Siriたち、或いはGoogleたちについて

 iPhoneに標準搭載されている音声ガイドのSiriは、使えば使うほど利用者の要求にあった対応ができるように学習していく。しかし多くの人はそこまで辛抱強くSiriを使い続けることはないのではないだろうか。一部のヘビーユーザーたちのSiriは、とってもとっても賢いだろう。そして他の多くの、おそらくは大部分のライトユーザーたちのSiriは、ずっと聞き間違いばかりしている。そしてそのうち、全く使われなくなる。Stay SilentなSiri。

 これは何も音声ガイドの領域にとどまらない。昨年から人工知能ブームが続いている。機械にどんどんデータを与えれば、機械はどんどん学習して賢くなっていくとされる。日常的に色々なことをググっている人のGoogleは、そうでない人のGoogleよりもずっと賢い検索ができるようになっているだろう。ヘビーユーザーとライトユーザーのギャップ。AさんのGoogleとBさんのGoogleは、おつむが違うのだ。

 ある企業の機械学習と別の企業の機械学習の学習スピードの違いよりもむしろ、同じ機械学習を使っていながら、ヘビーユーザーとライトユーザーの間で機械の側からのレスポンスの質に違いが生まれていることの方が、もっとずっと本質的な問題ではないかと思うのだが、そういう指摘はネットでは見当たらない。ネットでは人工知能といえば相も変わらず、「我々人類の仕事は人工知能にどれほど奪われてしまうのか」をめぐる冷静な研究者と熱狂的に恐怖を垂れ流す評論家の対立、或いは「介護ロボットで日本経済は復活するかも」のような、国家の行く末を特定の技術進歩によって打破しようといういかにも近代主義的な国民国家像を下敷きとする議論ばかりだ。世界の現実はグローバル化の方にある。

 さて本題に戻ろう。コンピュータをめぐる「デジタル・デバイド」というのであれば、FacebookユーザーとGoogleユーザーのギャップよりも、むしろFacebook内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップ、或いはGoogle内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップの方が問題だろう。なぜならそれは、個々の企業の方針の違いではなく、むしろ利用者の主体性によって、利用者たちが自ら生み出し拡大させているようなギャップであるからだ。何か気になることがあったときに、すぐにググる人のGoogleはどんどん使いやすくなっていくが、その場でパッと調べたりせず、「まあいっか」と流してしまう人のGoogleの精度はなかなか上がらない。もちろん協調フィルタリングによって、同じような類型の利用者どうしのデータの比較を通じたアップデートは進んでいるだろうが、ヘビーユーザーたちの精度よりは劣る。

 利用者がサービスからどれくらいの便益を享受できるかは、そのサービスをどれくらい使うかという利用者の主体性にかかっている。まるでポイントカードの割引サービスのようだ。しかし人工知能(正確には機械学習)を用いて展開されている主要なサービスの多くは、いわばこの「ポイントカードの割引サービス」自体がサービスの中核にある。それはアルゴリズムという形でサービスに体化されている。

 もう少し別の比喩を使うなら、これはいわば、手をかけた子どもが出世して親孝行するのと、放置した子どもがずっと親不孝のままであることの差に似ている。ヘビーユーザーの使うサービスは親孝行的であって、いやどんどん親孝行度を増していって、ライトユーザーの使うサービスは親不孝的であって、親であるライトユーザーはやがて、子どもを全く見なくなる。そんな光景が頭に浮かぶ。

 どんどん使ってください、そうすればどんどん使いやすくなっていきマスカラというマスカラが流行中のようだ。

 

 

※本製品の使いやすさは、マスカラを作っている当社ではなく、利用者皆様方それぞれの主体性、皆様方の自己責任によるところが少なくない点をどうぞご理解ください。

…という但し書きが、空中にふわふわと浮かんでいる。それはほとんど誰にも見えやしない。雲の中にいるときには、雲は見えない。クラウドの中に日常的に浸りきっている私たちは、クラウドがどんな姿をしているのか、ますます見えなくなってきている。

 これが、通販ではAmazon、検索ではGoogle、音声ガイドではApple、「友達」との交流とオススメによる情報収集ではFacebookというようないくつかのアメリカの大企業が自然と作り上げている「アーキテクチャ」の最も先端にあるものの本質である。

 誰にとっても見えにくいものがデバイドを生み出すとき、そのデバイドもまた誰にとっても見えにくい。しかしそのデバイドは、無視するにはあまりに根底的な変化をもたらしている。

出合った相手ではなく、出会い自体とどう付き合うか

 

アナロジーと等価性

 数学では、マイナスにマイナスをかければプラスになる。このことは環(ring)と順序(order)の基本性質から導かれる。この性質をネガティブ思考の反転に強引にこじつける人間がいたりする。しかしそういう考え方は安易なアナロジーに過ぎないと私は思う。アナロジーであることがいけないのではなく、安易であることがいけないのだ。

 このアナロジーが正しいかどうかとは別に、自分にとって確固たるものに思える何かを、自分の実存と結びつけ、それによって自分の実存も確固たるものにしようとすることがある。ここで実存とは、自分の生き方全体というような意味を指すと考えればよい。そういう結びつきが生まれるとき、数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく利用される。そこでは数学も科学も、「私の実存を支えてくれるかどうか」というただ一点で、宗教と同じように機能する。その一点において、それらの中身の違いは消えてしまう。

実存から構造へ

 サルトルは、『弁証法的理性批判』を中心としたいくつかの著作において、人間の実存を根拠づけるものを探った。同書はレヴィ=ストロースの『野生の思考』で批判の対象となった。このようにしてフランスでは、実存主義は次第に構造主義へ移っていく。1960年代のことだ。サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は、2016年に生きながら、ある意味では1960年代よりも以前のフランスに生きていることになる*1。こういうことは、個人のレベルでは至るところで起こっているだろう。時間や好奇心、あるいはチャンスがないことによって、2016年のこの世界には、1960年代を生きる者、1970年代を生きる者、紀元前を生きる者というように、一見同時代でありながら、その内側では実質的に様々な異なる時代を生きる人間たちが共存している。タイムマシンで過去に遡るまでもない。今この瞬間にも、世界は共時的であると同時に通時的でもある。

