パリでのテロについて、補足的に考えたこと

先日パリでのテロについて記事*1を書いた。そのあとで追加的に考えたことがある。それは「記憶」と関係するので、一つの独立した記事としてここに残そうと思う。

 イスラム国と欧米諸国の対立は、「のびたの記憶」と「ジャイアンの記憶」の対立なのではないかとふと思ったのである。

 

 ジャイアンに色々と嫌な思いをさせられることの多いのび太の方が、いじめられたその出来事について、いろいろ細かいことまで覚えているだろう。ジャイアンの方は、「そんなことあったっけか?」といじめた出来事があったことすら覚えていない場合すらあるのかもしれない。その記憶内容や質の違いというのは、のび太が被害者であり、ジャイアンが加害者であるという違いに起因するのかもしれない。

 「いじめた・いじめられた出来事」というのは、客観的事実としてはある一つの共通の出来事をさしている。しかしそれにどの立場から向き合ったのかは異なる。そこに記憶の差が生まれ、記憶の差は思い出されたときの認識の差を生み、歴史をめぐる対立というのは、そういう立場の違いによる記憶内容の違いにさかのぼって考えなければならないのではないか。

 イスラム国はのび太の側、欧米諸国はジャイアンの側にいる。「記憶」というのは、ここでは両者の「歴史認識」とも言い換えられる。する側とされた側の記憶の差異、自分の実存に及ぼす影響の違いも異なる。だからその差異を考慮すれば、する側とされる側に共通の歴史はあっても、共通の歴史認識は存在しないといえる。或いはそれを記憶することの重要性も異なるだろう。

 

 今回テロを受けて、パリの人々は、或いはパリの人々に共感する世界中の人々は、ジャイアンからのび太になる瞬間があったのではないか。これだけ世界中の人々がテロへ反応しているのは、彼らがのび太の側の人間としてものを記憶したはずなのだ。そこに対立を解消する道が開けてくるような気がしている。

 ちょうど昨日だったか、こういう記事を目にした。

www.huffingtonpost.jp

この記事の中で、テロによって妻をなくした男性が文章を書いている。それをここに引用しよう。

あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。

13日の夜、あなたたちは特別な人の命を奪いました ―― 私が生涯をかけて愛する人であり、私の息子の母親です。 しかしあなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。私はあなたたちが何者かを知らないし、知りたいとも思いません。あなたたちは魂を失った人間です。彼のためには殺人をもいとわないほどにあなたたちが敬っている神が自分の姿に似せて人間を創造したのだとしたら、私の妻の体に打ち込まれた全ての銃弾は、彼の心を傷つけたでしょう。

私はあなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません。憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように無知の犠牲者になるだけです。あなたたちは私が恐れを抱き、同胞に不審な気持ちを持ち、安全に生きるために自由を失うことを望んでいる。あなたたちの負けです。

今朝、私は彼女に会いました。この数日、ずっと待ち望んでいた再会です。金曜日の夜に外出した時と同じように彼女は美しかった。12年前に私を夢中にさせた時と同じように美しかった。もちろん私は痛みに打ちのめされています。その点については、あなたたちは少しは勝利をおさめたのかもしれない。しかし痛みは長くは続きません。彼女はこれからも私たちと共に生き続けます。そして私達は再び自由に愛しあえる楽園で会えるのです。そこは、あなたたちが入れない場所です。

私と息子は二人きりですが世界中のすべての軍隊よりも強い。これ以上あなたたちのために使う時間はありません。メルヴィルが昼寝から目を覚ましたので、彼のところに行きます。彼は生後17カ月。普段通り食事をし、私と遊び、そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あなたたちに勝利するでしょう。彼もあなたたちに憎しみ抱くことはありませんから。

  この男性がこうして妻をなくした悲しみを抱えているのとちょうど同じように、かつて爆撃と民間人惨殺の被害にあったイスラム圏で育ったイスラム国の人々もまた悲しみを抱えているのだろうと思う。それでテロが正当化されることはない。

 

テロは非人道的な行為である

魂を失っている

そうではない

そう考えるのではない

そう考えると見失ってしまうものがある

どうして彼らはテロを選んだのか

どうして彼らは人を殺すことを悪だと知っていながら、それでもなお人を殺すのか

そういう風に考えなければならない

 

