美容院を変える客と囚人のジレンマ

 もう一年以上前のことになるが、私が使っている美容院でスタイリストの方と話したことを書こうと思う。ちょうど今日、久々にその店でまた髪を切ったのだが、別のスタイリストの方とこの話をして、以前より話の筋がまとまったので、文章にすることができるだろう。

 美容院側は、客がどうして美容院を変えたのかを知ることができない。それを知ることができれば、客が離れないようになんらかの手を打てるかもしれない。客からの意見なり感想なりのフィードバックがあるかないかは、美容院側の対応の効率と質を大きく左右するが、各美容院は囚人のジレンマと同じ状況に直面しており、そのせいで必要な情報を得ることができないでいるのではないか。

 どういうことか、具体的なケースを想定してみる。二つの美容院Aと美容院Bがあり、ある客Xが美容院Aから美容院Bに変えたとき、美容院AのスタイリストたちはXが美容院Bに変えた理由を知ることができない。一方Bの方は、新規でやってきたXに対して、アンケートなどの手段を通して自分の美容院へ来た理由を聞くことができる。その理由を分析すれば、客が元の美容院を変えた理由がわかるかもしれない。しかし、美容院Bが競合相手である美容院Aとその情報を共有するインセンティブは存在しない。あえて教科書的にいえば、一般に市場経済では、競争を通じてよりよい企業が生き残るとされる。そこでは自企業の情報を他企業に教える企業など存在しない。競争上不利になるからだ。美容院Aと美容院Bが逆の場合でも同じことで、やはり競争という条件が他企業との情報の共有を妨げる。

 ところが、実は二つの美容院Aと美容院Bは、それぞれ新規の客に対するアンケートの情報を互いに共有することによって、どちらもよりよいサービスを提供できる可能性が高まる。ゲーム理論に沿っていえば、相手を出し抜こうとするよりも協力した方が合理的であるとわかっていても、相手が裏切った場合のことを考えてしまって協力できないでいる。典型的な囚人のジレンマの状況である。

 データベースを作り、店舗の垣根を超えてそれを共有すれば、何もしない場合よりも全ての美容院にとってプラスになるが、競争しているのだからそんなことできないとでもいうかのように、情報の共有は発生しない。だから店を変えた客がどうしてそうしたのかを示す情報のフィードバックは生まれないままだ。

 今日話したスタイリストの話では、ある美容院では店を離れた客に返信用の封筒も添えてハガキを送り、どうして店を変えたのかを教えてもらうよう促しているらしいのだが、1000通送って返ってくるのはほんの数通という程度らしい。10通で1%だから返信率は1%未満ということになる。これでは母数が少なすぎるし、サンプリングバイアス*1の可能性も否定できないため、統計的にも役に立たない。それならばまだデータベースの共有の方が確実だと思うのだが、現実にはそういうことは起こらないのだろう。なんとももったいない話である。

 もしも囚人のジレンマが当てはまるならば、対処法はもう決まっている。「抜け駆けなど考えず互いに協力するのがベスト」である。現実に協力が生まれないのは、当事者たちが自分の置かれている状況が囚人のジレンマだと気付いていないからなのか、それとも気付いてはいても協力を阻む要因があるということなのか判断がつかないが、少し希望が持てることはスタイリストの方から聞いた。なんでも昔に比べて美容師たちの店舗を超えた交流が活発化しているらしい。こういう交流を通じて客が美容院を変えた理由についてもお互いに理解が深まることがあればと思う。

*1:この例の場合、わざわざ返事のハガキを送ってくれる客というのはあらゆるタイプの客とはいえず、特定のタイプの客に偏っている可能性があるということになる。

ルールの役割について

 

 論理学はほんの少しかじった程度だが、それでも論理学は私にとって大いに役に立つ。あることについて考えるばあいに、間違った考え方をするのを避けられるからだ。近頃の私は、個別と一般の関係について考えることが多い。おそらくは家で過ごすことが多く、外に出て特定の問題にかかずらうことがほとんどないために、こういう抽象的なことを考えがちになってしまうのだろう。今回はルールの役割について、論理学における全称記号(∀)と存在記号(∃)の区別に基づいて考えようと思う。本題に入る前に、まずは全称記号と存在記号の区別から始める。

「一概にA」という言い方

 「一概にAだ」といえないことに対して、無理にそうだと決めつけるのは筋が悪い。けれども人はしばしば、この種の誤りを犯す。「XはA」と考えるか「XにはAであるものもあれば、Aでないものもある」と考えるかは大きく異なる。私がこの問題について考えさせられた最初の例は、「逆もまた真」という言葉だった。論理学によれば、あるいはそんなに大げさなことでなく高校の数Aによれば、ある命題が真であるとき、「対偶もまた真」は常に成り立つが、「逆もまた真」は常に成り立つわけではない。真か偽かはケースバイケースで決まる。しかし「逆もまた真」という言葉を、どんな場合にも成り立つ原則ででもあるかのように使っているのを時折目にする。単なる私の思い違いかもしれないが、もしもそうでないとしたら、これは一概にAとはいえないことを一概にAと考えるという過ちを犯している例といえる。

ケース1:長財布と知性

 具体例を二つ挙げよう。一つ目は「長財布で改札を通る人間は、まず間違いなく頭が悪い」について*1。このままでは論理学の枠組みで扱いにくいので、意味が変わらないように注意しながら「ある人間が改札を通るときに長財布で通るならば、その人間は頭が悪い」という言い方に変える。これを命題Pとすると、対偶は「ある人間が頭がいいならば、その人間は改札を通るときに長財布で通らない」となり、命題Pが真ならば対偶も常に真である。今度は命題Pの逆を考えると「ある人間が頭が悪いならば、その人間は改札を通るときに長財布で通る」となる。命題Pが真であるとしても、逆が常に真とは限らない。この場合、長財布で改札を通らない人間の中にも、頭の悪い人間がいるからだ。これが反例になる。

ケース2:秦王朝と官僚制

 一つ目の例はそもそも真かどうかが怪しい命題だったので、二つ目は明らかに真だといえるものを扱う。「世界で初めて官僚制を採用した国は、中国の秦王朝である」について。これも言い換えると「ある国が世界で初めて官僚制を採用した国であるならば、その国は中国の秦王朝であるといえる」となる。これを命題Qとする。これは確認できる歴史的事実であって、真である。対偶は「ある国が中国の秦王朝でないならば、その国は世界で初めて官僚制を採用した国とはいえない」であり、これも真である。逆は「ある国が中国の秦王朝であるならば、その国は世界で初めて官僚制を採用した国であるといえる」であり、この場合逆もまた真といえる。すでに述べたように、「逆もまた真」というのは、成り立つ場合もあれば成り立たない場合もあり、ケースバイケースである。

全称記号と存在記号

 冒頭で全称記号と存在記号についてと書いた割に、今のところどちらも登場していないが、下準備としてこれに関係することについてはすでに述べたので、以下でこの二つの記号について述べようと思う。

全称記号について

 全称記号とは「任意のXについて」という言い方で表現できることがらを記号で表すもので、「∀X」と表す。たとえば「任意の個人について、その個人はDNAによって髪や皮膚、目の色などの遺伝的特徴が表現されている」のように使う。全称記号とはその言葉の通り、全てのことがらに対して当てはまるような性質を述べるときに使う。「任意のXについて」は「全てのXについて」と言い換えて差し支えない。英語で考えた方がわかりやすければ、「for any X」とか「for all X」と表現できる。

存在記号について

 一方で存在記号とは「あるXについて」という言い方で表現できることがらを記号で表すもので「∃X」と表す。たとえば「ある個人について、その個人は日曜になると後ろ向きにしか歩かない」のように使う。全称記号に対して存在記号は、存在という言葉の通り、全てそうだというわけではないが、中にはこういうものもあるというようなものについての性質を述べるときに使う。こちらも英語で考えれば「for some X」と表現できる。

「一概にA」の話とどうつながるのか

 「一概にA」の話とこれらの二つの記号がどうつながるか、察しのいい読者や論理学に明るい読者などはすでに気付いたかもしれない。つまり、「一概にX」といえるものは全称記号を使って表現でき、「一概にX」とは言い切れないものは存在記号を使って表現することになる。冒頭で取り上げた「逆もまた真」という表現はどうかといえば、これは一概にそうとはいえないので、「ある命題については、逆もまた真である」とはいえるが「任意の命題について、逆もまた真である」とはいえない。∀ではなく∃を使うべきである。

 私は冒頭で「個別と一般の関係について考えることが多い」と述べたが、それについてここまでの話を踏まえていえば、「一概にA」と言えることや全称記号で表現されることは一般的に考えてよいこと、それに対して存在記号で表現されることは個別に考えるべきことであるといえる。個性があるものは、個別に考えるべきものであると考えられるが、人は一般に、ある問題について個別に分割して考えることが面倒であるために、本来は個別に考えるべきものでもひとくくりにして一般的に考えてしまう。そういう「手抜き」が偏見*2の生まれる原因のひとつであることは明らかである。目の前にいる人間が女性であると、その人個人を見ることなく「女性なんてどうせ◯◯」とか「これだから女は…」などと考える方が楽なのだ。個性と向き合うのは簡単でない。そして個性について本当に理解するためには、一般性についても理解しなければならない。けれども人間は一般に、ものを考えることを厭う存在であるなら、人間の判断は存在記号よりも全称記号を使って表現される方へ偏りやすくなる。人間には一般にそういうバイアスがあるのではないか。世の中に存在する、ありとあらゆることについての判断に対して全称記号と存在記号を割り当てていくと、おそらくは全称記号で表現されているものの中には、本来なら存在記号を使って表現されるべきものがかなり混じっているのではないか。

ルールの存在意義について

 ここまでは原則めいた話ばかりしてきたが、どうして私が全称記号と存在記号の区別などについてこのように真面目に考えているのかというと、それは私が以前から関心のあることがら、つまり法律やマニュアル、条例など、一般に「ルール」と呼ばれるものが存在する意義について考えるときに、この区別が重要な意味をもつと考えるからだ。どういうことか。それについて考える前に、まずはルールというものを分類することから始める。

 ルールには大まかにいって二つの種類があるといえる。一つはケースバイケースでの判断のコストを削減するという効率の観点から説明できるもの、そしてもう一つは、原則的に禁じられるべきという道徳の観点から説明できるものである。別の言い方をするならば、「そうした方がよいからそうする」(better)なのか「そうすべきだからそうする」(should)なのかの違いともいえる。冒頭から「一概にA」とか全称記号と存在記号の区別などの下準備を通して私が主に考えてきたのは、もちろん前者のルールについてである。以下ではこの二つの種類について、それぞれ例を挙げて説明を試みる。

効率の観点から説明がつくもの

 私は以前に、責任と意思の関係について扱った記事*3の中で、法律の存在意義について少しだけ触れたことがある。本題とは直接関わらないことがらだったので、その記事では簡単に触れるに留めたが、この記事ではルールの意味ということについて考えてみようと思う。その記事の中でもすでに触れたように、私はルールの存在意義は、ケースバイケースで個人が判断するコストを減らすことにあると考えている。信号の例がわかりやすいと思うので、信号の例を使って考える。

赤信号で渡ってはいけないということ

 「赤信号で横断歩道を渡ってはいけない」というのは、幼稚園児でもわかることだ。けれども赤信号を無視して横断歩道を渡る大人は今でも存在し続けている。私自身も、おそらくは保育園にいた頃にはすでに赤信号で横断歩道を渡ってはいけないということはわかっていたが、大人になった今でも、私は時として赤信号でも横断歩道を渡っている。そしてこれは私個人に限ったことでもなく、日本人に限ったことでもなく、アメリカやヨーロッパ、アジアでも見られることであるから、国や宗教、あるいは文化の違いとも関係なく起こる現象といっていいだろう。赤信号を渡ってはいけないというルールは確かに存在し、それは広く知られているのに、それを破る人間が後を絶たないという事実は、いったいどうすれば説明がつくのか。

 それは、「赤信号で横断歩道を渡っていいかどうか」ということは、本来はケースバイケースで判断すればいいことであるが、各個人にケースバイケースで判断してもらうよりも、一律に禁止しておいた方が事故を防ぐには効果的だと考えられるからではないかと私は考えている。赤信号ならいかなる場合であっても横断歩道を渡ってはいけないということを道徳的に根拠づけることなど、本当はできない。ときどき無理して道徳的に許されないという方向に話を進めようとしている人間を目にするが、側から見ていると無理を感じる。本人も本当は無理だと感じながら、それでも他の説明が思いつかなくてしかたなくそうしているのかもしれない。しかし端的に言って、苦し紛れの感が否めない。

 本当は、赤信号であっても横断歩道を渡って問題ないケースというのが存在する。全称記号と存在記号の区別に絡めていえば、赤信号のルールというのは本来は存在記号(∃)で説明されるべきものを全称記号(∀)に置き換えることによってルールが成立している例であるといえる。つまり、ある場合には赤信号でも渡ってよく、別のある場合には赤信号で渡ってはいけないという代わりに、すべての場合について、赤信号で渡ってはいけないと定めるのである。

 明らかに周りで車が走っていない場合に、赤信号を渡ることにどんな問題があるというのか。ここで「赤信号を渡ってはいけないということが法律で決まっているから」という答えは適切でない。それは「ダメなものはダメ」という単なるトートロジーにすぎない。トートロジーでもいいではないかと考える人間ならばそれでもいいのかもしれないが、あいにく私はその手のタイプではない。横断歩道を渡るときに、周囲の状況を確認して、渡っても問題ないと判断できる場合なら、渡ってもかまわないと私は考える。とはいえ私も、交番の目の前の横断歩道なら、たとえ車が全く走っていなくても赤信号で渡らないが、本当は交番の目の前でも渡ってかまわないはずだと心の中では思っている。警官が立っているからダメというのは筋が通らない。警官の目の届くところでは、法律で定められていることが常に守られていなければならないというのも、よくよく考えれば怪しい理屈だと思う。私が交番の前ではどんなに車がなくても赤信号で渡らないのは、警官に注意を受けるのが面倒だと考えるからにすぎない。つまりこれも時間や手間を省くという意味で、ある種の効率化にすぎない。