他の誰かが通った道 

 1960年代より以前のフランスに生きること自体が問題なのではない。そうではなくて、その後に人類はどう考えたか、どういう勘違いをしたのか、或いはどうやって袋小路から抜けつつあるのかなどについて知らないまま、無自覚に自分を過信して考えようとすることが問題なのだ。それは端的に言って、歴史を知らないということでもある。ここでひとつ種明かしのようなことをいうと、冒頭で「数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく使われる」と書いたが、構造主義のあいだ、そういうアナロジーが次々に登場し、やがてそれに対して批判がうまれた。その象徴的な現象であったソーカル事件とそれに対する批判は『知の欺瞞』に凝縮されている。それでもマイナスにマイナスをかければプラスになるというようなアナロジーが今でも消えないのは、一体どうしてだろうか。壁や石が見えない者は、それを乗り越えることもできない。

歴史と出会い 

浪費と出会い

 現代人は時間がないというのに、とりわけ日本人はどこもかしこも働きづめで時間がないというのに、それではかえって時間を浪費している。浪費とは、何も生まないものに対して資源を費やすことだ。ここにある問題を抱えている人間がいて、その人間がキャンプへ出かけたとする。キャンプは楽しいから浪費でないと言うかもしれない。けれども、抱えている問題がキャンプでは解決しないなら、その問題からみればキャンプは浪費である。別の問題からみれば、キャンプが浪費でないといえるかもしれない。どの問題からみるかによって浪費かどうかが違ってくる。

 ハイデガーが「Das man」と呼んだ人間は、暇のない人間だ。Das manになりやすい労働環境、Das manから逃れにくい条件に生きる者にとっては、その限られた時間を浪費することはほとんど命取りに等しいとすら言える。自分の頭や同時代のヨコのつながりに重きを置くばかりでは、この浪費から完全には逃れられない。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で指摘されている論点である。

 確率的に決まる「出会い」は、過去と同じことを繰り返すのを避けるようにできているわけではない。出会いは、それが人であれ物であれ概念であれ、どうしても確率的にしか決まらないが、かといってそこに介入の余地がないわけでもない。出会いの確率的な条件を逆手に取り、出会わなそうな人間と出会う機会を作るという戦略もまた、多少の改善はあれ、根本的な解決には至らない。朝活や合コン、街コン、パーティーなどなど、確率的な出会いを生む制度を人間はいくつも作り出してきた。とはいえ、これらの制度を積極的に活用していくら色々な人間に出会おうと、知らないままであることが残り続けたり、知らないこと自体を知らないままであったりする状況から、根本的に自由であることはできない。

技術がもたらす出会いの形式

 その一方でFacebookでは、出会いは確率的でない。誰が紹介されるかは、それぞれのユーザーの交友関係から、アルゴリズムが自動的に決める。自分の知らない人間が「友達かも?」とタイムラインで紹介されれば、Facebookで偶然出会ったと感じるかもしれない。しかしそこにある偶然性はFacebook自体がもたらしたものではなくて、Facebookの外での出会いーリアルの出会いーが偶然であったことを反映しているに過ぎない。その偶然性をFacebookアルゴリズムが一定の手順で処理するプロセスの中には、偶然性は含まれない。

 この点はTwitterも同じで、あるユーザーをフォローした時に紹介される他のユーザーたちもまた、Twitterのシステムが確率的に選んだものではない。それもまた、自分が初めにフォローしたユーザーを、Twitterアルゴリズムの外側で、自分が確率的に選択した結果の反映であるに過ぎない。FacebookアルゴリズムTwitterアルゴリズムも、「他者との出会い」において確率的な要素を持たない。それは出会いをアルゴリズムで実現しようとすることに起因すると考える者もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。アルゴリズムで確率的な操作を行うこともできる。ただ両者がそういうアルゴリズムを使っていないだけのことだ。

出会いとは別の道

 誰かとの出会いによって、自分が抱える問題の袋小路から抜け出せる場合ももちろんある。そういうことを描いたドラマや映画、漫画、アニメはたくさんある。しかしもしも、これまでに書いてきたように、FacebookTwitter、あるいは他の様々なマッチングアプリのもたらす出会いには限界があることがわかったなら、出会い以外の道もないのかを考えてみればいい。それは歴史を観察することではないか。出会いのあれこれ、ひとつひとつの出会いの良し悪しに一喜一憂することなく、落ち着いて歴史を観察すればいい。ここに出会いの限界を超えるための介入を行う余地があるのではないか。それは単に出会いを否定することとも違う。それはむしろ「出会い」との距離をうまく見積もり、出会い自体とうまく付き合うということだ。そのために、自分とは別の誰かが通った道を知らなければならない。

*1:サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は…」というような書き方をすれば、それこそ2016年の日本においては、「上から目線」と呼ばれるかもしれない。しかし「上から目線」というフレームほど不毛なフレームもない。それを言って何がどう変わるのかを考えてみればいい。上から目線と言って相手を批判しても、何も変わらない。そしてこのフレームもまた以前からずっと「不毛なフレーム」としてあるものだ。歴史を知らないということはそういうことではないか。

入門の門の奥

 私は書店が好きで、特に何か特定の本を買うというわけでもないのに、毎日のように書店に行く。書店に行くと、そこに置かれている入門書の多さに驚く。いったい世の中には、どれほど多くの「門前」の人々が存在しているのだろうかと思わずにいられない。経済学の入門書、政治経済の入門書、歴史の入門書、文学の入門書などなど…。

 入門というのは、「門から中に入る」ということであって、入り方は色々ある。だから経済学の入門書であっても、人によってテイストが異なる。ある人は文学作品からの引用を通じて、ある人は基礎的な数学的概念の定義から、そしてまた別のある人は身近な経済の問題(アベノミクスや日銀の政策や、TPPや…)の解説からというふうに。

