優れた人」であることを示すには、わかりやすい「目印」がなければならない。それは例えばノーベル賞であったりする。そのような目印がなければ、いや、本当は目印があったとしても、人はその人の知性に気付かず、したがってそれを評価したりすることもほとんどできない。歴史上、「権威(authority)」の正体が知性であることはほとんど例がなかったのはこのためだろう。権威の正体になりうるものは、もっと目に見えやすい、わかりやすいもの、或いはわからないが故にかえってすごいと錯覚されるものばかりだった。パスカル風に言えばそれは正義でなく、「力」だった。

 

少し引用しよう。

二九八

 正義、力。

 正しいものに従うのは、正しいからであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。

 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。

 力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。

 正義は議論の種になる。力は非常にはっきりしていて、議論無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。

 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

 

パスカル『パンセ』(中公文庫)第5章 正義と現象の理由(200ページ)より

 

 
 さて、「テレビが残るかどうか」について色んな議論がある。今やYouTubeやUstremなども、テレビが担っている機能を担うようになってきて、それらも含めて「広い意味でのテレビ」という風に考えるならば、小保方さんの研究が初めからすごいか否か判断できない社会である限りは、私たちの社会においてこの「広い意味でのテレビ」は残り続けるだろうと私は思う。

 

 小保方さんのことについて、「何がすごいのか」(彼女の研究内容の本質)についてはわからないのに、メディアを通して「名前」(彼女の名は小保方晴子STAP細胞を作っている。すごい!)だけが広まった。そして「なんだ、色々あったけど結局すごくないんじゃないか。」ということになっている。

 

 この一連の流れは、「メディア」というものの本質を示している、と私は思う。つまり、メディアが「知性を評価すること」に寄与しないならば、そのメディアによって知性に関する、或いはしばしば知性とは無関係なことがらについての、「誤った理解」だけが広まる、という結果をもたらす。

 

 メディアが「権威の維持や拡大」に利用される「ある種の装置」であるとき、そして実際にはそうである場合が常であって、「知性」という目に見えにくいものがメディアを通じて正しく理解されるようになる日が訪れないのだ、とすれば、果たして「正しい政治」というものを期待できるだろうか。私は無理だろうと思う。もちろんそれは政治家を非難していても解決する問題ではない。なぜなら政治家を評価するためには、評価するための基準が共有されなければならないが、メディアがそれに寄与しないからである。大規模な集団が、メディアというものを抜きにして、何かを共有することは不可能である。