 赤信号で横断歩道を渡ることは、本来は一概に禁じられるものではないが、あえて一概にダメだと決めておくことによって、個々人は判断の手間を省くことができる。先に「存在記号を全称記号に」と書いたのはこのことである。もちろん判断の手間を省くだけなら、赤信号で横断歩道を渡ることを義務付けるのでもよいが、それは結果として望ましくないので、望ましい結果になるように選択肢を一通りに定めるのである。それがルールが存在する意義なのではないか。

スポーツのルールはどうなのか

 他の例として、スポーツのルールを考える。例えばテニスで、サーブは常にクロス(斜め前)に打つことになっている。本当はクロスでなく、ストレートに打っても構わないが、どちらかに決めておいた方が、ゲームが進めやすいのだと思う。もしもクロスとストレートのどちらでもよいと決めてしまうと、サーブだけで点が決まりやすくなり、ゲームは面白くなくなってしまうだろう。それなら常にストレートに打つと決めるのはどうかというと、これでは相手が簡単にサーブを打ち返せてしまい、それはそれで面白くない。クロスに打つと決めることによって、サーブだけで点が決まる場合もあるし、打ち返してラリーが続くこともあるという風にしてゲームの展開に幅が生まれ、面白みが増すのである。これは赤信号の例に比べて、ケースバイケースでの判断がずっと難しくなる例だといえる。いや、難しいどころかそれを認めてしまうと、上に述べたようにゲームが成り立たなくなることすら考えられるため、初めから「一概にクロス」と決めているともいえる。これもまた、存在記号を全称記号に変えている例であるといえる。ある場合にはクロス、別のある場合にはストレートというように決めてはゲームが面白くならないから、全ての場合についてクロスに打つことを定めるのである。

道徳の観点から説明されるもの

 とはいえ、ケースバイケースでなく、常に許されてはならないことというのも確かにある。わかりやすい例は殺人である。情状酌量の余地がある場合もあるとはいえ、殺人は基本的にどんなケースでも許されない。これは効率とは関係なく、道徳によって判断される。そういうものは時代や地域を問わず、本来的に、ルールによって「一概にA」という形で定められる対象になる。これは先に取り上げた効率の観点から説明されるルールとは異なり、原則的に全称記号を使って表現されるほかないものである。殺人の場合、「ある場合には殺人は許されるが、別の場合には許されない」とは表現されず、「すべての場合について、殺人は許されない」としか表現されないのである。

 しかしそうはいっても、殺人と赤信号のケースは、本質が異なると私は考える。赤信号のケースでわかりにくければ、道路の片側通行で考えてもよい。道路のどちら側を走るかは、国によって右か左かにわかれる。それは本質的にはどちらでも構わず、とにかくどちらかに決めておくことによって、とりあえず事故が起こるのを避けられるという効率についての判断を基礎としている。右側通行でなければ許されないということを道徳的に判断することなどできないのである。そして多くの場合、ルールというのは赤信号や道路の片側通行のようなケース、つまり「こういう風に決めておいた方が効率がいいから」という理由で生まれているものが多いのではないか。ルールについて考える場合に、「ルールはルールだから」とか「だめなものはだめ」というようなトートロジーに陥ることなく、まずはルールを分類し、次にそれが効率と道徳のどちらの観点から考えられるべきものかと考えることが重要である。

*1:これは私のこれまでの観察に基づく単なる仮説にすぎない。が、長財布をタッチして改札を通る人間はどうも頭の悪い人間のように見えてしまう。単なる偏見かもしれないが…。

*2:すでに他の記事でも述べたことであるが、念のために述べておくと、ここでいう「偏見」とは厳密にいえば「好ましくない偏見」を指す。

*3:以下の記事における「トートロジーの形式的定義」の項を参照。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

テレビに写ってないときのことなんてどうでもいい

 たまには酒屋の愚痴みたいなことを書いてみようと思う。最近、芸能人や著名人の舞台裏の話、楽屋ネタ、秘話の類がやたらと目立つように感じる。全ての番組を見ている訳でもないので、客観的にみてそういうものがテレビで語られる回数なり時間なりが増えたのかはわからないが、俳優や女優、タレントなどが、撮影の裏でスタッフに差し入れをしているとか、いつも腰が低くて謙虚であるとか、演技のための役作りに熱心だとか、そういうことがオンエアで語られるのをよく目にする。

 私は以前からこの手の話が好きではない。いや、厳密にいえばこの手の話が作品の評価に利用されるのが好きではない。俳優や女優、タレント、お笑い芸人、グラビアアイドル、アイドルなどなんでもいいが、舞台裏で「いいひと」であるかなどどうでもいい。その人間が本番でどうだったか、それが全てだと思う。もしも本番で自分を出し切れなかったならその程度の人間だということだし、そもそもテレビが出し切れるようにできていないとか言論の自由が昔に比べてずっとなくなって、今では出しきるのは難しいなどと思うなら、そもそもテレビに出なければいい。

 どんな形であれ、何かを表現する人間が、自分の表現以外のところで言い訳を始めたらおしまいだ。正々堂々、表現それ自体で戦うべきだ。楽屋でいい人かどうかなど、作品の価値とはなんの関係もない。楽屋でいい人かどうかで作品の価値が決まるのなら、そんな作品に価値などないとすら思う。

 私生活が酷い人間だろうと、作る作品が素晴らしいならそれは表現者として素晴らしいと言っていいし、逆に私生活が折り目正しい人間だろうと、作品がお粗末ならば表現者としてはお粗末としかいえない。そんな単純なことが、どうしてこうも簡単にねじ曲がってしまうのか。どうして私生活に作品自体の評価が引きずられてしまうのか。世間の人間がアホなのか、番組を作る人間がアホなのか、本人がアホなのかわからないが、こういう一切の茶番に、私は近頃なんだかひどくうんざりしている。

対話の条件

 

きっかけと補助線

 対話には、自分と相手の両方が対等に考えを述べられるという条件が必要だ。当たり前といえば当たり前のことであるが、この条件を満たしていないのにさも対話であるかのように扱われているものが多いと感じるので記事を書くことにした。これはもう数年に渡って感じ続けていることでもあり、以前にも別の記事*1で触れたことは何度かある。私が対話の条件を考えるようになったきっかけは、以前に個別指導の塾で働いていたときに、ひと回り歳が下の生徒たちと毎日話した経験と、プラトンをいくつか読んだ経験のふたつが大きいだろうと思う。他にもジリアン・テットの『サイロ・エフェクト』を読んだ経験も影響しているとは思うが、上の二つに比べれば影響は小さいと思う。

 対話の条件について考えるために、2本の補助線を引く。一本は先生と生徒の関係、もう一本は反証可能性である。

先生と生徒の関係

 先生と生徒の関係は、一方が他方に対して納得がいくまで説明できて初めて成り立つ関係だと私は思う。それは歳の差でも、教室の中の位置関係でも、スーツと制服の違いでもない。だから、初めからどちらかが先生のような顔をしているのは、本当はおかしいことなのだと思う。そんなおかしなことが当然のように成り立ち、それがずっと続くうちに、初めから生徒とされた側が自分の頭で考えることをしなくなるのではないか。その関係は、前提ではなく結果として決まるものであると私は思う。個別指導の塾で生徒と話していたとき、私は生徒の話に説得されたことも何度もあった。そのときの私は先生でなく生徒であり、生徒は先生だったのだと思う。そういうことは状況に応じて、あるいは話題に応じて、結果として決まる関係である。小学校から高校までは、先生と生徒の関係を前提と考えている先生が多かったように思う。それに対して大学では、それを結果と考える先生が多かったように思う。両者の違いは、謙虚であるということの意味をどう捉えるかの違いなのかもしれない。

 先生と生徒の関係自体が悪いわけではない。それを前提として対話をすることが悪いのだと思う。対等な立場で対話を進めて、最後にどちらかがどちらかの語ったことに納得したならそれでいい。しかし、納得する前に対話が終わってしまったらどうか。先生と生徒の関係を前提として捉える場合には、しばしばそういう事態が起こる。それでは対話とはいえない。

反証可能性

 ここで少し視点を変えて、対話の条件について考えるために科学の条件について考えてみる。反証可能性(falsifiability)のないものは科学でないとカール・ポパーは述べている。科学において、反証ができるためには自分と相手に共有できることを前提に論を展開することが求められる。そのために温度や速度、位置、電圧などの客観的な量をもとに議論をすることになる。科学であれば客観的な量を使うことが求められるが、反証可能性の条件を客観的な量に限定せず、もう少し一般化すると、反証ができるためには対話が必要であって、反証可能性がなければ科学以前に対話が成り立たないといえる。講義と区別がつかない対話はある意味で宗教と変わらない。聞き手は自分で考えず、ただ語られたことを信じるだけになってしまう。ここで、私は宗教を非難しているわけではないことに注意してほしい。実質的に宗教と変わらないことを、さも宗教とは関係ない科学的な議論であるかのように語ることが問題なのだ。宗教なら宗教とごまかさずに堂々といえばいい。

対話の類型

 対話のスタイルはいくつか考えられるが、ここでは特に専門家と素人の対談、講演会、そして専門家どうしの対談の3つの類型に分けて考える。

専門家と素人の対談

 誰かと誰かが対談する場合、どちらかが専門家でもう片方はただの素人ということがある。これでは対話は成り立たない。これは対話だといくら言ったところで、それは単なる講義にすぎない。なぜなら専門家の側が言ったことに対して、素人の側は反論のしようがないからだ。反論のしようがないときに、相手に勉強不足だと言っても意味がない。それならそもそも対話などせずに、一方的な講義をしていればいい。もしも専門家と素人の間の対談が、反証可能性を欠き、前提としての先生と生徒の関係と同じような関係で行われてしまったなら、それは対話とはいえない。そもそも、専門家と素人という関係は明らかに対等でないから、その関係を前提とするなら両者の間で真の対話は成り立たない。これはすでに述べた通り、先生と生徒の関係を前提として捉えることと同じである。

 また、この類型の対話は、後に取り上げる専門家どうしの対談の類型の一部と通じる部分がある。この点については、その「一部」というのがどういうものかも含めて後に述べる。

講演会

 講演会はどうか。講演のあとで質問を受け付けることによって、講演者と聞き手の間に対話を成り立たせようとしても、そこに双方向性があるとはいえない場合が少なくない。そして双方向性がなければ、そもそも反証可能性などありえない。それは専門家と素人の対談の場合と同様に、ただの講義になってしまう。だからそんな講演は、開かれているようで開かれていない。開かれていること、言い換えればオープンであるということは、公開の場で行われているかが問題なのではなくて、その場にいる人間のあいだでお互いに反証可能性が担保されているかが問題なのだ。講演を聞く者のほとんどは専門家ではないから、質問に対して講演者が専門的に語れば、質問をした者には反証のしようがないから、いつも聞き手が同意して終わることになる。先生と生徒の関係の箇所で述べたように、聞き手が納得するまで対話が続くならいいが、講演会の時間は決まっているし、一人の質問者に与えられた時間にも制約がある。ソクラテスが誰かと対話するとき、対話は相手が納得するまで徹底的に続けられる。対話とはそういうものだ。

 講演会において、ときには専門家でなくても知性が十分にはたらく稀有な人間がいて、講演者を相手に的確な反証をやってのける場合もあるかもしれない。けれどもそんなことが起こるかどうかはやはり偶然であって、対話の前提として初めから反証可能性が担保されているとはいえない。これだけ多くの人間が集まっているなら、一人くらいはそういう知性を備えた人間がいるだろう。だから反証可能性は担保されているなどと考えることは単なる怠慢にすぎない。

専門家どうしの対談

 それでは専門家どうしの対談であればいいのかというと、ここにも落とし穴がある。対談する専門家の専門分野がそれぞれ異なる場合や、対話の中で触れられる専門分野について、どちらも専門外であるといった場合である。こういう場合には、たとえ対談に参加する者がいずれも専門家であったとしても、実質的には一つ目の類型、すなわち専門家と素人の対談と同じ状況に陥る。どちらも専門外であるような分野について専門家どうしが語る後者の場合などは、もはや素人どうしの対談と呼んで差し支えない。それは居酒屋のおしゃべりと変わらない。こういうことはよくあるが、どちらの場合も反証可能性がないから対話にならない。

 ではどうすればいいのかといえば、方法は2つある。いずれの場合でも共通の分野を専門とする人間を対話に参加させるか、専門性を必要としないようなしかたで対話を行うかだ。もしどちらの方法もとらずに上のような条件で対話が行われたとすれば、反証可能性に晒されながら何らかの知がその場で発展していくことは望めない。もちろん細かいことをいえば、その対談なり講演会なりの内容が書籍や動画などの形で記録され、それが多くの人間の耳目に晒されることによって、反証可能性が担保されると考えられなくもないが、実際は対話からある程度時間が立った後で反証を行う人間など少ないので、それで十分とはいえない。対話を対話として成り立たせるためには、対話しているまさにそのときに反証可能性が担保されているということが重要である。

 「形而の上と下」*2の中で、哲学は対話というスタイルをとって行われたということを書いたが、何も哲学に限らず、一般に人と人が共同で何かを知ろうとする営みにおいては、それに参加する人間どうしで反証できるように工夫がこらされなければならない。プラトンの作品の中でソクラテスが誰かと対話をするとき、彼はいつも、相手の知っていることに即して自分の考えを述べるという態度を一貫して持ち続けた。そこには相手に通じない専門用語など存在しない。専門用語を使うことがそれ自体として悪いのではなく、相手が反証できる可能性を奪うようなしかたで専門用語を使うことが悪いのだ。端的にいえば煙に巻くなということだ。

 ソクラテスの対話に限らず、私が塾で生徒と話すときにもそうだった。いかに専門用語を使わずに、専門的な知見を紹介するか。相手が中学生であれ高校生であれ、それは大学という高等教育への橋渡しは、生徒よりもむしろ、私自身にとって意味があったのかもしれない。しばしば言われることであるが、子どもにわかるように説明できなければ、本当に理解しているとはいえないということをしばしば感じた。それに対して、専門的なことは専門用語を使えば簡単に説明できる。それこそが専門用語を作る意義であるが、説明で楽をし続けていると、頭のはたらきが鈍る。