 何かに入門するときには、門から中に入ると、そこから先のコースが大抵決まっているものだ。それは道場でも、料理教室でも、大学でも変わらない。コースを定め、広く一般に共有可能なように全体の形を整えることが形式化ということの意味であって、そこでは各人が同じコースをそれぞれのペースで進む。そしてコースを進むにつれて、門の向こう側にあるものの景色の全体が、少しずつわかってくるものだ。大学の場合、それは学部レベルではまだ見えないままで終わることがほとんどだろうと思う。理系の人間は大学院まで進むことが多いのに対して、文系の場合は学部卒で即就職という状況だ。それ自体の批判には大した意味もないとは思う一方で、この違いが学問について個々人に与えるイメージの違いはかなり大きいだろうと思う。理系の人間にとっての学問と、文系の人間にとっての学問とでは、大学院というところまで進むか進まないかという点で考えても、景色の見え方に大きな差異があるのではないかと思われる。

 ところで、門から先がまだ存在しないのに、ただ門だけがあるということはあるのだろうか。つまり「問題」だけがあり、門を通って中に入っても、そこから先はどう進めばいいのかが入門者にはわからず、したがってそこに広がる景色の全体像もはっきりしない、ということが。

 私はここ数ヶ月間、ネットにおける人々の情報収集の形態を考え続けている。もう検索エンジン的な仕組みでは手詰まりだろうと個人的には思っている。Google検索エンジン部門のトップが人工知能が専門の人間に変わって久しいが、深層学習(deep learning)を使っても、人間による解釈が難しくなるだけで、それほどネットの風景が変わるとは思えないのだ。だから人工知能を活用するかしないかという考え方からいったん距離をとって、とりあえず人工知能は使わずに、人間が何かよいアルゴリズムを考えられないかと考えている。もちろんこれは、人工知能の研究が進んだ近年の過熱気味な人工知能礼賛ムードとは完全に逆行する立場である。

 けれども、Googleはどうもこれから先も「検索エンジン」にこだわり続ける様子だし、今の自分の技術では大したことはできないけれども、「どんなものを作りたいのか」について、なるべく具体的なイメージを作ろうとしている。

 私にとっては、「ネットの風景を変えるにはどうすればよいか」という問題に対する「門」は哲学(特に言語やテクストを主題とするようなタイプの哲学)や思想であるわけだが、問題はそれによってどんなことを、どんなふうに表現するのかという「方法」がはっきりしていないということだ。自然言語処理によって、というレベルまでははっきりしているが、それ以上の具体性がない。門はあるが、その奥には何の立派な建物もない。ただし私の頭の中には、まだおぼろげではあるものの、大きな景色が広がっている。哲学や思想という門を通ってみれば、自然言語処理という方法によって、ちっとも整理されている気のしない検索エンジンともうるさいばかりであまり楽しくもないソーシャルメディアとも全く異なる、何か新しいことができるという直観だけがある。

 人工知能のビジネスに携わる人々の間でも、近年では数学や哲学に対する関心が高まってきているようだ。数学であれば圏論、哲学であれば分析哲学言語学フッサールデリダなどの思想が注目されている*1言語学というときに、大抵はソシュールしか登場しないところに注目の「浅さ」を感じてしまうところもある。個人的にはチョムスキー井上和子、あるいは時枝誠記などに対する関心が彼らの間で高まると、もっと自然言語処理の研究は面白くなるのではないかと思っている。私自身は、最近は東浩紀を介してデリダの思想について考えたり、井上和子を通して生成文法の日本語研究への応用ということを考えたりしている。これらの関心が自然言語処理の特定のテクニックとうまく結びつけられるところまで行くことを願いながら、今も大崎駅の近くのスターバックスで、アイスココアを飲みながら『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいる。

 立派な建物がなければ門を作ってはいけないなどということはない。奥に広がる景色の壮大さを信じてまずは門をくぐり抜け、そこには幾つかの「柱」らしきものしか見えなくとも、そこに立派な建物が建つことを信じられればそれで良い。それはある意味で、建築家的な態度でもあるかもしれない。

 門の奥で、どんなアーキテクチャがありうるのか、アーキテクトは考え続ける。

高校生に現代文を教えながらよい文章の構造について考える

 やや更新が途絶えていた間に2016年もすっかり夏に入り、私がアルバイトをしている個別指導塾では夏期講習が始まった。私はその中で、高校生に向けて現代文の読解の仕方について授業をしている。普段の授業では英語(それも英語の文法)ばかり教えている私が、なぜ夏期講習の期間には現代文を教えるのかというと、もちろんこれは、仕事であるという理由もあるが、それとは別の理由もある。つまり、最近の私の関心事である、自然言語処理や検索ということについてより深く考えるために、ふだん何気なく触れている日本語(主に評論だが、小説も含む)の文章の構造について、一歩引いたところから分析してみることが有効だと考えているからだ。

 塾では出口汪の現代文の問題集を使っている。出口メソッドは私が受験生だった2007年や2008年当時もある程度の人気を誇っていたが、今でも人気は続いているらしく、書店では数多くの出口現代文シリーズが売られている。

 さて、「出口メソッド」などとさらっと書いたが、これは基本的には文章全体の構造を記号化・チャート化したもので、分析の単位は「文章」(passage)全体だ。もちろん、「指示語や接続語に注意して読みましょう」というような、文(sentence)の単位での読解テクニックもないことはないが、そちらはあまりメインではない。そこで私は書店に行き、出口メソッドとは別に、文の単位で分析をすることで文章全体の構造を読み解くというタイプの方法論を提唱している参考書がないか探してみた。いくつかそういうものがあるにはあったが、どれも上述した指示語・接続語に注目するという域を超えるものではなかった。

