丁寧にするということ

 塾で生徒に勉強を教えていると、教えることを通して逆に教えられるということがよくある。

 

「習うより慣れろ」式に、とにかく量をこなして解き方を頭にすりこんでいくタイプの学習法をやるタイプの子は、模試のときだけでなく、定期テストでも、解いたことのない問題が出ると途端に点が取れなくなってしまう。

 

そんなことが起きないように、生徒には「一問一問を丁寧に解き、よく考えて、そこから吸収できるだけのことを吸収すること」というのを強調して伝えるようにしている。

 

一番それが顕著に出るのが数学で、学校や塾で使っている問題集の答えを暗記するまで繰り返して解いても、「本質」とか「原理原則」がつかめていないと、「結局これは何をやっているのか」というところがわからないままになってしまう。そしてもちろんそういう状態では応用がきかない。

 

たとえば問題を一問解いたとする。答えも出せたし、それがちゃんと正解だったとする。しかし「解けたからそれでおしまい」にしてしまうのはもったいない。まだ学べることが残っていたりするからだ。「消化する」とか「咀嚼する」という表現を「食べる」という行為以外にも使うのは本当に素晴らしいアナロジーで、「よく噛めばよく消化できる」ということは何かを学ぶにあたっても極めて重要だと感じさせられる。

 

たとえばそれが方程式や関数ならば、「数字だったところを文字に変えて、求めたい文字(たとえば方程式ならx)について解く」ということをするだけで、「公式」が得られる。ひとたび公式を作ってしまえば、数字が違うが形は同じという問題には、公式を適用することができる。

 

数字を文字に変えて式を一般化し、適当な操作を行って公式を作れないか試してみるということをやるだけで、応用力がついていく。

 

解いた問題は一問、或いは数問でも、そこから公式を作ってしまえば、何にも考えないで十問、二十問解くよりもよほど高い効果がある。それは「本質がわかる」からだ。

 

 

「よく噛む思考」とでも言おうか、一つのことに丁寧に対処することは、バラバラに多くのことに対処するよりも、実質的には多くのことに対処することになっている。バラバラに計算問題を100問解くよりも、10問から徹底して学べるだけのことを学び尽くすという姿勢の方が、1000問分、10000問分、もっといえば無限の価値がある。それは深く理解することにより「公式」が得られ、それによって無限通りの問題に対処する方法を獲得できるからだ。

 

最近本を読むペースがかなり落ちた。ある時期の自分は、次から次へとテンポよく読むことに価値があるとでも考えていたみたいだが、近頃は方針が変わった。一冊一冊を熟読し、そこから学べそうなこと、自分が学べると思う範囲の最大限まで学びきってから次の一冊へ進むようになった。

 

自分は割と多くの本を読んできたけれど、必要なときにすぐに内容を思い出して、自在に使いこなせるように整理された形で記憶できているものはそのうちのごく一部に過ぎない。もちろん記憶することにだけ読書の価値があるわけではなくて、「こういう考え方があるということに気が付くきっかけ」「こういう風に考え方を改めることになるきっかけ」を得るための読書や、ただただ気分が満たされることをもって足りるという読書もある。

 

しかし「頭の中を片付けることで、考え方に柔軟性と幅や奥行きが出る」というところを重視して読書をするというのならば、やっぱり一冊一冊に丁寧に向き合うべきなんだろうと感じる。それは生徒を教えていて改めて考えさせられた。