人間にはそういうところがあるのだ

悪だと知っていながら悪をなす

そういうところが誰にもあるのだ

それはテロリストのような一部の悪人の中だけにあるのではないのだ

私にもそういうところがあるのだ

だから私だって悪人なのだ

私とテロリストたちとは、異なる側にいるのではない

人間として同じ側に立ち、それでいて違ったところに立っている

そうして私たちの間では記憶が異なっているのだ

 

 彼らはこの男性がいうような意味での「無知」なのではない。殺人が罪であると、彼らだって知っているだろう。それでも、自爆という形で自らの死をも堵して人を殺しているのだ。

 ジャイアンのび太の側に立つことができた時に、それまでの自分の大雑把な記憶と相手の痛ましく詳細な記憶との間の差異に気がつくだろう。それによって和解の地平が見えてくるのではないだろうか。

 

【追記(11月21日)】

ジャイアンの側でなく、のび太の側にも立って語っている記事をいくつか見つけた。

[1]11月16日の三浦瑠麗さんによる記事。テロの前日に有志連合の空爆によって死亡したイスラム国のジハーディー・ジョンの話など、「のび太」としてのイスラム国側の人びとの立場にも立ちながら、政治学の枠組みの中でいかに和解に向けて進んで行くかということを考えている。そのための方途として彼女が指摘することを引用する。

求められているのは、交渉可能な当時者を特定することであり、停戦の合意を模索することであり、諸勢力が宗教的寛容を受け入れることです。その先には、新たな悲劇を生み出さないための難民のへの支援があり、経済を再興するための国際社会の足の長い関与と援助が必要です。教育を通じて多様性を育み、無知と憎しみの連鎖を断ち切ることです。

 アメリカやフランスを中心とする有志連合による中東への軍事介入では、イスラム国は滅ぼせたとしても、また新たな「イスラム国的なもの」を生み出すだけだろうという指摘は尤もだと思う。なぜ彼らがそのような行動をとったのかという背景、彼らの声に思いを馳せるということをしないままに軍事力による抑圧を図っても、それは本当の解決ではないだろう。

 三浦さんの論の軸である「コンパッション」(共感)をもとに、国際情勢の全体としての動きを見つつ、その中でイスラム国や中東、イスラム教徒の人々の声に耳を傾けようとするバランスのとれた内容だと感じた。

blogos.com

[2] 11月16日、酒井啓子さんの記事。タイトルを見るだけでバランス感覚が現れていることが読み取れる。

 かつて日本に留学していたシリア人女性の言葉と、パリでのテロの際に実行犯の男性が口にしていた言葉を軸として、パリでのテロの前日にベイルートで起こった爆破事件にも触れながら、イスラム国やシリア国内の人々の側の思いを汲み取ろうとする。酒井さんがこうしたイスラム側への配慮を忘れないでいられるのは、彼女が中東情勢の研究者であるという事情もあるけれども、この記事が多くの「いいね!」やブックマークを獲得しているところを見ると、特に中東研究者でなくとも、ごく自然な感覚としてイスラム側の人々の思いにも寄り添うことのできる人々が少なくないことを感じ、嬉しい思いがする。

www.newsweekjapan.jp

[3] 11月18日、広瀬隆雄さんの記事。冒頭で宇佐美典也さんの記事*2を取り上げ、「テロを肯定してはいけないのは、テロが民主主義の普遍的なルールに則っていないからである」という同記事の基本的な主張に同意しつつも、イスラム国側の人間がなぜ暴力に訴えたのかというところが書かれていないと批判し、イスラム国の人々やイスラム教徒の人々がヨーロッパとどう関わり、またフランス国内でどう扱われてきたのかということを述べる。私も宇佐美さんの記事には欧米中心的な歴史観が透けて見えるために違和感を覚えた。宇佐美さんの記事ではこの主張の根拠として民主主義の成立過程を

A.自然状態

B.王権の成立〜暴力の独占

C.王権の打倒~民主主義の成立

という三段階に分けて説明しているが、これはまさにヨーロッパ史の要約でしかなく、そこに中東の歴史は見当たらないのだ。ここからはヨーロッパから見た中東を断ずる論理しか生まれてこず、テロという行為もまたヨーロッパの側の文脈からしか解釈されず、テロの当事者自身の論理を見据えようとする意識、つまり「当事者性」を問う意識が抜けていると感じる。これはあくまでも民主主義というシステムを作り出した「ジャイアンの歴史」であって、「のび太の歴史」ではなく、したがって「ジャイアンのび太二人の歴史」でもないといえる。