 私はふだんの授業では英語の文法を教えている経緯もあって、生成文法分析哲学といった分野の本も何冊か読んできた。そこでは文という単位について、単に指示語や接続語の機能に注目するといったお粗末な分析にとどまらない、高度に形式化された体系が紹介されていて、学部時代に同じく高度に形式化された体系をもつ経済学を学んでいた私は、生成文法分析哲学、論理学、統語論などの分野の営みに対して、少なからぬ感銘を受けた。

 だから市販の現代文の参考書の解く「方法」に対しては、率直に言って物足りなさしか感じなかった。それは高校生や、20歳前後の浪人生を相手に書いているという事情があることはわかる。けれどそれにしたって、もう少し紹介できる方法があるはずだ。

 ちなみにこの物足りなさについては、市販の英文法の参考書についても感じてはいるのだが、それについてはここで詳しくは取り上げない。しかし「相」(Aspect)や「法」(modality)、あるいは「文法範疇」(grammatical category)くらいは取り上げてもいいんじゃないかと思う。実際に生徒にこういう概念を教えた方が、英語についての理解が深まるということを、私は何度か経験してきた。しかもその生徒というのは、別に偏差値70以上の一流校に通っているような秀才というわけでもない。それでもちゃんと通じたのだ。…とこれくらいのことは書いておこうと思う。

 さて、それでは市販の参考書の中に「きらめく何か」を見出せなかった私はどうしたかといえば、これはもう自分でやるしかないと思うに至り、現代文の参考書という範囲を超えて、「文体」について扱った本や動画(※基本的にはニコニコ動画の有料動画)を探したり、自分なりに文の形式化を行なったりした。具体的には英語で「構文」と呼ばれているものを日本語の中にも見出そうということで、例えば「なるほどX、しかしY」という構文の場合には、Xは飛ばしてYだけ拾えばよいといった、「内容」でなく「形式的な処理」の体系化を積み重ねている。文章というのは形式的な処理だけでどこまで読めてしまうものなのか、あるいはもっといえば、むしろ形式的な処理を通して読む方が、内容にこだわりながらじりじりと味わうような意識で読むよりも本質をつかめてしまうものだと私は考えている。それはまた、特定の人間の能力に属人化されない、技術(テクニック)ということの意味でもある。

 日本語の「構文」に注目しながら読んでいくという読解法は、構文の網羅が面倒に思われるかもしれないが、以外と構文の数は少ないと感じる。段落の分け方や文章全体の構成については、文章の筆者ごとに多様な個性があるとは思うが、構文に関してはそうでもなく、けっこう色々な人が共通の構文を使いまわしていると感じる。さきほど例にあげた「なるほどX、しかしY」という譲歩の構文も、変種として「もちろんXだろう。けれどもYなのである。」や「確かにXではあるかもしれない。しかしそうではない。むしろXとはYなのである。」のようなパターンがいくつかあるにはある。しかしその程度のバリエーションに過ぎない。この程度であれば、私の問題関心の根っこにある自然言語処理では十分に扱えるレベルだ。

 構文から読むことにこだわり始めて改めて感じたことだが、人は意味を追っているようでいて、実はそうではなく、特定の形式で表現されたものに後付けで「意味らしきもの」を投影して満足感を得ているに過ぎないのではないか。売れる本のタイトルには一定のパターンがあることや、twitter上で特定のハッシュタグによって共有される表現が、代入される単語が違うだけで表現全体の形式はひとつの構文に過ぎないという現象が継続的に起こっているのは、「大事なのは形式じゃない、意味なんだ。そこに感動があるのだ。」といった、ナイーブでセンチメンタルなこだわりへの具体的なアンチテーゼになっているように思える。

 そういうわけで、構文という切り口から、日本語の形式的で広く共有可能な読解法、あるいは私たちの日常に対して新たな示唆を投げかけるような、自然言語処理の可能性について、当分は考えていこうと思う。

ディスプレイと紙

 今日は以前から気になっていた喫茶店「三十間」にやってきた。今年(2016年)の1月19日にオープンしたばかりの店ということで、まだ半年も経っていない。もともと銀座にあるお店が青山にも出店したということのようで、店についてからその辺の事情を知った。

食べログのリンクはこちらで、

珈琲専門店 三十間 青山店

食べログ 珈琲専門店 三十間 青山店

Retty(レッティ)のリンクはこちら。

retty.me

 

 さて、お店にやってきたのが夕方だったこともあって、店内の照明はやや暗めに調節されている。紙の本を読むには暗いので、パソコンの画面を開いてブログの記事を読んだり、この記事を書いたりして過ごしている。バックライトで照らされた透過光ディスプレイでは、読む場所を問わない。極端な話、もしも今店が停電になったとしても、私はこの記事を書き続けることができる。

 しかし紙の本ではそうはいかない。紙の本に対して「ディスプレイ」(画面)という言葉はふだんは使わないが、パソコンのディスプレイとの対比のためにあえて使うと、紙の本は反射光のディスプレイだからだ。自分で発光するわけではなく、他のものの光を反射することによって、私はそこに記された文字列を読み取ることができる。パソコンのディスプレイはその裏側から光を発しているから、発光体である。だからそれは太陽と同じで、紙の本は月と同じだ。

 文章が記されたディスプレイが太陽的であるか月的であるかによって、私が活字に触れる経験の中身は変わってくる。周りが明るい日中であれば、大抵はどこでも紙の本を読める。もちろんパソコンのディスプレイに記された文章を読むこともできる。

 最近こんな記事を読んだ。

http://www.lifehacker.jp/2016/07/160705_brother_privioj983n.html

www.lifehacker.jp

 私もこの記事には賛成だ。ただし記事の中で指摘されている理由とは別の理由で。記事で挙げられている理由は3点ある。

①紙で読んだ方が理解度が高いという研究がある

②ディスプレイで書いた自分の文章をそのままディスプレイで読むのではなく、紙に印刷してから読むことで、執筆者から読者としての立ち位置に変わることができる

③印刷しているときに少し間があることで、気分を入れ替えることができる

 ただしどんな場合でも紙で読むことが正当化されるわけではなく、特定の条件の下ではディスプレイで読んだ方がよいこともあるという点は注意が必要である。詳細は記事の本文を参照。