対話の条件と私のこだわり

 とはいえ、対話の条件についての私のこうした考えとうまく噛み合わないままになっている別の考えも私の中にはある。それは固有名詞に対するこだわりである。私が誰かと対話したり、あるいはTwitterで何かをツイートするときにも、固有名詞を使うよう意識している。固有名詞を置き去りにして、ひたすら抽象的な言葉だけを並べ続けると、原理主義に陥るのではないかという危機感を覚えるためである。こうしたこだわりと、対話の条件についてここまで述べてきたこととの間でどうバランスをとるか。私の中での暫定的な結論は、なるべく相手の知っている固有名詞を使うことを心がけ、もしも相手の知らない固有名詞を使った場合には、それについて説明すればよい。その場合、対話の時間は延びることになるが、それはしかたのないことだ。たとえば時間の決まった飲み会などの場では、こういう対話のしかたは実現しにくい。そういうこともあってか、私はずいぶん前から、3人以上の場で話をすることを好まない。

 何かについての自分なりの見解を、固有名詞を使って緻密に構成するのは、対話にはあまり向かない方法であるのかもしれない。それは講義になりやすい。だからそういう構成方法をとる場合には、私は対話でなく、むしろ文章として表現する方を選ぶ。これについても、一般に成り立つ原則とまではいえず、状況によっては固有名詞を使うことが望ましい場合もある。固有名詞を使った方が説得はしやすいということもある。だから、このことについては、私はもう少し考え続けなければならないだろうと思っている。

形而の上と下

 

形而上学と哲学

語源から考える

 形而上学と哲学は、しばしば実質的に同じものとして扱われる。普段の生活の中で、両者の違いを意識することはまずないかもしれない。形而上学というのは、形而の上でものを考えることである。ところが「形而」なんて言葉は日常生活ではほとんど使わない*1ので、この訳語のもととなった英語に遡って考えることにすると次のようになる。

metaphysics(形而上学)はphysics(物理学)に対してmeta(上)の立場でものを考えることである。

 哲学 (philosophy) についても、その語源となった古典ギリシア語に遡れば、philosをsophosすること、つまり知を愛することが哲学であるといえる。その意味では、形而上学的であるが哲学的ではないというようなしかたでものを考えることも可能だ。つまり物理に対してメタな立場に立ちながら、それでいて知を愛しているわけではないというような立場*2に立ってものを考えるということが可能だ。

 私はといえば、先ほどの例とはむしろ反対に、知を愛しているといって差し支えないけれども、形而上学的 (metaphisical) に考えることができているかと言われれば必ずしもそうだとは思わない。何故かといえば、私は形而下に、つまり物理に基づいてものを考えることに十分慣れておらず、それなのに物理に対してメタな立場に立つことなどできるのだろうかと疑問に思うからだ。

哲学の起源と形而上学

 哲学の起源を辿れば、どこへ行き着くか。ここでは仮に、ソクラテスプラトン、あるいはアリストテレスに行き着くということにしよう。彼らはいずれも、物理に対して理解があり、その上で形而上学的にものを考えた。それは英語でいえば、phisicsに対して理解があって初めて、それでは扱うことのできない問題があることが正当に理解でき、そこで初めてmetaphisicsが意味をもつということなのではないか。もちろんそのときの「物理」というのは、その当時の水準の物理ということであって、物理学はその後にいくらか発展したので、今となってはメタな立場に立たなくても、物理の枠で考えることのできる範囲がずいぶん広がったといってよい。例えば、以前にいくつかの記事で触れたことのある社会物理学は、それが登場するまでは哲学の領域とみなされていたようなことがらを、形而下の枠組みで考える学問領域であるといえるだろう。

 社会物理学以外の例として、脳科学が挙げられる。脳の中で起こっていることがらについて、ソクラテスらの時代には物理的なことはほとんど何もわかっていなかったが、今では多くの人が、それについて脳科学の枠組みで考えることができるということを知っている。それは現代の教養とか常識と言ってもいいかもしれない。「多くの人が」と書いたけれども、もちろん脳科学の体系に基づいて様々なことを考えられる人間はというと、その数はそれほど多くない。「体系に基づいて」というのは、単に「脳科学ではこうだと言われている」というような、個々の研究成果についての知識があるということとは意味も水準も違う。

 純粋に自然なものごと、つまり人間が関与しないものごとについては、さきほど挙げた哲学者やその後に続く哲学者たちは物理の原理に則して考えた。けれども知性や記憶、あるいは法などのことがらについて、当時はその物理的な対応物を見つけることはできていなかった。だからその種のことがらについては、物理に基づいて考えることの限界を認め、形而上学によって考えた。ものの考え方についてのこうした立場は、これまでに述べてきたように言葉の由来に基づいて評価するなら、全くもって妥当なものだといえる。その思考を支える杖になったのは、しばしば他者との対話であった。それは杖であると同時に、スタイルでもあった。

 物理に基づく思考の限界と形而上学的な思考との関係について、以前に私が考えたときにはもう少し別の手順で考えていた*3。そこでは物理を科学、形而上学を哲学と呼んでいたが、筋としては同じである。ここでその手順を簡単に振り返ると次のようになる。人間が関係する現象について科学的に説明をつけようとしても、「どうしてその人間はそう思ったのか」とか「どうしてその人間はそれを望んだのか」ということは説明できずに残る。そこから先は哲学に頼るしかない。この手順もまた、形而下の思考の限界を超えるものとして形而上学を考えるというこの記事の筋と通じるものである。

 

抽象的思考と哲学、そして形而上学

 この記事の主題はあくまで形而上学と物理学の関係であるが、ここで少し別のことがらを扱う。形而上学とはまた別に、「哲学的」と同じような言葉として「抽象的」という言葉が使われることがある。しかし哲学的に考えることと抽象的に考えることは異なるし、そのどちらも、形而上学的に考えることと異なる。哲学と形而上学の違いについてはすでに述べたので、ここでは抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることとの違いについて順に述べる。

抽象的に考えることと哲学的に考えること

 まずは抽象的に考えることと哲学的に考えることとの違いを考える。これも言葉の起源や定義に基づいて考えればよい。抽象的に考えるということについては、少し前に別の記事*4でも少し説明をした通り、何か複数の具体的なことがらについて、その間に共通する部分にのみ注目して他の部分は捨て去り(最近の言葉で言えばスルーして)考えるということである。それに対して哲学とは、すでに述べた通り知を愛することであるから、知を愛しながら考えるならばそれは哲学的な思考と呼んで差し支えない。ここで、知を愛する人間が、抽象的に考えずに済むということが果たしてありうるのか、言い換えれば知とは常に抽象的に表現されるものであるはずだから、知を愛する人間ならば抽象的に考えるということと無関係ではいられないのではないかという疑問が生まれるかもしれない。

 もしもあらゆる種類の知が、抽象的に表現されるとしたら、知を愛する人間は知を求める限り、抽象的に考えることから逃れられない。しかし果たして本当にそうだろうか。別に知を愛しているわけではなくても、抽象的に考えることはできるのではないか。哲学が嫌いであっても抽象的に考えることを得意とする人間はいる。数学者や物理学者の中にはそういうタイプの人間も少なくない。彼らの中には、哲学など役に立たないと言ってはばからない人間もいる。あるいは数学者や物理学者を持ち出さなくても、現実の人間関係にたとえて説明することもできる。相手を愛しているわけではなくても、その相手のことがよくわかる場合がある。「別に好きではないけれど、あの人はこういう人だ」と一言で表現できるとき、それは相手に関して抽象的に考えることができていることになるが、相手が好きであるわけではない*5

抽象的に考えることと形而上学的に考えること

 次に抽象的に考えることと形而上学的に考えることの違いを考える。こちらはもっと手短に説明できる。形而下のこと(物理的なこと)であっても抽象的に考えることはできるので、抽象的に考えることと形而上学的に考えることは異なる。物理の体系を支える原理や定理、法則は数式を用いて抽象的に表現されている。それらが形而上学的な思考の産物であるとは言わない。

抽象を通して

 これで抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることのあいだの関係についてはひとまず説明し終えたので、ここで話を本筋に戻そう。すでに述べた通り、私は自分自身、必ずしも形而上学的に考えることができているとは限らないのではないかと考えている。それでもなお、私はものごとを抽象的に考えることを通して、形而上学的に正しい思考を獲得できるのではないかとも考えている。これはすでに別の記事*6で偏見について書いたこととも通じることであるが、偏見と同様に抽象的に考えるということもまた相対的なことであって、抽象的に考えたからといってそれが正しいとは限らない。ある条件のもとでは正しいが、別の条件のもとでは正しくないということがありうる。だから抽象的に考える場合には、正しく考えることができているかということに注意しなければならない。けれども正しく考えることができていれば、たとえ物理に詳しくなくとも、物理の限界を超えたことがらについて正確に捉えるということができる。私はそう考えている。形而下の思考と形而上の思考とは、正しく行われた抽象を通じてつながっている。だから道を誤らなければ、私は物理に対する自分の力量不足をうまく乗り越えることができるかもしれない。

 とはいえ、やはり形而下の思考、つまり何らかの物理的な実体と対応させてものを考えるということをしたいので、私はこれからも、何かを考える場合に「これを表す物理的な指標は何かないか」ということを常に意識することになるのだろう。

*1:「全く」ではなく「ほとんど」と書いたのはもちろん理由があって、形而という言葉は今でも使われることがあるためである。それは一つには、「形而上学」という言葉が辞書に載っているということ、そして一つには物理現象を指して「形而下の現象」とか「形而下のこと」と言ったりする場合があるということが根拠である。

*2:このような立場は、のちに抽象的に考えることと哲学的に考えることの違いについて述べるときにも登場する。

*3:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*4:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*5:この記事の冒頭部分で哲学と形而上学の違いを述べたときにも用いた立場である。

*6:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

 先日、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み直した。今回が二度目だった。初めて読んだのは単行本が出版されてすぐの頃だったので、もう二年以上前になる。改めて読んでみて、これまでに読んだ他の作品も含めて一般的に言えることについて、作品の中身には立ち入らず、Amazonのレビューの特徴と関連させながら書いてみようと思う。だからこの投稿では、この作品を単体でどう読むかということや、作品の中のこの箇所はどういうことを表現しようとしているのかというようなことに対する考察などを期待しても、何も出てこないかもしれない*1

 この作品について、Amazonでのレビューの数は800を超えているが、その中に「これは」と思うものはほとんどなく、伏線が回収されていないということを指摘するものが少なくなかった。この種の指摘が多い理由は、推理小説ライトノベル*2が売れている理由とも通じることで、作品の中に明快な答えが示されていないと納得しない読者が多いということなのではないかと私は考えている。あるいは推理小説ライトノベルに限らず、ドラマの中でサスペンスというジャンルが一定の視聴率を保って今も残り続けていることとも通じるかもしれない。それが作品に関する個人の好みの問題なのか、読解力の問題なのか、あるいは人々の間で共有された小説の定義の問題なのかと言われれば、私は定義の問題ではないかと思っている。わかりやすく書かれていること、誰が読んでも気付くように書かれていること、それが小説を小説たらしめる、と。

 またこれとは別のタイプの指摘として、過去の作品で使われた主題や表現、あるいは小物を使い回しているという指摘もいくつか目にした。私は村上春樹の作品をすべて読んだわけではないから、使い回されているものを全て特定することができているかはわからないが、確かに使い回されているなと感じることはある。けれどもこれについても、使い回されているからよくないとは思わない。以前に比べて今回の方がよく書けているならそれで一向に構わないし、たとえ以前と全く同じ形で使っているとしても、作品の他の箇所との関係性がうまく書かれているなら、こういうつながり方もあるのかという発見が得られるので、それはそれで一向に構わない。

 一つ目の指摘の方に話を戻そう。読んでスッキリすることを求める人は村上春樹の作品になじめないということは、ある意味では理解できる*3。この作品に限らず、彼の作品は一般に読者が作品を読んだ後に自分の頭で考えることを強く要求するものばかりで、自分の頭でなにかを考えることを望まない人間の方が多いと私には思えるからだ。自分の頭で考えさせるというところが彼の作品に一貫する本質であるとしたら、個々の作品に登場する音楽やバー、主人公が作る料理や女性との会話がおしゃれすぎるとか、複数の女性と簡単にセックスできるのは不自然といった、彼の作品の特徴としてしばしば指摘されることがらは、作品の本質とはほとんど関係ないと思う。そういう要素が現実味を欠いているという指摘も多いが、私にとってはそれほど現実味を欠いているとも思われない。そういうことに関する私の趣味が、彼の作品における主人公の趣味と似ているわけでもないのに、依然として私はそこにリアリティを感じる。

 小説において、作品の前半で張られたいくつかの伏線が、後半からラストにかけて次第に回収されていくという構成は、確かに読んでいて面白みを感じるパターンであるとは思う。また、それまでの全ての展開を最後の一行でガラッとひっくり返したり、そこで始めて真実が明らかになるというタイプの構成も、面白いと思わなくはない。、全ての伏線を最後の一行で一気に回収するという意味で、これも伏線回収のひとつの極端なパターンである。このパターンは私の知る限りでは乾くるみの『イニシエーションラブ』がオリジナルで、それ以降に模倣が相次いだように見えるし、今もそれは続いている。このパターンで書かれる作品はけっこう人気も出やすく、今後もしばらくは後を絶たないかもしれない。もっともこのパターンについては、私はもうすでに飽き始めている。人間が何かを理解する場合、そのプロセスは決して段階的なものではなく、突如として全てを一気に理解するというところがある。雷に打たれたようにとか、ユリイカという叫びとか、散歩をしていてふと思いついたとか、突然天から降ってきたというように、理解についてのこうしたプロセスを表す言い回しはいくつもある。その意味では、ラストの一行で急に全てが明らかになるというのは、人間が何かを理解するということを表現するためのうまい方法であると理解することもできなくはない。けれどもやはり、そういう理解のしかたは、この手法については当てはまらないように思う。

 小説の構成は、このように伏線とその回収というパターンだけである必要はない。もっと色々な構成のしかたがあってよい。比喩の的確さ、印象に残るセリフ、思わず使いたくなるような気の利いた表現もいいが、構成のしかたもまた、小説を読むときの楽しみのひとつである。そして村上春樹の作品は、回収される伏線もあれば、回収されない伏線もある。あるいはそもそもそれらは伏線ですらないのかもしれない。そういうものをどう読むかは読み手次第である。伏線が回収されてないじゃないかと文句をつけるのも自由だが、私はそれを建設的な読みであるとは思わない。