 広瀬さんの記事は、双方の立場に立つというよりは、宇佐美さんの記事とのバランスを取るべく「のび太」の側に立つことを軸に展開された記事であるといえる。

blogos.com

[3] 11月21日、奥山真司さんの記事。ここでは「ISISが24時間対応のテロリスト用相談窓口を持っている」*3という海外のニュースをきっかけに奥山さんが気づいた二つのことが述べられる。

一つ目はISのテロリストも人間であるということ

二つ目はISのテロリストたちも必死であるということ。

 ニューヨークタイムズ紙のコラムなどではイスラム国を悪魔化して扇動的な内容の記事が目立つという指摘は私も同意する。Twitterのタイムラインを見ていても同様の印象を抱く。そして自爆テロを実行するイスラム国の人々もまたビクビクしながらそれを実行しているという指摘にはある程度同意できるものの、本当に彼らの立場に立てているだろうかと疑問に思う部分もある。この代理的な語りの根拠になっているのはニュース記事で紹介されたISISのテロリスト用相談窓口であり、それをもとにどこまで彼らの心性の深奥に迫ることができるのか、あるいは寄り添うことができるのかは、まだはっきりしない。時間のかかることだと改めて思わされる。中東やイスラム教について浅学な自分が情けなくも思える。

blogos.com

 紹介した記事はいずれも日本人の手によるもので、アメリカやフランスは恐怖の最中にあり、イスラム国側に立って語ることができている記事をアメリカやヨーロッパ世界の中に見つけることはできなかった。これにはもちろん私自身の語学力や情報収集の甘さもあるだろう。しかし先日紹介した、妻をテロで失いならもイスラム国の人々を憎まないと語ったパリの男性でさえも、彼の文章を読む限りテロリストの側に立ってはいなかった。あくまでも「こちら側」にいる自分から語っているのであって、相手はあっち側にいて、そっちへ踏み込んで行こうという思いをその文章の中に見て取ることはできなかった。

 ここで私は、以前に大澤真幸さんが佐々木敦さんとの対談*4の中で語っていたことを思い出した。つまり、ヨーロッパの人々は信仰を持っているといないとにかかわらず、キリスト教最後の審判を想定する考え方を自然に身につけている。だから社会で起こる問題について個人が「未来の他者」も含めた第三者の審級に沿って判断を下すことができる。日本で原発事故が起きたとき、ドイツがすぐに原発を全廃すると決断できた*5のは最後の審判を想定できる心性があったからだ、と概ねこういうようなことだ。

 しかしそのヨーロッパ人たちですら、アメリカ人たちと同様に「恐怖」(terror)に対して免疫がなく、恐怖を与える他者の側に立つことができないでいるテロ後の現状を見ていると、この問題の解決までの遠さを思わずにはいられなくなる。

 まとめると、今回のテロ事件では、被害に遭ったと報道されているパリの人たちやフランスの人たち側に立って彼らの思いを代弁する記事は次々と出ているが、テロを行ったイスラム国側の立場に立って語る人はほとんどいない。しかし報道されていなかったり、あるいは報道されていてもあっさりと流されてしまうイスラム国やイスラム教徒の人々の被害については、どれほど私たちは思いを馳せることができているだろうか。これには日本人がイスラム教徒と日常で接点がなく、彼ら・彼女らに対して馴染みがないという事情も関係しているかもしれないが、誰かと誰かが対立しているときに、その両方の声に耳を傾けるのが成熟した人間のあり方ではないだろうか。一方の人間の声だけを聞き取り、他方の声には耳をふさぎ、声を聞き取った方の人間に味方するのはフェアじゃない。

*1: 

plousia-philodoxee.hatenablog.com

*2:

blogos.com

*3:

www.nbcnews.com

*4:


佐々木敦×大澤真幸 テン年代のリアルとは? - YouTube

*5:この点について、11月30日に読んだ記事で知ったことを追記しておこうと思う。川口マーン惠美さんの著書『ドイツの脱原発がよくわかる本』の紹介文によると、「まさに悪戦苦闘。それでも脱原発へと進むドイツ。しかし、日本には、それを真似てはいけない理由がある。在独30年の著者が、日本人に知ってもらいたい真実を伝える、最新レポート。」ということらしい。私はまだこの本を読んでいないが、大澤さんの指摘とどう重なるか、あるいは重ならないかということを確かめる価値は十分にあると考えている。1500円でそれができるのならば安いものだ。

 参考:

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

ドイツの脱原発がよくわかる本: 日本が見習ってはいけない理由