 そして私が個人的に紙で読むことにこだわる理由は、単に発光体は眼によくないからだ。人間の目は発光体を直視するように適応していない。小学生の頃などに太陽を直視してはならないと教わったのに、私たちは本質的には太陽と同じ発光体であるディスプレイを日常的に利用している。これは一体どうしたことだろう。慣れや文化の力は強力だ。

 もうほとんどコーヒーがなくなってきた。併せて注文したチーズケーキもあと3口というところ。ここが踏ん張りどころだ。喫茶店でコーヒー1杯で粘りながら『ハリーポッター』を書いたというJ.K.ローリングを見習って粘らなければ…。

 さて、私は生活リズムとして、夜に外にいることが多い。したがって、夜にどこかの店で何かを「読む」としたら、大抵は店の照明が暗くなっているから、自然とディスプレイを見つめる方に決まってしまいがちになる。これは生活リズムを昼型に変えたり、夜でも照明の明るい店を選んだりすることによって解決することもできるが、それでは私の使える店の選択肢は減ってしまう。「店の照明をどこももっと明るく!」という主張をしたいわけではなく、私を取り巻く環境が、私の読書という経験一つをとっても少なからぬ制約を課しているその様をきちんと認識しておきたいと思ったのだ。こういうことはよほど意識していないと、自然と流されてしまうだけになってしまう類のことであるから、一人で落ち着いている時に省みるための時間が必要だ。ちょうどこの三十間のような、落ち着いた雰囲気の店などで。

 

 

 

 

文章の文法をもとめて

 Twitterに投稿したつぶやきをもとに記事を作ろうと思う。テーマは言葉の単位とそのルールについて。

 ある公式を使って問題を解けるかどうかは、根気よく学び続けられるかどうかという意味で「練習」の問題だが、まだ証明されていないことがらを証明して新たな公式を作るのには別の何かが要る。一般にそれは「創造性」などと呼ばれる。

 ある文について、それが正しく構成されているかどうかということは文法に照らして判定することができる。けれども文よりももう一つ上の単位である「文章」については、それが正しく構成されているかを判定する論理的な手続きが見当たらない。ここで「存在しない」ではなく「見当たらない」という表現を用いたのは、それが実際には存在しているかもしれず、単に私がそれを知らないだけである可能性があるためである。また一般に、何かが「存在しない」ということを示すのは難しい。

 文に関しては、句構造規則に沿っていろいろな操作を施すことができる。別の語を加えたり、語順を入れ替えたりするといった操作を有限回行うことで、あらゆる文が生成できる。試しに次の文を考えてみよう。なお、日本語の文法について私はあまり知らないので、馴染みのある英語の文法に沿って考えてみることにする。日本語の文法の方が理解しやすいという読者には申し訳ない。

文A:私は山田太郎である。

文Aの主語「私」を「吾輩」と入れ替え、補語「山田太郎」を「猫」と入れ替えるだけで、

文B:吾輩は猫である

という別の文を生成することができる。こうして私は、自分の生成した文から、別の誰か、この場合は漱石が過去に生成した文を生成することができた。これと同様にして、私は文Aから有限回の操作によって任意の文を生成することができ、シェイクスピアだろうとドストエフスキーだろうと村上春樹だろうとそれは生成可能だ。文を変形して別の文を生成することはあまりないから、村上春樹の生成する文を私が作るのには「練習」が必要だろうが、論理的には可能であると思われる。それはつまるところ、有限回のステップのうちに収まる文の変形操作のアルゴリズム(手順)を見つけられるかの問題に過ぎない。

 また文Bは単に「文」であるだけでなく、本のタイトル(夏目漱石の小説の題名)でもあるから、一つの名詞として使うことができる。つまり

文C:あなたは [n](名詞)を読んだ?

という疑問文の[n]の部分に「吾輩は猫である」という文(文B)を代入することができる。また、自動詞「である」を他動詞「を許す」と入れ替えると、

文D:私は山田太郎を許す

という文が作れるし、動詞「許す」をその否定形である「許さない」と入れ替えると

文E:私は山田太郎を許さない

という、文Dとは反対の意味を表す文を生成することができる。

 このように、文の単位では、その内側で語や句や節といった部品がどのように並ぶかということに関して、一定の統語的な規則が存在する。日本語の場合は英語やフランス語などや中国語などの外国語に比べて統語的な規制がゆるいため、自然言語処理においては、チョムスキーの手による句構造文法よりも、フィルモアによる格文法を用いて考える方が扱いやすいそうだ。

 文章の生成については、「文章作成法」とでも呼ぶべき分野が古くから存在していて、ビジネス文書や小説の書き方から、最近ではブログの書き方に至るまで、いろいろなものがあるが、どれも科学的ではなく、著者の個人芸の域を出ないものが少なくない。三島由紀夫*1谷崎潤一郎*2野口悠紀雄*3本田勝一*4、或いは古くは空海の『文鏡秘府論』など、多くの著名な人物がそれぞれに文章の書き方、構成法について説いているが、それらは現実の文章がどのようなルールによって構成されているかということを説明するものではなく、この意味では文法ほどの形式化は進んでいない。或いはもう少し別のもので言えば『理科系の作文技術』*5や『日本語のレトリック』*6といったものもあるが、やはり文法ほどの形式化はなされていない。レトリック(修辞学)というのは、文を操る技術という意味では文章を外から規定する形式といえなくもないが、文にとっての文法の関係と、文章にとってのレトリックの関係は同じではない。

 Twitterのツイートやブログでの情報がデマ(誤情報)であるかどうかを判定する方法に関する、自然言語処理の分野での研究*7がある。これはある一定量の文ないし文章について、その属性を判定するものであるが、これは手がかりになりそうだという気がしている。