 リアリティの方に話を移す。一般に、人物に対してリアリティを感じなくても作品全体としてはリアリティを感じる作品もあれば、人物にはリアリティを感じるのに作品全体としてはどうもリアリティを感じられない作品もある。私の場合は前者の方が重要だと考えている。それは単に、部分に対するリアリティよりも全体に対するリアリティの方が重要であるということではない。全体としてリアリティを感じるためには、ディティールに対するこだわりが必要だからだ。それはなにも固有名詞を多用しているかどうかということではなくて、細密画のように細かいところを忠実に表現しているかどうかということなのだと思う。

 それでは私は村上春樹の作品に登場する個々の登場人物に対してリアリティを感じていないかというと、すでに述べた通りそういうわけでもない。私が登場人物に対して感じるリアリティは、大多数の人々に当てはまるとか、共感を得やすいとか、料理の上手い下手とか、女性と簡単にセックスできるとか、そういうこととは直接は関係ないことなのだろうと思う。

*1:この作品単体について考えたことは、またいずれ書こうと思う。

*2:ライトノベルの人気がある理由として、キャラが立っているということもしばしば指摘される。わかりやすい人物像の方が、微妙でわかりにくい人物像よりも読んでスッキリするというのは、わからないことではない。ライトノベルではないが、登場人物のキャラが立っている小説は多い。そういう作品は役者が演じやすいということもあってドラマ化もしやすく、ドラマ化によってますます人気を得るというかたちで回路ができあがっていく場合もある。

*3:もっとも、なじめない理由がこれだけとは限らない。村上春樹の作品はどうも好きになれないという人について、どうして好きになれないのかを説明できない場合もある。『ノルウェイの森』を読んでそう思う人が多いということも目にするが、性的な描写が気に入らないということ以外は、未だにはっきりとはわからない。

原罪と自由意志

 

責任にまつわるある疑問

 ときどき疑問に思うことがある。それは、一方では偏見を前提として成り立っている占いを信じていながら、他方では偏見を非難している人間がいるという事実だ。それはダブルスタンダードなのではないか。少し考えてみれば、どんな占いも何らかの偏見の上に成り立っていることは明らかだ。いつ生まれたか、血液型(抗体の型)はなにか、星座は、名前の画数は、手のしわは…。人が占いを気にするのは、それが当たるかどうかではなくて、自分で決めなくてもよいからだと私は考えている。自分で決めると、責任が生まれる。けれどもそんなもの負いたくないし、それで困ったことになっても、自分は責任など負えやしない。だから自分でないものに決めてもらいたい。逃げた方が楽なのだ。

フロムとフリードマン

 責任ということについて考えるために、ここで2冊の本を取り上げてみる。ドイツ国民のナチズムへの傾倒について、エーリッヒ・フロムが書いた『自由からの逃走』には、選択の自由とそれに対する責任をめぐる状況に対する、彼の問題意識が背後にあった。占いについて冒頭で述べたような考えからみれば、自由からの逃走は、選択からの逃走、あるいは責任からの逃走とも言える。ミルトン・フリードマンは『選択の自由』で、豊かさとは選択の多様性が担保されていることであって、われわれはそういう社会をこそ目指すべきであると書いた。けれどもそういう社会は人間にとって耐えられるものなのだろうか。実のところ多くの人間は、選択の自由など望んでいないのではないか。占いや頼れる他人に選んでもらった方が楽で、自分で選びたくなどないのではないか。『選択の自由』は『自由からの逃走』から約40年後に書かれた*1。それではフリードマンは、ずいぶん前にフロムが扱った課題を乗り越えたのか。少なくとも『選択の自由』の中で、フリードマンがフロムの論点を意識していたようには見えない。フロムの指摘した問題とは別のところから、フリードマンは選択の問題を考えているように見える。『選択の自由』をどう読むかということについては、偏見と善悪の関わりについて論を展開した後に、再び取り上げる。

トートロジーと2つの用法

 偏見と占いについて、ある種の偏見は採用しながら、別の偏見は拒絶するという人も目にする。いや、目にするなんてものではなく、誰であれ時間をかけて観察し続けていれば、そういう矛盾を見つけることができる。私自身も含め、そんな矛盾を抱えていない人間などそもそもいないのかもしれない。それでも、偏見を非難する場合に「偏見は偏見だからよくないのだ」というのはトートロジーであって、私はせめてそのようなしかたで偏見を非難することくらいは避けたいと思っている。

 私の理解では、「それは偏見だ」という表現には2通りの用法がある。一つは「それは偏見だからよくない」という意味で用いる用法。これはトートロジーに通じる。もう一つは「それは誤った偏見だからよくない」の意味で用いる用法。「偏見だから」の前に「誤った」がつくかどうかで、前提となるものの考え方がずいぶん違うことがわかる。

トートロジーを避けて考える

 責任についての冒頭の話から、いつのまにか偏見の話、そしてトートロジーの話にすり替わっていないかと思われる読者もいるかもしれない。けれどもここではあえて、トートロジーの話を続ける。それは翻って、責任について誤った方向へ議論が進むことを避けられるという意義くらいはあると考えるからだ。急がば回れである。

トートロジーの形式的定義

 トートロジーは形式的には、「AはAだからXなのだ」という言い方で定義することができる。またこのとき、Aは絶対的であるともいえる。つまり、AがXであることを示すために、Aの他には何も必要ではないということである。ひとつ例をあげよう。神は絶対的な存在であるとしばしば言われる。それは神が神の他に何も必要としないで存在することができるからである。それでは偏見は絶対的なものなのか。言い換えれば、「偏見は偏見だから悪なのだ」と言えるのだろうか。この問いに対して、例えばある小説中の表現になぞらえて答えるとこうなる。

 

絶対的な偏見などといったものは存在しない。絶対的な占いが存在しないようにね。*2

 

 偏見は相対的なものでしかない。ある条件のもとでは悪であって、別の条件のもとでは善である。偏見自体が悪だというわけではなく、良い偏見と悪い偏見があり、それは人間がケースバイケースで判断しなければならない。ケースバイケースで判断するコストを省くために存在しているルールである法ですら、人間のこの判断力から生まれている*3

偏見に関する三段論法

 人間である限り偏見は不可避であって、なおかつ偏見は悪であるとすると、人間はどうしても悪をなしてしまうことになる。三段論法の応用だ。ところがこの三段論法は誤りである。それは全くもって基本的に、形式的に判断される。つまり、「偏見は悪であるとすると」という前提*4が誤りであるため、そこから導かれる結論も誤りである。すでに述べた通り、偏見はそれ自体として良くも悪くもない。その点では貨幣と同じである。誤っているのに、それでもなお正しいと信じ続けるところから、言い換えれば本当は相対的なことがらを絶対的だと錯覚するところから、少なくない数の人間の苦しみが生まれているのではないか。そして、偏見や貨幣に対する私たちの誤解はその一例ということなのではないか。

偏見の前提

 偏見について考える前提となる善悪について、ここで私の基本的な考えを明らかにしておこうと思う。意思によって選択が可能なことがらに対して善悪の問題が生じると私は考えている。善悪と人間の意志の関係をめぐるこうした立場は特に珍しいものではなく、むしろ典型的なものだといえるだろう。これについて、「そもそも人に自由意志などあるのか」ということも言われ始めて久しいし、「あると信じることに意味があるのだ」と粘る人もいる*5。自由意志の存在を否定するものとしてしばしば紹介されるのがベンジャミン・リベットの実験(1983年)である。詳細や実験の経緯については彼の著書である『マインド・タイム』に記されているが、その内容をごく簡単に紹介するWIREDの記事を見つけたので、該当箇所のみ引用する。

自由意志に関する論争を巻き起こした実験は、1983年にさかのぼる。アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット(1916 – 2007)は、われわれがとある動作をしようとする「意識的な意思決定」以前に、「準備電位(Rediness Potential)」と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを、脳科学的実験により確認した

平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。(同記事より)

 

 なかなかスリリングなところまできているなと感じる。

結果としての善

 私はといえば、自由意志など存在しないとしても、善悪を区別する基準が個々のケースに対して明らかにされれば、人は明らかにされたことに基づいて善の方を選ぶことができると考えている*6。そのとき、私が善の方を自分の意思で選んだのではないとしても、問題はない。結果として善の方を選んだということの方に意味があると考える。

 リベットの実験に照らして考えるならば、私が何かについて判断するとき、私がその判断を自覚するよりも約0.2秒前に、脳の中ですでに判断は済んでしまっている。けれどもその判断というのは、私が経験したり考えたりしたことの蓄積にある程度左右されるから、善を選ぶことができるように自らを教育していけばいい。もっとも、教育といったところで、その過程を考えれば、私がどういうことを経験するか、どういうことを考えるかもまた、私自身が意識して選ぶよりも前に脳の中で決まってしまっているとしたら、もはや私は教育によって自分の判断へ影響を与えることすらできず、ある意味では私自身の脳から締め出されてしまっているといえる。このとき私の意思にはもはや打つ手がないかもしれない。しかしそうであっても、すでに述べたように、善悪を区別するための基準を明らかにしていく経験を通じて、人は善の方を選べるならばそれでよい*7

想定される批判

 自由意志と善悪の判断の関係についての私のこの立場に対しては、善悪というのは自分の意思で選ぶからこそ価値があるのだと考える立場の人間からは批判があるかもしれない。しかしすでに述べた通り、私は善悪と人の意思を結びつける必要はないのではないかと考えている。あくまでも結果としてなされることが善であればよく、意思の力に委ねて結果として悪がなされるならば、意思とは無縁に結果としての善が選択される方がいいのではないかとすら思う。これはこれでかなりスリリングな立場であると思うので、この点だけを主題として扱う記事をまたいずれ書こうと思う。もっともスリリングといっても特にアクロバティックな考えであるとは思わない。一定の手続きを踏むことを義務付けることによって結果としての善がなされるような運営を実現するしくみは、すでに我々の社会の中にごく自然なものとして根付いている。それは特に最近になって生まれたものでもないし、我々の社会といっても日本だけというわけでもない。リベットの実験に引っ掛けていえば、我々はそれを特に意識さえしないほどに、それを受け入れている。

フリードマン再び

 そして、善悪の判断と自由意思の問題を切り離して考えると、そこで初めてフリードマン『選択の自由』が意味をもつと言えるのではないか。私ははじめ、この作品をフロムの『自由からの逃走』に連なるものとして解釈しようとした。そしてその後に、リベットの実験に示された、自由意志の不在という問題を取り上げた。『選択の自由』は、フロムやリベットの系列に置いて考えても実りがない。しかしそれとは別の系列、つまり選択を自由意志とは独立に扱う視点からこの作品の意味を解釈するならば、実りがあるのではないか。たとえ自由意志が存在しないとしても、自分のもとにある選択肢の数や組み合わせが変化すれば、その中のどれを選ぶかは変わってくる。選ぶときに、リベットの実験に示されるように脳内で選んでしまった後から自分の意思が意識されるという順序であるとしても、脳内でどの選択肢を選ぶかは、自分が認識している選択肢の数と組み合わせに依存する。ここで簡単なケースを考えてみる。ある問題について選択肢が2つあり、そのどちらも望ましいものではないとする。すると人は、意思によるにせよよらないにせよ、望ましくない選択肢を選ぶほかない。しかしここで、新たに第3の選択肢が加わり、それは望ましい選択であるとする。すると人は、やはり意思によるにせよよらなににせよ、望ましい第3の選択肢を選ぶ可能性が生まれる。そうだとすれば、選択肢をなるべく豊富に提示しておくことは重要であるといえるのである。

 望ましい選択肢が結果として選ばれたときに、それが自由意志によって選ばれたかどうかは、副次的な問題にすぎないと私は考える。フリードマンは著作の中で自由意志の問題を扱っていないが、考え方としては私と同じような筋道で考えていたのではないかと思う。そしてこのとき、フロムが指摘したように人は自由から逃げ出そうとするとしても、選択肢を多様にすることによって結果として善がなされる確率が上がるならばそれでよいというような理路で、フロムの問題を解消することはできるかもしれない。

原罪と信仰

 仮にさきほどの三段論法が正しいと考えてみよう。自覚があるかどうかは別として、そう考えている者は少なくない。人間は避けられない悪に耐えられるのだろうか。「あなたは人として生まれた以上、ある種の悪をなすことは不可避なのです」と言われて、それを受け入れられるのだろうか。おそらく多くの人間は、それについて突き詰めて考えないようにすることで済ましている。そんなこと考えたってしょうがない、他にやらなければならないことは山ほどあると。

逃れられないもの

 一旦本筋からは外れるが、何かについてその本質を突き詰めて考えないようにすることで、かえって苦しみ続けることになってしまっている人間が多いように見える。その場その場でだましだまし、一時的にしのいで済むこともあるが、根本的に解決したわけではないから不安や悩みは消えず、ある程度時間が経てばそれらは再びやってくる。それから逃れることはできない。麻薬依存症の人間と変わらない。それならせめて一度でも、本質について時間をかけて考えた方がましではないか。そんな風に考えない人間が多いことに対する嘆きを、多くの哲学者や評論家が表明し続けているのを私はこれまでに多くの本で目にしてきた。そういう表明が昔から今に至るまでの長い間、ずっと続いているという事実を謙虚に受け止めるとすれば、多くの人間は根本的な不安が解消されないままなのかもしれない。それはキルケゴールの『死に至る病』や『不安という概念』の主張と通じる、人間の根本的な問題なのかもしれない。

避けられない悪としての原罪

広義と狭義の原罪

「原罪」(original sin)という言葉は本来、エデンの園に住むアダムとイブが、蛇にそそのかされて神の注意に背き、知恵の木の実を食べたというエピソードに由来し、人類で最初の罪の意味である。しかしこの言葉にはもう一つの用法があり、避けることができない罪の意味で使われることがある。前者を狭義の原罪、後者を広義の現在と呼ぶことにし、ここから先は基本的には広義の方を使うことにする。ここまで「避けられない悪」と表現してきたものは広義の原罪に対応する。偏見に限らず、人間は悪を避けることができる。

 ある人間が、キリスト教に対する信仰とは関わりなく、避けられない悪として原罪を抱えているということを一旦認めてしまうと、その重さに耐えられないと感じて救いを求めるところから、信仰が生まれる場合も少なくないだろうということは、容易に想像がつく。これは本筋から逸れる推論だが、人類にとって、実は狭義の原罪よりも広義のそれの方が先に意識されたのではないかとすら思える。その意識から生まれた宗教が、後から狭義の方の原罪の概念を生み出したという順序なのではないか、と。

自由意志と原罪の関係

 一見すると、自由意志と原罪は両立しないように見える。意思によって何かを自由に決めることができるのであれば、人はどんな罪も避けられる。反対に、避けれらない悪としての原罪があると考えるならば、人に自由意志などない。どちらかの存在を認めれば、もう一方の存在は認めることができない。意思によって悪をなすことを避けられるということを前提にして成り立っているものはいくつもあるし、そのいくつかは今後も残り続けるかもしれない。だがすでに述べた通り、避けられないものを避けられると錯覚して信じ込むことによって苦しむ人間は少なくない。

 しかし、偏見の前提について考えた箇所で述べたように、自由意志の存在を認めなくても、選択肢の多様性が認識されていれば、人は悪を避けられる可能性がある。そこで以下では、選択肢の多様性を認識するための前提について考える。

自己責任の拡大解釈について

 偏見に限らず、あるいは悪に限らず、自分にとって望ましくないことがらを避けられるかどうかは、自分をとりまく環境に依存する。個人をとりまく環境は、個人の人生を方向付けたり制約したり、ときにはただ一つに決定することさえある。ここではそれを「外的条件」と呼ぶことにする。外的条件について正確に理解することは、自分には何が選べるのかという選択肢に対する認識の前提となる。今はまだ、人間は外的条件に対する理解が十分ではなく、したがって個人の能力で避けられるものと避けられないものの区別が十分でない。悲劇の多くは、個人にとっては動かしがたい外的条件が、まるでそれが必然ででもあるかのように望ましくない結果をまねく過程を描くことで成り立っている。

 自己責任の名の下に個人が背負わされることがらの中には、確かにその個人の責任と呼んでいいものも含まれているだろう。けれども、そうでないものも含まれている。たとえそれが、当人の選択の結果であるとしても、実態は選択などと呼べるものではなく、外的条件が生んだ当然の帰結にすぎないようなものごとが、自己責任論の中には含まれている。そこにぼんやりと理不尽や不条理を感じる者があったとしても、このように拡大解釈された自己責任論は強く、個人の違和感など簡単に潰される。潰された後には苦しみしか残らないことも少なくないだろう。

しかたのないこと

 われわれの社会が個人をとりまく外的条件をすべて見つけ出し、それらの間に成り立つ関係をうまく整理し終えるまでは、自己責任論の拡大解釈はしぶとく生き残り続けるだろう。そしてその間はずっと、望ましくない結果や今置かれている状況は、自分の人格や考え方のせいだと自分を責めて苦しむ人間や、結果として相手を苦しめるだけでしかないことに無自覚なまま、それが何か唯一の重要な答えででもあるかのように「他人や環境のせいにするな」とひたすら言い募る人間もいなくならないだろう。しかたのないことを、人はまだ十分に理解してはいない。

バイアスと外的条件の複合

 「恋愛不適合者」とか「結婚不適合者」というような言葉をときどき耳にする。人口分布や所得分布、あるいは産業構造や就業に関する条件などの外的条件が原因であるにすぎない可能性もあるにも関わらず、当人から見えていなければ存在しないのと同じであるというような理由から、心を落ち着けようとしてもっともらしい原因で強引に自分を納得させたりする。原因がわからないままであるよりは、もっともらしい原因を採用する方が心が落ち着くというような心理的なバイアスが、人間にはデフォルトでセットされているのかもしれない。そしてもっともらしい原因の中でも「自分のせい」というのがトップに位置しているとしたら、どうだろうか。もしも世の中が、バイアスと外的条件があるしかたで組み合わさった結果、一定以上の確率でオートマチックに「苦しみ」が発生するしくみになっているとしたら、どうだろうか。私にはどうもそうだという気がしてならない。

自己責任とは別のしかたで

 外的条件についての理解が進めば、何については諦めたり割り切ったりした方がいいか、何については悩む必要はないかがはっきりするだろう。もちろんそれでもなお、悩んでもしょうがないことについて悩む人は一定数残ることになるかもしれないが、その数は今よりも減るのだとすれば、自己責任論などを素朴に信じて苦しむよりは、外的条件について理解を深めることを選ぶ方が、いくらか希望があるように思える。空を飛べないことを、人はごく自然に受け入れる。それはしかたのないことだから、それについて思い悩んでもしかたがない。けれども拡大解釈された自己責任論のもとでは、空を飛べないことが自分のせいだと悩むことで苦しみ続ける人間がいるように思えてならない。

想定されるある種の批判に対して

動機への批判

 こうした論の運び方について、「色々と理屈をつけているが、結局は責任から逃れたいという願望に基づく、体のいい言い訳に過ぎないのではないか」と感じる読者もいるかもしれない。実際この手の批判はネット上でもしばしば目にする。何かを批判する人間に対して、「社会から認められない腹いせだろ」とか「現実の生活がうまくいっていないからネットでいきり立っているんだろ。恋人でも作って休日にどこかへ出かければ、そんなことで怒ることもなくなるさ」などの類の批判である。それらはいずれも、動機を批判しているにすぎないのに、動機を批判すれば主張それ自体も批判できたことになると勘違いしているように見える。

 なるほど私の場合もその通りかもしれない。私はたとえば「自分を守る」という動機のために、長々と体のいい言い訳をでっち上げ、それをネットの片隅にわざわざ残すという無駄な営みをしているに過ぎないのかもしれない。しかし率直に言って、私はその手の疑問や批判には関心がないし、それに答えることに意義があるとも感じない。これについて、たとえば批評理論の立場から答えることもできなくはない。批評理論によれば、筆者の意図とは独立に作品を解釈することは可能であり、筆者の言いたいことは何かと考えてもしょうがない。あくまでも作品自体がどういう風にできているかという内的論理を明らかにすることに意味があるという考え方である。

 それでは私の立場は批評理論のこうした考え方と同じであるかといえば、そういうわけでもない。意図が好ましくないという理由で主張内容の真偽を判断するのは妥当でない。しかしその一方で、主張内容の真偽を判断するために、筆者の意図を理解することが役に立つ場合もある。上で取り上げたような批判が妥当でないのは、あくまでも意図が好ましくないことを示しているにすぎないのに、批判の内容も妥当でないと主張しているように思えるためである。妥当でないと感じることに、関心や意義を感じることはない。

生き方という批判

 あるいは、意図と主張内容の関係に対する誤解に基づく上の批判とはまた別に、こういう批判もあるかもしれない。つまり、確かに自己責任とはいえないようなことを自分の責任として引き受けていることもあるかもしれない。そしてそのせいで苦しむこともあるかもしれない。けれども生きていくということはそういうことではないのか、と。本当は自分の責任ではないかもしれないけれど、それでも自分の責任であるとしてそれを引き受け、それによって生じる苦しみにも耐えていくことは、人が生きるということそのものではないか、と。これは強力な批判で、そういう生き方にこそ人間の尊厳が宿るということを描いた芸術作品も多い。特に悲劇にはそういうものが多く、そこに感動する人間も少なくないだろう。あるいは喜劇の中にもそういうものはある。喜劇の場合には、自分が引き受けたことによって苦しむこともあるが、それをどう笑い飛ばして生きていくかが重要なのだというしかたで描かれたりする。これも少なくない人間の共感を呼んでいるし、時代と地域を超えた普遍的なテーマといってもいい。こういう生き様ってかっこいいよねということでもある。明石家さんまは明らかにこの立場だと私は思う。彼以外にも同じような考え方をしている芸人は少なくないだろう。辛いこともあるけれど、それをどう笑い飛ばして生きていくかというところに、芸人の芸人としての誇りがあるのだと。

 しかしこの批判に対しても、私はやはり同意しかねる。外的条件を正確に捉えるということは、真実を正確に捉えることにつながる。そして何が真実であるかということは、話として美しくまとまっているかとか多くの人間から共感を得られるかとかいうこととは何の関係もない。美しくなくても真実であることはあるし、多くの人間から共感を得られなくても真実であるということもある。そういう真実は人間が生きていく支えにはなりにくいかもしれない。あるいはそういう真実を受け止めてよりよい生き方を考えるということは、上に述べたようなかっこいい生き様に比べれば難易度がずいぶん高いかもしれない。それでも、真実を正確に捉えることは生きていく支えになると私は考えている。もちろん難易度が高いかどうかということもまた、何が真実かとは関係がない。

 これについて、少しだけ思うところを述べる。こういう立場でものを考えて生きている人間は、私の見たところごく少数であって、ときどき「あ、この人はそうかもしれない」と思う人を見つけることはあるが、そういう人たちとずっと一緒にいられるわけでもないし、私の勘違いということももちろんありうる。けれどもそういう人を見つけたときには、単に見つけたというだけで、私はいくらか生きていく支えを得たような気持ちになる。

袋小路を避けて別のルートを考えること

 「原罪」という言葉は、それが広義で用いられる場合、誤訳ではなく定義矛盾ではないかと私は思う。つまり、避けられるのに避けなかったことが罪なのだとすれば、避けようがないことは罪にはならない。外的条件に対する理解は、本来は罪でないことを罪であると錯覚して苦しむことからの解放をもたらす。それは別の言葉でいえば、背負う必要のない荷物を背負って苦しむことからの解放ともいえる。原罪と自由意志の両立というルートではやがて行き止まりになるが、外的条件について理解を進めることで、それとは別のルートで、今よりいくらか安らかなゴールへたどり着くことができるかもしれない。

 

自由からの逃走 新版

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選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦

選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦

 
マインド・タイム 脳と意識の時間

マインド・タイム 脳と意識の時間

 

 

 

*1:『自由からの逃走』の初版発行は1941年、『選択の自由』は1980年である。この約40年のあいだで、人間はどれほど賢くなったのだろうか。

*2:「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(村上春樹風の歌を聴け』より) 

*3:法の存在意義を、ケースバイケースで個人が判断する手間を省くというところにあると私は考えている。この点についてはまた改めて別の記事を書く。

*4:論理学の言葉でいえば「前件」である。三段論法に限らず、「pならばq」という形で表現される命題は、前件pが誤りであるとき、偽となる。

*5:これは後に述べる「生き方としての批判」の項の内容とも通じる。

*6:「選ぶ」という言葉は、ここでは特に自由意志を前提としていないことに注意してほしい。自由意志がなくても人は選ぶということができる。それはあることがらについて、起こりうる事態が複数存在し、そのうちのどれかを指定するくらいの意味で捉えてもらえればいい。以下の本文でもそのような意味で「選ぶ」という言葉を用いている。

*7:「必ずそれを選ぶ」ではなく、「選ぶことができる」とか「選べる」というような書き方をしているのにはもちろん理由がある。正しい選択肢が選択肢の中に含まれていても、人はそれを常に選ぶとは限らない。バイアスの存在によって選択を誤る可能性が常に存在している。けれども、正しい選択肢が含まれていなかったら、そもそもそれを選ぶことすらできない。結果として正しくない選択肢が選ばれる可能性が残るとしても、正しい選択肢が選ばれる確率が0から任意の正の値へ変化するなら、選択肢の多様性を認識する経験には意義があると私は考える。

小説の好みと絵の好み

重松清百田尚樹

 重松清百田尚樹を同列に語れるのかどうかはわからないが、私は以前から、どちらの作家も好きになれない。重松清は毎作毎作感動させようとしてくる感じが露骨で冷めてしまい、百田尚樹イデオロギーむき出しな感じが冷めてしまう。感動自体が特に悪いことだとは思わないし、またイデオロギー*1自体が嫌いというわけでもない。そして、重松清の方は、重松清だから読まないということは別にない。少し前に出た『赤ヘル1975』などは、長いけれども読んでみたい気もしている*2。一方で百田尚樹の方は、率直に言って「百田尚樹が書いた」というだけで私は読む気がしない。もちろん新作が出れば、本の内容を簡単にチェックしてみて面白そうかどうかを確かめる。しかし結局、毎回読む気になれない。例えば『カエルの楽園』は、出てすぐの頃に書店で何ページか立ち読みしたが、偏見だらけで出来の悪い風刺にすぎないという印象しかなかった。わかりやすく書かれた童話仕立ての風刺は世間には広まりやすく残りやすいとすれば、その風刺が誤りである場合、

 …と、これだけでは単なる印象にすぎず、考えているとすら言えないように思うので、小説についての私の好みについて、もう少し踏み込んで考えてみようと思うようになった。それぞれの作家の作品についての論評もいずれ書くつもりでいる。どれだけ考えようと、結局のところそれを抜きにしては、あまり建設的だと思えないためだ。

小説の好みに対する直観

 あるとき私が直観的に感じたのは、私の小説の好みは絵の好みと関係があるのではないかということだった。そこでまずは絵の好みについて書こうと思う。それには自分の過去が手がかりになる。

 私は小さい頃、漫画のキャラクター*3や風景、身近な物*4の模写をするのが好きだった。模写のときには、とにかくそのとき目の前に見えているものを正確に写しとることに集中して鉛筆やシャーペンを動かした。小中学校では筆を使った絵を描くことも何度かあったが、筆の感触になじめず、好きになれなかった。

 時とともに絵を描くことは次第に減っていって、高校へ入った辺りからはもうほとんど絵を描かなくなっていた。漫画は読み続けていたし、印象に残る風景もあったけれども、模写しようという気にはならなくなっていた。模写とは異なるが、迷路を描くこともなくなっていた。高校を卒業し、一年の浪人生活を経て大学へ進むと、私は美術館へ絵を観に行く研究会に入り、フェルメールピカソやモネなど、上野の美術館へ定期的に出かけて行っては、時間をかけて絵を観るということを繰り返した。絵は好きだったけれど、特にそれについて専門的に調べたり、体系的に学ぶことはなく、ときどき気まぐれな関心から高階秀爾の本を読んでみたり、なんとなく美術館へ行く前に関係のありそうなサイトをネットで見てみたりするくらいのもので、「鑑賞する」なんて大したことはできていないと思いながら絵を観続けていた。目の前の絵を観ながら、何か意味ありげに頷いたり、蘊蓄を語ったりするということもなかった。

 ある時、研究会で絵を描く機会があって、私は模写の題材になりそうな絵を探しに図書館へ行った。3階の奥の壁沿いに、美術の本を集めた棚があって、そこから適当に一冊抜き出した本が、水彩画を集めたものだった。絵は絵の具で描くことになっていたので、水彩画から模写する絵を選んでも構わなかった。その本の中でひときわ私の目を引いた絵があって、私はその絵を模写することにした。初めは画家の名前を気にしておらず、とにかくその絵自体に見入っていた。好きな画家を問われて、なんとなくピカソゴッホクリムトなどの有名な画家の名前を口にしていた頃、それらの画家の絵に対しては感じたことのない印象が、その絵にはあった。ルドルフ・フォン・アルトの水彩画だった。19世紀から20世紀初頭まで生きたオーストリアの画家である。