 またこの研究とは別に、『文体の科学』*8という本を読み始めた。いかにも自分が考えたいことにぴったり当てはまる内容ではないかと思いながら読み進めているが、どうも少し違うような気がしてきた。ここで読み続けるかどうかという判断を迫られている。一応読みきろうと思う。

 

【追記】

『文体の科学』は途中で読む気が完全に失せてしまった。ちっとも科学になっていないからだ。もとになっているのが雑誌の連載という事情があるにせよ、タイトルと中身の齟齬が大きい。速読とは読むべき本とそうでない本とを素早く区別するための方法であるとするならば、速読が役に立ったと言えるかもしれない。少なくとも今の自分の問題関心では読むべきでないと感じた本に、それ以上の時間をかける気にはなれない。

 

*1:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*2:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*3:

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

 

 

*4:

日本語の作文技術 (朝日文庫)

日本語の作文技術 (朝日文庫)

 

 

*5:

 

*6:

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

 

*7:鳥海不二夫、篠田孝祐、兼山元太「ソーシャルメディアを用いたデマ判定システムの判定精度評価」[2012]

*8:

文体の科学

文体の科学

 

 

一度通った道が見つからないということ

 日曜日の夜だ。京王井の頭線の改札近くのスタバで英語の文法の勉強をしていたのだが、途中からなんだか眠くなってきて、パソコンを開いた。ちょっと最近考えていることを書いてみようと思う。インターネットと記憶について。

 インターネットを使って何かの記事を読んだ後、しばらくして同じ記事を再び読み返したくなることがある。「そういえば最近そんな内容の記事を読んだな…なんてタイトルだったっけ?」と思い、それらしい単語を検索ボックスに打ち込んでみたり、FeedlyEvernoteに保存してないか確認したりしても、肝心の記事は見つからない。

 一度通ったことのある道なのに、再び同じ道を通ろうとしても違う道になってしまうという経験をしたことはあるだろうか。私は家の周りや出掛けた先の街で、あちこちを歩き回ってみるのだが、一度通った道をなぞろうとして、結局は以前とは明らかに違うところへ行き着いてしまうということがある。もちろん職場と家の間で道を間違えるなどということはないし、お気に入りの書店や喫茶店へ行く道を間違えることもない。そういうコースを辿るときは、一度目と二度目の間にあまり時間差がなく、その後も反復する回数が多いからだ。やがて道を完全に覚えてしまう。そして何も考えていなくてもその道を初めから終わりまでなぞることができるようになる。

 インターネットでも新聞でもいい。私が目にする記事の多くは、何度も読み返すということはほとんどない。だから、最初に読んだ時には内容を覚えていても、時間とともにそれは色あせてしまって、次にその記事を必要とするときになって、簡単に見つけ出すことができないのだ。それらは私の外側にあって、私の体と一体化していない。自転車に乗るように記事を使いこなすようなレベルには達していないうちに、私は記事を忘れてしまう。

 最近Twitterの使い方を変えてみた*1。しかしタグを活用しても、私は特定の使い込まれた知識を瞬時に思い出すことと比べると、まだまだタグ付けされた情報を使いこなせている感じがせず、どこかもどかしさを感じる。何より、使いこなされた知識というのは、どんどん使いやすく変化していくが、ツイートに付けたタグとツイートの内容は変化しない。一度投稿してしまえば、1年後も3年後もずっとそのままだ。まるで私の考え方はその間で何も変わっていないかのように。ブログやFacebookであれば、一度投稿した内容を後から書き換えることができるから、使いこなせている知識と同様に柔軟に変化させていくことができるが、Twitterのツイートではそうはいかない。ツイートを削除することはできても、内容を後から変更することはできない。それはある意味では、文を書くことに慎重になるという効果をもたらすけれども、私の頭の中にある知識の体系を改良していくことには向かない。

 同じことを何度も何度も繰り返し再現することによって、記憶は記憶たりうる。再現できなくなってしまったら、もう記憶ではない。私の頭の中にある知識はいつでも手軽に思い出して使うことができるけれども、ネット上の情報はそうはいかない。もちろん私はほぼいつもiPhoneを持ち歩いていてネットが使える状態ではあるが、頭の中にあることを思い出すようにネットを使うことはない。

 すっかり目がさめた。ディスプレイのバックライトのせいだろうか。或いはタイピングという手の運動のせいだろうか。英語の勉強に戻ってもいいのだが、その前にこの記事を書き終えたい。

 何か覚えたことを再現するとき、単に頭の中で思い返すというだけではなくて、私は手を使ったり足を使ったり、身体を同時に使っていることが多い。フォン・ノイマンやマリリン・ボス=サバントのような天才であれば、ただ頭の中で思い浮かべるだけで覚えたことを自在に使いこなせるようになるのかもしれないが、私の場合はそうはいかないことが多い。問題集を使って問題を解きながら、覚えたことをどう使うか考えたり、実際に道を歩いてみたり、誰かに説明してみたりすることによって、そして何より、そういうことを反復することによって、覚えたことを有用な知識として定着させることができる。

 記事の内容を覚えても、私はたいていの場合、その内容を身体を使って再現することがない。たまには誰かにその内容を説明することもあるが、20本の記事を読んで1本あるかないかという程度の割合でしかない。残り19本の記事の内容は忘れられていって、誰かに説明した1本の記事の方も、やがて忘れられる。私の脳内のシナプスは、それらの記事の内容を再現することができなくなるのだ。

 私はもう何年も、紙媒体の新聞を購読していない。たいていはネットで記事を読んで済ませている。だから私にとって「記事」といえば、紙媒体で購入している雑誌のそれか、大部分はネット上のそれを指す。どちらにしても、私の身体とあまり結びつかないまま私の頭の中から消えていく。