 ルドルフ・フォン・アルトの水彩画は、美術展の企画として日本で紹介されているのを目にしたことは一度もない。美術界の動向を幅広くチェックしているわけでもないので、私が見落としている可能性ももちろんあるが、とにかく全然目にしなかった。ネットで検索しても、作品だけは画像検索でわかるし、ウィキペディアの記事も一応存在している*5ものの、どこかの美術館で展示されているというような情報は皆無だった。いくつかのサイトでは紹介されている*6それほど有名ではないので展示を企画しても採算が取れず、日本には回ってこない絵なのだろうと私は思った。その水彩画はとにかく細密で、細かいところまで忠実に描いている。キュビズムミニマリズム、あるいはフォルマリズムなどと異なり、ただ対象を忠実に写しとるという素朴な描き方が、私には好ましく思われた。そこには不自然なものはどこにもなく、ごく自然に風景や建物や家具などが精密に描かれていて、ときには写真のように見える絵すらあった。小さい頃に私が描こうとしていた絵はこういう絵なのだ、と私は思った。それは描く者が描きたいように描く絵ではなくて、見たままを描く絵だった*7。画集やネットで彼の描いた絵を何枚も見ているうちに、私の絵の好みはこういう素朴なものなのかもしれないと思うようになった。「ゴッホを知らずに絵を語ることはできない」とか「バルビゾン派のトロワイヨンが…」というような、雰囲気や美術評論家の評価などとは何の関係もなく、自分は絵についてどう思うのかということが、そのとき初めて鮮明になったように感じられた。それはやや大げさに言えば、自分がどういう人間なのかということが少し見えた瞬間だったとも言える。

 そして、私の絵に対する好みはその頃から今に至るまで変わっていない。24で大学を卒業してからおよそ4年が過ぎたが、私はその間、美術館へは片手で足りるくらいの回数しか行っていない。もう少し足を運んでいたら、絵の好みは変わったかもしれないが、今のところ私の好みは、ルドルフ・フォン・アルトの描く水彩画のような絵だと定まっている。ターナーシャガール伊藤若冲など、彼の他にも何人か好きな画家や作品はあるが、それらは大抵、絵自体の印象というよりも「この絵を見たときこんなことがあったな」とか「この絵を見た頃の自分の精神状態はこういう感じだったな…」というような、その絵にまつわる私の個人的な思い出と結びついて作品を捉えているところが大きいように思える。単なるナルシストということなのかもしれない。

絵の好みから小説の好みへ

 描く者が描きたいように描く絵ではなく、見たままを描く絵というのは、小説の場合、書く者が書きたいように書く小説ではなく、見たままを書く小説ということになるだろう。とにかく感動させるものを書いてやろうと思って書いた小説や、世界はこうあるべきだというドグマに基づいて書かれた小説は、書く対象をそのまま表現した小説とは異なる。重松清百田尚樹に限らず、リアリティの追求を捨ててただ書きたいように書かれているだけだと感じる小説は、どうしても読む気になれない。ただ書きたいように書かれているというのは、別の言い方をすると自分の鬱憤を垂れ流す方法として小説というスタイルを選んでいるだけとも言えるかもしれない。私にとって百田尚樹の作品は、そういうもののように感じられてならない。

自戒

 そうは言っても、私の偏見や思い違い、あるいは読みが浅いということもあるかもしれない。作品の解釈や評価について、私はフェアじゃないのではないかという罪悪感のような気分と、それに対する償いや責任感みたいな気分から、読む気が起こらない作品をあえて読むこともある。単に娯楽で読むだけならそんなことをする必要はないのだから、私にとって小説を読むということは、単なる娯楽以上の何かであるということなのだと思う。

 気が進まない作品を読む場合、最低でも50ページは読もうとか、一旦全部読んでから判断しようなどといったルールを前もって決めて読むことにしている。それでもやはり、読み進めるとともに次第に苦痛になってきて、ページをめくる手がどんどん重くなったり、ページ数を気にしたりするようになる。そして大抵は途中で読むのをやめてしまう。*8客観的に見れば、私の手は重くなったりしないし、ページ数が印字された位置も、同じ出版社の他の本と変わらない。各ページの右下と左下、右上と左上、あるいはページ下の中央などだ。位置によって目に入りやすいかどうかが違うわけでもない。けれども何かを経験するというときには、どうしてもそこに自分が関わってくるから、手の重さやページ数が目に飛び込んできやすいかどうかというようなことが、小説の内容に連動して、自分の中で変わってくる。読むことを客観的に定義することが難しい理由がここにあると言えるかもしれない。

鉄板に対する公平さ

 がんで余命一年とか、限られた期間しか主人公の記憶が続かないというような設定の作品、あるいはライトノベルのように、キャラが立っている作品など、要するに「こういうのがわかりやすくて当たりやすいんだろうな」と感じさせられる作品も、私はいまいち読む気になれない。感動させようとか笑わせようという魂胆なり計算が見え見えで、どうも下品に思えてしまうのだ。それは現実にがんで余命一年の人間を描いているわけでも、現実に記憶喪失であったり健忘症であったりする人間を描いているわけでも、あるいは現実にキャラが立っている人間をちゃんと捉えていないのではないかと思ってしまう。もしも現実のそれらと比べても遜色のないレベルのリアリティを感じさせるものであったなら、私はその作品を高く評価するだろう。もちろんその場合には、その著者が重松清百田尚樹かどうかなどは関係ない。フェアであるとはそういうことだ。

 もちろんある設定なり作風の模倣、平たく言えば「パクリ」が次々に出てくるということは、そこに人々の心を動かす何かが確かにあるというのも一理あるかもしれない。そのパクリの源流を辿れば、オリジナルと呼べるような特定の作品へ行き着くこともあるだろうし、そういう作品に対してはいい仕事をしているなと思う。しかし同時に、売れているからといって価値があるはずだと考えるようになってしまっては、ある意味評価の棚上げであって、自分の頭で考えたことにはならない。あるいは控えめにいって、その考え方では実際に売れるまでは判断が下せないから、予測力がない。

直観からの乖離

 風景を見たまま描くということと、見たままのことを小説で書くということのあいだには、違いもある。作家が風景の模写と同じ意味で「見たまま」を言葉で書いたとしたら、それはもはやフィクションではなく、ノンフィクションである。それは、小説におけるリアリティとノンフィクションの作品におけるリアリティとの違いでもある。私がある時期からノンフィクションに偏って本を読むようになったのは、あるいはそういう区別が根拠になっているのかもしれない。つまり、ルドルフ・フォン・アルトが見たままを水彩画で忠実に描いて見せたようなものを求める意識から、私は自然とノンフィクションに惹かれていったのかもしれない。

 しかしその一方で、フィクションであってもそこに現実感を感じるということは確かにあって、これは現実には起こり得ないと感じることであっても、そこにある種のリアリティを感じることはある。「フィクションがフィクションとして優れているとはそういうことだ」という立場で作品を評価する人間も少なからずいる。私自身も、もしかしたらそういう立場なのかもしれない。

外れた直観とその先

 このように、絵の好みについて過去を振り返りながら考えてみると、それは小説の好みというよりもむしろ、ノンフィクションに対する関心と関係しているように思われてきた。初めのうち、私は直観的に、絵の好みが小説の好みと関係しているのではないかと思ったのだが、どうやら少し違っているらしい。いつも直観通りの結果とは限らない。

 小説や絵の好みに限らず、一般に何かについて、「おそらくこういうことではないか」という何らかの直観が先にあるとしても、それについて後から筋道を立てて考えて検討しなければ、その直観が正しかったのかはわからない。直観が誤りであることもある。直観に反するが正しいことがら、あるいは私にとってなじみのある言葉でいえばcounter-intuitiveなことがらについて、私がある程度用心しながら考えるようになったのは、大学の頃、国際金融の授業がそういうことを意識して構成されていたこと*9、その後に物理を勉強し直したこと*10のふたつが少なからず影響しているのだと思う。

 さて話の筋を戻すと、はじめに抱いた直観が当たっていなかったとして、それでは私の小説の好みについては結局どう考えればいいのか。絵の次に思い浮かんだのは迷路だった。けれども、迷路と小説の好みを共通の言葉で説明することはできそうにないように思えた。迷路を作るとき、それは常にフィクションである。けれども、作り物であるにも関わらず、そこにわざとらしさや不自然な感じ、あるいは押し付けがましさなどは感じない。その意味では小説の好みと似ていなくもない。けれども迷路の好みについて深く考えるだけで、小説の好みがどんなものかを十分に理解できるという気もしない。それならばむしろ、絵の好みについて考えた方がいいようにも思える。小説の好みについてどう考えればいいのかということについて、以前よりいくらかは理解が進んだとは思うけれども、依然として十分に理解できたとは思えない。考えること自体に意味があるという趣向を持つと、恋に恋するのと同様の過ちを犯す。トートロジーに対しては、慎重でなければならない。けれども、結論はまだ出ないようである。

*1:そもそもイデオロギーそれ自体をどのように考えればいいのかということを考えたこともある。その頃に私が見つけたのがテリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』とスラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』だった。どちらの本もまだ読んでいない。今の私にはまだ、これらの本がイデオロギーについて考えるときの手がかりになるはずだという直観があるだけだ。

*2:ざっと紹介をみた限りでは、少年の成長の過程と広島カープの優勝へ至る過程を重ねて書く構成であるらしく、その重なり具合の中に彼の好む感動が描かれているのだろうと私は感じた。

*3:絵のうまい友達の中には、自分の頭の中のイメージをもとに、想像上のキャラクターを作ってそれを描くのがうまい友達がいたが、自分はそのタイプではなかった。ときどき自分でお粗末な絵の漫画を描いたりしたこともあったが、その漫画のキャラクターや背景の絵は適当なもので、よりうまく描こうとか、よりリアリティーのある画風に…というようなことは考えなかった。

*4:とりわけMONOの消しゴムは、描くのに時間がかからないのでよく描いた。

*5:日本語版の記事は残念ながらまだない。このことも日本における彼の知名度を物語っている。英語版ならばあるが、オーストリアの画家ということで、やはりドイツ語版の記事がもっとも充実している。

英語版:Rudolf von Alt - Wikipedia

ドイツ語版:Rudolf von Alt – Wikipedia

*6:たとえば下のサイトでは、サイトの管理主さんによる紹介と、そこに書き込まれたコメントを読むことで、日本語でも彼のことが多少わかる。

kenwan56.exblog.jp

*7:とはいえ、この「見たまま」というのが厄介で、先ほど挙げたキュビズムミニマリズム、フォルマリズムなどのいくつかの「イズム」は、見るということに対する解釈の違いから生まれているともいえる。この点についても、いずれ一つの独立した記事を書かなければならないだろう。

*8:最近であれば、『本にだって雄と雌があります』を途中で放り出した。これは気が進まない本でなく、むしろ読みたいと思って買った作品だっただけに、残念であった。

*9:その授業では、世間ではこういう風に言われているということを「Myth」として紹介し、実はそれは学問的に検討すれば誤りであるということを一つ一つ示していくというスタイルをとっていた。counter-intuitiveという言葉はそれから後になって別のことがきっかけで知り、ああ国際金融の授業のひとつのポイントはこれだという言い方もできるのかと思った。

*10:高校時代、文系だったこととゆとり世代だったことが原因で、私は物理を学ばなかった。もともと中学の時点で理科に対してほとんど興味が持てなかったということもあって、私は物理をきちんと学んだことがなかったのだが、大学で数理経済学を学ぶうちに、物理に対する関心が強まってきて、塾で高校生を教える機会があったのをきっかけにして、物理を独学で学んでみた。学んでみると以前に比べて格段に面白いと感じるようになっていた。経済学の言葉で言えば、選好 (preference) は短期では変化しないが、ある程度の期間を経ると変化することもあるということを身を以て感じた経験だった。

コンコルドの誤謬の抽象化

 

尾崎豊のとある曲の中の表現から

 尾崎豊の曲に「Scrambling Rock’n Roll」というのがある。その歌詞の中に「入り口はあっても出口はないのさ」という表現があるのだが、これは「コンコルドの誤謬」の概念を抽象化したような表現のように、私には思えた。いや、もう少し正確な書き方にこだわると、コンコルドの誤謬の概念を抽象化するのに、この表現はいいインスピレーションを与えてくれた。どういうことか、少し書いてみたい。

3通りの抽象化

 あらかじめ結論を述べると、コンコルドの誤謬について、以下の3通りの表現を示した。特にこの記事の趣旨に最も関係するのは β のパターンである。

 α : π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)

 β : O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1

 β' : iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

それぞれの記号がどういう意味で用いられたものであるかは、以下の本文を参照されたい。

コンコルドの誤謬とは

  「コンコルドの誤謬」(Concorde fallacy) というのは、「これまでこの方法でやってきたのだから、今更変更するのはもったいない」という、サンクコスト*1の評価に関する心理的なバイアスを指す行動経済学の用語である。もともとは音速で空を飛べるコンコルドの開発に関して、採算が取れないにも関わらず、既に注ぎ込まれた費用が莫大であったために、製造を中止して事業を撤退する決断を下すのに時間がかかったという逸話(事例)をもとに作られた言葉である。

形式的な表現

 コンコルドの誤謬は、記号を使って次のようにかなり単純に表現することができる。

π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)*2

π: profit,  π(X)=Benefit(X)-Cost(X), X=continue, exit

⇄:「にもかかわらず」を表す記号

P(X): Xとなる確率

コンコルドの誤謬の抽象化

 コンコルドの誤謬は、迷路になぞらえて言い換えれば、ある方法を採用した当初(入り口)に戻ることを拒否して、別の出口(ゴール)を探そうとするバイアスとも言える。どんな迷路も入り口からは出られるのに、それは拒否してゴールから出ようと意地を張ってしまう。ゴールというのは「理想的な解決策」であったり、それこそコンコルドに引っ掛けて言うなら「よりよい着地点」ともいえる。本当はスタート地点に戻るのが妥当であるのに、そのことをなかなか認めることができずに、きっとどこかにゴールがあるはずだと意地を張ってしまう状態とも言える。