 私の家にある紙の本たちは、必要に応じていつでも読み返すことができる。それは物理的にそこにあり、読み返せば以前にそれを読んだときの記憶が微かであっても蘇り、私の知識の体系は変化していく。ネット上の記事に紙の本と同じような「見つけやすさ」を与えることは、未だに実現されていない。Googleは1998年に誕生してからもうすぐ20年が経つが、未だに私の家の本の調べやすさには及ばない。情報が膨大すぎて、いくら索引をつけても一向に見つからない情報だらけなのだ。瞬時に見つからなくてもよい。0.1秒台で100万件の「関連する」記事を一覧にして表示されても、3分かけて「私が探していた本は確かにこれだ」にかなわない。

 一体何が足りないのだろうか。

 

参考:

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

 

 

 

 

言葉と行動

 

受験生とその親

 言葉ではなんとでも言える。けれど人間は、言葉ではわかっていても行動できないことが多い。言葉と行動とはそれほど密接につながってはいないからだ。ToDoリストやタスクリストを作ったり、予定表に書いたり、他人に宣言したりしても、行動できないままの人はいるものだ。親と子のやりとりでもこの点で衝突が起こったりする。例えば次の例はおなじみだろう。

親:どうしてもっと勉強しないの?受験生なのに。

子:うるさいなあ。そんなことはわかってるよ。

 人間は、わかっていても行動できないままであることが少なくない。「わかっちゃいるけどやめられない」という表現は、世代を超えたロングセラーだ。上に取り上げた親子のやりとりと同じようなやりとりは、戦後の日本で始まったものではなくて、人類がずっと昔からいろいろな地域や状況で繰り返してきたものだろう。それでもこのやりとりの不毛さから一向に抜け出せないままでいる。がんは人類が未だに克服できない病だが、この不毛なやりとりよりは、がんの方が先に克服されるのではないかとさえ思う。

カマキリとシロアリ

カマキリ

 カマキリは交尾を終えると、メスのカマキリがオスのカマキリを食べてしまう場合がある。いわゆる「共食い」(cannibalism)である。これは何も、メスは紅玉でも黒毛和牛でもなくてオスが好物だからというわけではない。リアル「食べちゃうぞ♡」でもない。あるいは交尾があまりにも苦痛で、オスへの怒りが爆発して…ということでもない。オスの個体を食べることで、メスは産卵に必要な栄養を摂取するのだ。もっとも「場合がある」という表現に注意してほしい。オスの中には、交尾の後でメスから逃れるものもいる。メスにはメスなりの行動原理があるように、オスにはオスの、自己保存という欲求にもとづいた行動原理があるということなのだろう。死ぬか逃げるか、いずれにせよ、カマキリの夫婦生活は初めから破綻するように決まっている。そこにはどんな言葉も存在しない。

シロアリ

 ある種のシロアリ*1は、集団で生活する社会性昆虫であり、自分の属する集団に危機が迫ると、自分の体をひねって体を破裂させ、体内に含まれる毒物を周囲に撒き散らして敵を殺害し、それによって自分の所属する集団を守る。人間の感覚でいえば自己犠牲の精神、あるいは愛社精神というところだろうか。もっともシロアリには、自己犠牲の感覚などない。ただある特定の状況を認識すると、特定の行動を自動的に実行するようにできているだけだ。ここにもまた、どんな言葉も存在しない。

どういう教訓を引き出すか

黙って行動すること

 どちらの例でも、そこに言葉は存在せず、ただ具体的な行動があるのみである。ああだこうだと言い訳もしない。ただ人間だけが、言葉に頼って行動から遠ざかっているようにすら見える。言葉は便利だ。記録できるから後から振り返ることもできるし、その場にいない相手に自分の思いや考えを伝えることもできる。アリだってフェロモンを通してコミュニケーションをしているのだ。また自分の考えをまとめることにも役立つ。だが一方で言葉は、行動から遠ざかることに一役買っている面もある。それは、職人的に黙って行動で示せということではないく、言葉の使い方には気をつけなければならないということだ。カマキリとシロアリから引き出せる教訓はそういうことではないか。不毛なやりとりは、文字どおり不毛であることがわかったならば、口を閉じて行動するほうがよほどましだ。その点では人間よりも他の動物の方がよほど立派だ。

欲求について

 しかし、実は私がカマキリやシロアリと人間を比べることで考えたいことは、上で述べたように言葉をどう使うかという点よりもむしろ、欲求との関係が人間とそれ以外の動物とでは異なるのではないかという点の方にある。冒頭で取り上げた受験生と親の会話では、受験生の方は勉強をしたいという欲求がないから行動できない。親が何かを言うことで、その欲求を変えることができない限り、受験生の行動は変わらない。それは「わかっちゃいるけどやめられない」と表現できる他のいろいろな状況でも同じではないか。実は当事者がそうしたいと望んでいない。だから言葉と行動が食い違う。そのとき言葉は、欲求を表現するためではなく、建前を表現するために使われている。そして建前は欲求にはかなわない。

 一方でカマキリやシロアリの例では、欲求とは別に行動パターンが決まっている。メスのカマキリはオスのカマキリを食べたいと望むから食べるのではなくて、そうするようにできているからそうする。シロアリが体をひねって破裂させるとき、そうしたいからそうするのではなくて、そうするようにできているからそうする。

 人間と他の動物の違いは、そうしたいからそうするか、そうするようにできているからそうするかの違いなのではないか。その違いに比べれば、言葉を使うかどうかは副次的な問題にすぎない。言葉がコミュニケーションのためにあるのだとすれば、動物だって鳴き声やフェロモンなど、言葉以外の方法でコミュニケーションを行なっている。人間にとって、言葉と行動の関係を考えるときに、どうしたいのかということを抜きにして考えることはできないということが、教訓なのではないか。

  最後にひとつ、あるアニメからセリフを引用をしてこの記事を締めくくろうと思う。アニメ「Black Lagoon」の第二期、「ヘンゼルとグレーテル」と呼ばれたルーマニア生まれの二人の殺人鬼の子どものうち、グレーテルの方が、教会に潜伏するCIAの諜報員であるエダとの会話の中でこんなことを言う。この例は極端に思われるかもしれないが、つまるところ人間とはそういうものではないかと私は思う。それがたとえ殺人であれ、「そうしたい」という欲求の前には、どんな道徳や合理性の建前を持ち出しても通用しない。この点でグレーテルと受験生は同じではないだろうか。

グレーテル:はぁ〜い、お姉さん(エダに向かって銃を向ける)

エダ:(グレーテルに背を向けたまま)いつからそこにいやがった?