迷路についてのイメージを媒介とした抽象化

 抽象化にあたって、迷路について私が抱くイメージが役に立った。コンコルドの誤謬の概念を抽象化するにあたって、なぜ「迷路」ということが関係するのか。これまでにいくつかの記事で、迷路(について私が抱くある種のイメージ)が、私がものを考えるときの核になっている場合があることを示してきた。それを振り返ることで、抽象化の内実がいくらか見えやすくなる。とはいえその全てを振り返ることは避け、ここではそのうち、「迷路との壁と道を選ぶ人間」を取り上げ、他の記事*3は簡単なコメントをつけて脚注へ回した。もし気になったら個々の記事を読んでいただければと思う。

過去の記事を用いた説明

 「迷路との壁と道を選ぶ人間」では、人間の選択を外から左右する要因と、それに対して自分の道を主体的に選ぼうとする人間の関係について書いた。そこでは、あくまでもゴールへ向かって進むことを前提としていたけれども、コンコルドの誤謬を抽象化した概念*4をここに当てはめると、迷路の中にいる人間には「ゴールへ向かって進む」だけではなく、「スタート地点へ戻る」ということも合理的な選択の一つとして加わることになる。それはある意味では「初心を忘れるな」ということでもあるかもしれない*5。このことをいささか教訓めいた言い方でまとめるとすれば、「迷路を進むとき、ゴールだけがゴールとは限らない」というところだろうか。進むということを意識すると、どうしても未来の方へ意識が行きがちで、スタート地点に戻るというのが過去へ戻ることのように感じられ、ためらいがちになるかもしれないが、過去へ戻るということが正しい選択である場合もあるのだ。きちんと考えたならば、ためらわずに入り口へ戻ればよい。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

抽象化の過程

 一般に何かを抽象化するときには、その対象のうち本質的な部分のみを取り出し、本質とは関係のない他の部分は思い切って捨てる。この「捨てる」ことの方を「捨象」と呼ぶ。ではコンコルドの誤謬の概念を抽象化するというときに、私は何を捨象したのかといえば、それは計測可能なコストの概念である*6コンコルドの誤謬では、あることがらを続行するか否かを判断するのに、続行した場合のコストとベネフィットの差(つまりプロフィット)、そして続行しない場合のプロフィットを比べて、よりプロフィットの多い方を選ぶ場合に、本来であればプロフィットの多い方が選ばれるのが合理的であるはずなのに、実際にはそうならないということが問題になる*7。そこでコストの概念が出てくるわけだが、コストを意識しなくても、人間は初めから特定の選択肢が見えなくなっている場合がある*8コンコルドの誤謬の場合もそうで、意識されなくても同じ結果になるのであれば、思い切って捨象してもいいのではないかと私は考えたわけである。その結果が、上述の教訓めいた表現として結実したということになる。

形式的な表現

 これについても、記号を用いた簡潔な表現を与えておくことにする。

O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1 *9

i{n(option[x])}: xについて、ある特定の個人の視点i ( i = O, S ; O: Objective, S: Subjective)から捉えられた選択肢(option)の数

⇄:「にも関わらず」を表す記号

抽象化を重ねる

 さて、記号を用いた表現を与えることもできたので、記事のタイトルにもあるようにコンコルドの誤謬の概念を無事に抽象化できてめでたしめでたし…とここで終わりにしてもいいのだが、この抽象化はもう一段抽象化が可能なので、それを示すと次のようになる。

iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

 特定の人物にとっての客観的な選択肢の数と主観的な選択肢の数を比べていた先ほどとは異なり、今回は iAとiBは別人物であっても構わない。また選択肢の数も一つや二つではなくもっと多くても構わない。要するに一方の人物にとっての選択肢の数が、他方の人物にとっての選択肢の数よりも多くなるということであって、これは取引なり交渉なりにおける「情報の非対称性」についてのある種の形式的な表現といっても差し支えないかもしれない。コンコルドの誤謬について、迷路に対して私が持っているイメージを媒介としてそれに形式的な表現を与えて抽象化を行ってみた結果、思わぬ形で「情報の非対称性」という別の概念とのつながりが示されたのは、私にとってちょっとした驚きであった*10。ある概念を変形していくと、いつのまにか別の概念と通じているというのは、トポロジーにおけるドーナツとコーヒーカップ、あるいはトポロジーに限らずより一般にいえば、同値な変形ということを思わせなくもない。

経験から得られたことを整理するということについて

 経済学を学んだ経験と、行動経済学に関する本を読んだ経験と、小・中学生の頃に迷路を書いていた経験、中学生の頃からずっと尾崎豊の曲を色々と聴き続けてきた経験など、これまでの私の経験のいくつかが、少しは整理されたように思う。全くもって個人的な、単なる自己満足に過ぎないではないかという誹りを免れないかもしれないが、経験を通して記憶に残っていることがらを整理していくことは、自分のものの考え方の原理なり核なりを点検する営みとして、少なからぬ満足感を覚えた。最近、ショウペンハウエルの『読書について』と『知性について』の中に収められたいくつかのエッセイを読んだ影響もある。ただ蓄えるだけではなく、それを整理しなければ使い物にはならない。最後に少し引用する。

 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

(ショウペンハウエル『読書について』(岩波文庫)思索 p.5より)

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

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CODE VERSION2.0

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CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

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*1:英語では「sunk cost」。「埋没コスト」とも呼ばれる。すでに負担してしまった費用のことを指す。取り返しはつかないのだから、すでに払ってしまった費用について考えてもしょうがないというのが理性的な判断なのだが、人間は「これまでにこんなに払ってきたのに…」と気にしてしまうバイアスを抱えているらしい。

*2:ここではコンコルドの誤謬の元の逸話に忠実に、「続行」(continue)と「撤退」(exit) を用いたが、この定式化を抽象化して、 π(A) < π(B) ⇄ P(A) > P(B) とすると、本質を損ねずに概念の汎用性を高めることができる。なおこの抽象化は、本文で論じる抽象化とは異なるので注意が必要である。

*3:古いものから順に取り上げる。

[1]「よい面を活かすことのむつかしさ」では、人間の創造性と科学に基づく予測について、特定の経路を選択することがどの程度妥当なことなのかということを扱った。この記事の中でも「迷路との壁と道を選ぶ人間」が登場する。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

[2] 「興味がないものは、視界に入っていてもちゃんと見えてはいない」では、自分と相手が同じ単語を使っていても、それについて同じように認識しているとは限らないということについて書いた。その言葉の例のひとつとして、「迷路」という言葉を挙げた。いくつかの記事でこの言葉を使ってきたので、その一つないしいくつかを読まれた方であれば、私にとって「迷路」という言葉がどのような意味を持つものであるかということが、多少はわかってもらえるかもしれない。もっとも、私自身、この言葉について十分に理解しているとは限らないし、またそれを適切な表現で伝えることができている保証もない。

 当たり前といえば当たり前のことであるが、むしろ当たり前であるがゆえに、現実のコミュニケーションにおいてはしばしば忘れられがちであって、その結果生まれる自他の間の齟齬の原因がこの「当たり前」のことであることに気付けなかったりするものだ。 

plousia-philodoxee.hatenablog.com

[3] 「文体という建築、或いは文体という迷路」では、私にとっての迷路のイメージについて、一つの段落を割いて書いている。私にとって迷路という言葉がどういう意味を持つのかということをつかむのには、とりあえずこの記事だけでも読んでみるというのが一番手っ取り早い方法と言えるかもしれない。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

[4] 「分裂する他者」では、文章全体に渡って「迷路」という言葉が使われている。記事自体の主題は、私にとって迷路を描くことが他者を理解するための一つの方法だったということである。「ユーザーベース」や「ユーザーファースト」という言葉があるが、私の場合は迷路を作る経験が、ユーザーについて考える経験になっていたとも言えるかもしれない。 

plousia-philodoxee.hatenablog.com

[5] 「みかん」では、これまでに作ったことのないものを作るということの、私にとっての身近な例として迷路を挙げた。記事自体の大まかな内容は、「みかん」をどう説明すればいいかということを通じて、実体論と関係論のどちらも私には信用ならず、当時私の中でブームだったネットワーク科学もまた、みかんを説明するのにそれほど役には立たないということだ。そしてみかんをちゃんと説明できるようになれば、これまでの私の人生においてそれなりに意味を持っていると考える迷路についても、ちゃんと説明できるようになるのではないか、さらにそこから、自分とはどういう人間であるかということを考える糸口がつかめるのではないかといういささかの希望も、そこには込められている。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*4:注意深い読者は、コンコルドの誤謬を抽象化した概念なるものについて、私はまだ一切の定義を明らかにしていないことに気付かれたかもしれない。もちろん定義を与えないで文章を締めくくるのは論外なので、後にいささか教訓めいた表現によって、定義を与える。しばし未定義のまま読み進めて頂きたい。

*5:「ある意味では」や「かもしれない」などと断定を避けた書き方をしたのは、「初心を忘れるな」と言う言葉を世間で用いられている意味で使うとすれば、ということで、この言葉の本来の意味は別のものであるからだ。初心に帰るというのは、何かを始めた頃の自分を思い出すということではなく、自分にもまだ不慣れな初心者の頃があったのだということを思い出すという意味である。例えば下の2つのサイトのページなどで詳しく解説されている。この言葉は世阿弥の「花鏡」の結びの一部「初心忘るべからず」がルーツであるらしい。

(1) http://blog.share-wis.com/?p=425

(2) http://www.geocities.jp/michio_nozawa/03episode/episode38.html

*6:この点が先に記号を用いて行った抽象化とは異なる点である。二つの抽象化が出てきてこのままでは紛らわしいので、ここでは仮に、コストの概念を捨象した抽象化の方を「抽象化β」、記号を用いた方の抽象化を「抽象化α」と呼ぶことにする。すでに示した π(continue) < π(exit) という形の定式化では、抽象化した後にも「π」の記号が残っており、πの定義上、コストの概念は必ず含まれるので、コストの概念は捨象されていないといえる。それでは抽象化αの方では何が捨象されたのか(言い換えれば何に目をつむったのか)といえば、continueやexitといった個々の行動の内容である。このように、一口に「抽象化」といってもその結果は一通りでなく、何を捨象するかによって抽象化の結果は異なるのである。

*7:この点は既に記号を用いた定式化の箇所でも触れた。

*8:特定の選択肢が初めから見えなくなってしまっているというのは、オプトインとオプトアウトについての議論と関連する論点を含む。キャス・サンスティーンの邦訳最新作である『選択しないという選択』では、ネットの利用において、何もしなければデフォルトでは選択したことになっていて、もしも選択しないならばわざわざ自分でチェックボックスからチェックを外さなければならなくなっている「オプトアウト」の仕様と、自分から選択ボックスにチェックを入れなければ選択したことにはならない「オプトイン」の仕様の二つを取り上げ、近年では意図的にオプトアウトが多用されていることの危険性を指摘している。この論点は既にいくつかの記事で私も目にしたことがある。いや、むしろこういう論点なり問題意識なりが以前(おそらく盛り上がりを見せるようになったのは数年前)からあって、それをある程度体系的な形でまとめたものがサンスティーンの同作であったという順序であろう。ここではGIGAZINEの次の記事を挙げておく。

gigazine.net

 あるサービスについての特定の仕様が、知らず識らずのうちに私たちユーザーの行動を方向付けたり、時にはそのうちの一つに決定しさえする現実への危険性という意味では、『CODE』においてローレンス・レッシグが人の行動を制約する要因として法 (law)、規範 (norm)、市場 (market) に加えて4番目の要素として指摘した「アーキテクチャ」(architecture)の概念を巡る議論とも接続する内容である。

*9:こちらは少しわかりづらいのでコメントをつけておくと、客観的には選択肢の数が二つあるにも関わらず、主観的には選択肢の数が一つしかないということを表す。

*10:もっとも、コンコルドの誤謬と情報の非対称性の二つの概念が、ある種の形式的な表現においてはお互いに通じているということについては、もう少し丁寧な検討を要するという気もしている。これについても、いずれ整理された形で示すことができればと思っている。

ポスト真実を考える前に

 

AbstractなAbstract

 今回の記事は8246字とそれなりに分量があるので、本論へ入る前にこの記事全体の構成を示す。それはアルファベットを使った記号で単純化すると、

D→Q[present]→V(α→β)→P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])→Q'[present]

と表現できる。Dは定義、Qは問題提起、Vは視点を指し、流れを大まかにいえば「ポスト真実」という言葉の定義から始めて私なりに問題提起を行い、それについて2つの視点から考察を行い、それが実は私がこれまでにいくつかの記事を通じて考えてきたことと通じるということを示し、最終的には当初の問題提起を少し修正したところで議論が終わる。もう少し詳細に各記号が何を指すかについては、以下の本論で随時示したので、それを参照しながら議論の細かい流れを追ってほしい。全体を通して私の中にある基本的な考え方は、個人の努力に期待するのは困難であるので、その前にまずは前提条件の方を整えたり改善したりする方が建設的なのではないかということである。個人の努力を軽視するつもりはもちろんないが、現実にそれが十分発揮されているとは思えないのである。

ポスト真実の定義と問題提起:D→Q

 アメリカ大統領やイギリスのEU離脱を巡る国民投票などをきっかけとして、「ポスト真実」(post-truth)ということが盛んに言われるようになった。 かつては「真実が何であるか」ということが問題であり、人々に真実を伝えることが重要であったが、もはや人々は真実が何であるかなど求めておらず、「聞き手にとって嬉しいことであるか(基本的には自分が豊かになれるか)」ということが重要であるというような事態を指す言葉、端的に言って真実が重要であった時代のあと(ポスト)の状況を指す言葉として用いられる。これが定義(Definition:D)である。

 しかし私は、この言葉を使って議論をする前に、まずは人々に真実を伝えることを徹底させる方法を考え、それを実践することを優先するべきではないかと思う。真実を伝えるやり方がよくないだけで、うまく工夫して伝えれば、人々は今でも真実を受け入れるだろうと私は考える。それでもなお人々が真実を拒絶し続けるというのであれば、そこで初めて「ポスト真実」なるものについて考えればいい。

    なるほどネットの登場以降、調べれば大抵のこと(真実)はわかるはずであるのに、それでも実際には人々は真実を無視したような決定、あるいは真実を知っている人間であれば本来は不合理であると考えるはずの決定を下してしまうというのがポスト真実を主張する人間の言い分だろう。しかしそこで前提となっている「真実は調べれば簡単に見つかる」というのはそもそも妥当だろうか。

 ここで、「ポスト真実」について考える前に、より多くの人により多くの情報が届きやすくなる方法の可能性を考えるべきだと私が考える根拠を先に述べておきたい。それは人々が今も本を読み、専門家の話を聞きに行ったり、その動画をYouTubeニコニコ動画などで見たりしている現実が確かにあるということである。もちろんその数は人口全体から見れば一部であるが、それが一部であるのは、そういうことに関心がない者が多いからというよりも、そういうものを求めていても、どこから手をつければいいのかがわからないということが原因なのではないか。これは言ってみれば、勉強しなければいけないのはわかっているが、どの参考書や問題集から手をつければいいのかわからない受験生と同じである。

 もちろんこれは私の主観的な推定に過ぎず、実際には真実を知ることに関心のない人間ばかりである可能性もある。議論の根拠は客観的である方が望ましいという立場からすれば、これはいささか心もとなく、そうかといって国民全員に聞いて回ったり、あるいはそれに代わる客観的な確認の手段を私が持っているわけでもない。けれども反対に、真実など求めていない人間ばかりと客観的に示されたわけでもない。つまり「ポスト真実」を主張する側も、トランプ大統領の勝利やアメリカ国内の市民の様子、あるいはイギリスのEU離脱に関する国民投票における世論などを根拠にしていても、それが「ポスト真実」の証拠であると考えるのはあくまで主観的な推定に過ぎない。

 したがって、ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」と同様のロジック、つまりブラックスワンは存在しないと証明されたわけではないならば、ブラックスワンが存在する可能性を残しておくべきであり、存在する可能性をもとに議論を組み立てることにも一定の価値があるのと同様に、真実を求める人間がいないと決まったわけではないならば、その存在に賭けて議論を組み立てることにも一定の価値があるのではないかということだ。そして少なくとも真実を求めている人間全員にそれが届くまでは、ポスト真実を考えるのは待った方が、長い目でみればプラスなのではないか。これは冒頭で触れたアメリカやイギリス、あるいはフランスやドイツ、そして日本も含めて「ポスト真実」とその潜在性が問題とされている国の全てで言える。市場のアナロジーでいえば、まだ開拓可能な市場は残されているのに、「もうこれ以上は無理」といっていささか尚早にそこから撤退しようとしてはいないか。

 ネット上にアクセス可能な情報が豊富にあるということと、実際に人々がそれを参照しているかということは別であるが、「ググればすぐにわかるのに」と言う人はこの二つを混同してはいないか。この二つを混同しているとそこから先の議論はあまり実のあるものにならないのではないか。ググればすぐにわかるにも関わらず、実際には人々はググらないというときに、真実に関心がないからと考えるか、真実を知るための手間をかけられないだけなのではないかと考えるかでは、そこから先の対応が変わってくる。そして私は、現実に起こっているのはどちらかといえば後者の事態ではないのかと思うのである。つまり人々は真実に関心があるが、単にそれを知るための手間をかけるゆとりがないか、より簡単に真実を知ることができるようなシステムが現時点では存在していないだけではないか、と。もっともこの2つは、同じといえば同じである。これが私の現在の問題提起(Question:Q)Q[present]である。

 もっとも、ポスト真実について語る人間の思いもわからないではない。先に述べた「届きやすくなる仕組み」などもう存在しないということを前提にすれば、その先の事態としてのポスト真実について考えることにも一定の妥当性がある。ただし考える者にとってそんな方法はないように思えるということと、そんな方法が原理的に存在しえない、または現実に存在しないということは別である。そしてたとえ「現実に存在しない」ということの方が示されたとしても、「原理的に存在しない」ということの方が示されたわけではないならば、ポスト真実について語る人間にとってその方法が存在しないと想定されていることを理由に、そういう方法を考えないというのは妥当でない。まだ期待する余地はある。

もっと簡単に真実を知るために:Vα→Vβ

 DからQへ進み、そこから先へ進むことを考える。社会で起こる問題に対して、日々いろいろなメディアから多くの記事が書かれ、それにいろいろな人が反応するが、結論や参照している情報が似たり寄ったりの記事も少なくない。そういう記事がいくら増えても、言葉の厳密な意味で「情報」が増えたとは言えない。誰も指摘しなかったこと、あるいは誰も参照しなかったような情報を参照しなければ、情報は増えない。ある記事やそれに似たり寄ったりの記事が大量に複製されて人々に共有されても、人々がそこからさらに進んで考えるようになるとは限らない。すでに指摘した通り、考えるための「ゆとり」がないのだ。何のことはない、朝から仕事があり、夜遅くではないにしても、帰宅してから政治なり経済なりについて時間をとって考えるのは疲れていて面倒であるということだ。そしてこれに加えて、ゆとりがないために、何かについて真実を知るために自分で考え続けるという経験に乏しい人間は、単に不慣れであるという理由から、自分で考え続けることができないという事情もあるだろう。そこでまずは、より多くの人の頭の中に、より多くの情報を入れるための効率的で実現可能な方法を考えるのがいいのではないかと思う。まずはある視点(Viewpoint:V)を足がかりにして考える。

視点α:情報を発信する側の工夫

 より多くの情報を人々に伝えるために、まずはある問題に関して人々へ発信する情報の量を増やす方法を考える。その具体的な方法として、「他の国ではどうか」ということを紹介する(国際比較)というテクニックがある。「日本では〇〇である一方、アメリカやフランスでは□□、そして中国では△△である」という書き方である。これは時々見かけるし、こうした国際比較を行う記事は少しずつ増えてきていると思う。けれどもまだその数は十分とは思えない。海外の事情について、日本語で知ることのできる情報はまだ限られているので、英語で書かれたソースを参照するというのも有効である。これならけっこう多くの人間がやろうと思えばできる。英語で何かを読むということによって出会えるものということについて、私は以前に記事を書いた。

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 そしてフランス語やドイツ語、あるいは中国語や韓国語ともなるとできる人間の数はもっと限られてくる。さらにその内容は、それを担う人間が専門家であることを反映して、自然と専門的な体裁を取りやすくなる。国際比較は個人の努力に期待する方法のひとつと言えるが、一般にこういう方法はハードルが高い。国際比較に限らず、固有名詞や統計や引用などのテクニックを用いた情報量が多い記事が少ないことを考慮すれば、自ら進んで努力をしようという人間は、たとえそれが記者であっても少数派であるというのが今の現実であるとわかる。これが視点α(Vα)とその限界である。そこで別の視点β(Vβ)を考える。

視点β:技術

 そこで、情報を発信するために個人が行う努力に賭ける前に、情報を発信するためにその個人が利用できる技術(テクノロジー)のレベルと上げるという方法も考えられる。ここで個人と言うのは、技術を使うことに長けた人間に限らず、一般的な個人、つまり大衆の中の平均的な個人を想定している。一部のインフォグラフィックスを作ることに長けた人間や、膨大な資料なりデータなりをうまくまとめるアカデミックなトレーニングを積んだ人間などではなく、自分のサイトを作っているわけではないが、TwitterFacebook、あるいはブログで何かを書くくらいはしているというような個人である。たとえば他言語から日本語への翻訳について、Google翻訳の精度が上がれば、状況は改善に向かう可能性はあるが、日本語の文法の特殊性や日本語訳された外国語のデータの量が少ないことなどが原因で、なかなか精度は上がらない。かといってGoogle翻訳の他に方法はないのかというと、今のところ「これは」と思う方法が見当たらない。

 そして、仮に発信のための手続きを簡略化する何らかのテクノロジーが存在したとしても、つまり視点βの問題はクリアしたとしても、人々の元にそれが届きにくいままでは、その効果は限定的である。したがって、届きやすくなるシステムも考えなければならない。上に挙げたような情報発信のための技術よりも、私はむしろこちらの方が問題ではないかと考えている。これが視点βの先にある問題である。結論ありきや予定調和にならぬように注意しなければならないが、この問題はこれまでの私の問題意識と通じると私は考えている。先へ進むために、一旦あえて過去へ戻る。これがβの先、過去に辿ってきた経路(Path:P)である。

これまでの私の問題意識とどう通じるか:P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])

 これまで辿ってきたような筋道を経て、私はポスト真実について考える前に、私がこれまでにいくつかの投稿で考えてきたこと、つまり検索エンジンの抱える問題を考えるということにつながってくる。これは私が過去に辿った経路(P)である。それは私が過去に行ったある問題提起(Q[past])から始まる。つまり、そもそもより多くの人間により多くの情報が届きやすくなるシステムとして生まれたものが検索エンジンではなかったのか。それにも関わらず、検索エンジンが機能不全を起こしているとすれば、ポスト現実について考えるよりも前に考えるべきは、実は検索エンジンのことなのではないかという疑問である。

 検索エンジンが人間との関わりの中で抱える問題について、私が初期の頃に考えていたことは、記憶と思考の関係ということであった。つまり検索エンジンで多くの情報を集めて考えるということと、自分の頭の中にすでに蓄積され整理された情報をもとに考えるということは異なる。それでは検索エンジンはどの程度人間を賢くするかという問題意識である。以下の2つの記事の主題はこのことであった。

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  自分の記憶に蓄積された情報が、ある問題を考えるために十分な量でない場合、まずは多くの情報を集める必要がある。その際に検索エンジンが用いられる。以下では集めた情報を元に考えるということよりも以前の段階、つまり「情報を集める」という段階について、私がこれまでに考えてきたいくつかの視点を取り上げる。これらは上の2つの記事で扱われている問題の前段階(Preliminary Stage:PS)について考えるための視点(Viewpoint:V)と位置付けられる。視点は5つあり、それらを経由して、当初の問題提起Q[present]はいくらか書き換えられる。それがQ'[present]であり、この記事の終着点ということになる。

視点1 時系列に沿って考えるということ(通時性)

 検索エンジンの抱える問題として、ある特定の問題について時系列に沿って情報を得ることが容易でないということを、 以下の記事で書いた。検索エンジンには期間指定の機能があるが、それはあるページが書かれた期間、あるいはそれが更新された期間を指定することであって、必ずしも特定の問題に関する議論を時系列に沿って理解するのに向いているとは限らない。そして特定の問題について時系列に沿って考える場合に、その国や他の国あるいは地域で過去に似たような事態が生じた例はなかったのか、もしそういう例がある場合、そのときはどういう風に事態は進み、当時の人々はどういう対応をとったのか。そしてその対応はうまくいったと評価できるのか、今起こっている事態と条件が異なる点はないのかなどということを考えることもできる。これは通時性に対する意識であって、歴史についてどれほどまともに考えたことがあるかという個人の経験に依存する意識であるかもしれない。

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視点2 ある程度の時間をかけて情報を集めて考えるということ

 あるいは、ある問題について考える場合に、そもそも時系列に沿って考える以前に、一定の時間の幅をもって考えるということがなされないという問題もある。個々の問題について、その瞬間その瞬間の反応ばかりが蓄積されていって、後からまとめて振り返るということがなく、時間が経てばすぐに忘れられていく。事実なり解決策が見えたあとで忘れられていくならばまだしも、そういうものが明らかになる前に多くの人が飽きてしまう。しかも飽きる原因を作っているのは、同じような報道を延々と繰り返すメディアであったりする。情報は、常に短期で評価されるべきものとは限らない。一定の時間をかけて評価が可能になる情報もある。そういうことについて、以下の記事で論じた。

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視点3 ランキングの生み出す食い違い

  あるいは検索エンジンが行うランキングについて、客観的なルールで記述されたランキングと、自分個人の主観的なランキングとが食い違う場合がある。これがどう問題なのかと言うと、例えばA、B、Cという3つの情報があり、ある個人が時間の制約で3つのうち1つか2つしか参照しないとする。ここで今のGoogleのランキングのルールではBACの順にランクづけされたとすると、この個人は情報Cは参照しない。しかし可能性としては、実は情報Cこそが、この個人が求めていた情報であるということがありうる。この個人の主観では、CABというのが3つの情報のランキングであるというような場合である。この「食い違い」の問題について以前に記事を書いた。

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視点4 そもそも検索エンジン以外の方法はないのか

 ここまでの3つは検索エンジンが問題であるという前提で考えてきたが、そもそも検索エンジンのしくみについての形式的の記述をチューニングする(要するに検索エンジンを支えるプログラムの問題)以外の方法はないのかということも考えられる。キュレーションやSNSRSSフィードなどを形式的に記述したルールを変更・修正するという方向性はどうかということも、以前に考えた。

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視点5 すでに存在している情報の単位が適正なのか

 現在、インターネットには様々なページが存在しているが、そもそもある問題について理解するために、「ページ」という単位は適正なのかという問題もある。「答え」(真実や解決法)を知ることが目的なのであれば、文章中の特定の一文や段落といったページよりも小さな単位、あるいは逆に複数のページが集積されたサイト全体や複数のサイトの複数のページといったページよりも大きな単位を基準に考える方が妥当である場合もある。別の言い方をすれば、あるページの中の特定の部分だけを抜き出した方がいい場合や、特定のページだけでは不十分なので複数のページをうまく組み合わせなければならない場合などについて、ケースバイケースで判断しているのは、今の時点では人間であるが、そういう判断を大衆の努力に委ねてもゆとりがないなら実現は困難なのではないかと私には思える。だから人間に代わって、なるべく恣意性を排した形(誰の目にも明らかな偏りを含まないような形)でその判断を自動的に行えるシステムを作るということができないか。そういうことについて以下の記事では考えた。

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結論:Q→(Vα→...→V5)→Q'

 ポスト真実について考えるよりも前に、考えるべきこと、考える余地のあることがまだいくつもあり、しかもそれらは長期的に見てポスト真実について考えるよりも人類全体にとって資する。これはポスト真実などスルーして、デマやフェイクニュースの削除を効率化しようとし続けているGoogleFacebookとも共通した問題意識なのではないかと私は考えている。彼らもまたそういう意識で考え、動いているのではないか、と。 これが当初の問題提起(Q)を一定の順序で修正した問題意識(Q')である。ポスト真実、フェイクニュース、キュレーション、デマ、集団思考などの言葉が雑然と織り交ぜられて議論が展開されている状況について、一定の整理された見解を与えることができれば幸いである。