グレーテル:一人になるのを待ってたのよ。一人で二人は相手にしたくないもの(エダの後頭部に銃を突きつける)

エダ:(ゆっくりと両手を上げる)

グレーテル:私ね、お姉さんに手伝ってほしいことがあるの。兄様がロシア女を殺したら、高飛びしないといけないのよ。でも手引き役のヴェロッキオたちは先に殺してしまったわ

エダ:(背を向けて両手を上げたまま)バカか。そこまでわかってて親を殺したのか?第一もうバラライカを殺る義理がねえ。なぜ続ける?どうしてだ?

グレーテル:フフフ…。フフフフ…。あはははははっ。ああ”どうして”? ”どうして”ですって?そんなこと?あははっ!おっかしい!そうしたいからよ。他にはなあんにもないの、そうしたいからそうするの(Black Lagoon The Second Barrage 第15話「Swan Song at Dawn」より)

参考記事

[1] 共食いについて:共食い - Wikipedia

[2] シロアリについて:

karapaia.livedoor.biz

 

*1:正確な学名は「Neocapritermes taracua」

「拝啓、いつかの君へ」とマイケル・サンデル

 先日、バイト先の塾の校舎でマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』のことが話題に上った。「上った」と言っても、話し相手の口から「あの本は面白いですよ」というセリフが出てきたというくらいのもので、私はといえば、その会話以来、「正しさ」ということについて少し敏感になっているように思う。こういう他愛もない会話が自分の基本的な「気分」を作っていることに、案外気が付かないまま過ごしているものだ。

 またそれとは別に、最近終了したドラマ「ゆとりですがなにか」の主題歌、感覚ピエロの「拝啓、いつかの君へ」の中で、「あんたの正義は一体なんだ?」という挑むような表現がある。最初にこの曲を聴いたときには、「何だか青臭い主張だなぁ。」くらいにしか思わなかった。それから少しして、自分の感じた「青臭さ」の正体について考え直してみた。ロックで何かに反抗するなら、もっと深い反抗、もっと深いロックをしてほしい。この程度のナイフじゃ何も切れない。思索性のない薄っぺらい人間からのあふれんばかりの称賛を得たって、切れ味が増すわけじゃない。「そんなに愛想笑いがうまくなってどうするんだい?」と挑発的に言われたって、愛想笑いする人間が救われないことの方が多いんじゃないかと思う。外野からカッコつけて批判しても、「それでも媚を売ったり、それでも謝ったり、それでも我慢し続けている私の思いについて、一体あんたに何がわかる」ということにしかならないんじゃないか、と。内野の人間の思いはもっと複雑なんじゃないか。この曲についてのネットでの反応を見ていると、中高生からの称賛が多かった。つまりは外野の人間たちだ。

 さっき聴き直してみると、今度はサンデルの方の思考と結びついてきた。歌詞をもう一度見直してみると、「AとBの選択肢 突如現れた狭間に あんたの正義は助けてくれるのかい?」というのがある。「あんたの正義」というのは、よく言われる言い方で言い換えるならば「自分にとっての正しさ」というところだろうか。

 自分にとって正しいという感覚が、みんなにとっての正しさとしての「正義」と合致するかどうかはわからない。もしも二つが一致しなかったら、「確信犯」(信念犯)として正義の側から法の裁きを受けることだってある。社会では、特殊な正しさと一般的な正しさとを比べれば、常に後者が優先される。そうでなければ社会は維持されないからだ。秩序とはそういうものだ。

 個人と組織は機能の単位が異なる。私の身体は一貫して機能しているが、組織という大きな身体ではそうはいかない。トップが方針を決めたところで、末端との間に齟齬が生まれる。トップの意思がすべてというわけにはいかず、常に個々人の間で調整が必要となる。だから組織には政治が生まれる。ヒトの身体の自律的な調整機構に比べれば、組織の機能の調整ははるかに難しい。心臓や骨格はそれぞれ自己主張などしないが、組織の場合はその内側で色々な個人が自己主張をしている。それぞれが個人的な「正しさ」の感覚を備えている。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと噛み合う保証はない。噛み合うこともあれば、ぶつかることもある。ぶつかってうまく解決することもあれば、しこりを残すこともある。私の身体にとっての正しさは常に「生存すること」であり、それは一貫しているが、集団にとっての正しさは個人の数だけありうる。そうして自由と秩序のバランスが問題になる。

目に映るものすべての景色変わって変わって変わって

淡々と進んでいく毎日にいつしか流れて流れて流れて

AとBの選択肢 突如現れた狭間に

あんたの正義は助けてくれるのかい?

(感覚ピエロ「拝啓、いつかの君へ」より)

 個人にとっての「正しさ」が公共性を確保するためには、なんらかの形で社会の側からの承認を得る必要がある。だからなんの成果も出していない個人の主張する正しさが公共性を得ることはない。Macintoshを生み出すまで、スティーブ・ジョブズの主張する「正しさ」を信じる人間が何人いただろう。しかし一旦それが世に出た後でなら、彼の主張する「正しさ」は力を持つようになった。それはiTunesという形で音楽業界に亀裂を生み、iPhoneという形で携帯電話業界に亀裂を生み、iPadという形でタブレット業界という業界そのものを生み出した。…と、こんな風に書くと、テック系の人間のジョブズ礼賛のようだが、ここでの主旨はそこではない。個人的な正しさが集団的な正しさとどう結びつくのか、ということだ。それは多数の人間からの同意を得ることによってである。多数決と同じだ。市場における投票を通じて、より一般的な正しさが決まる。正しさの一般性を自然に生み出す調整装置として市場は機能している。もちろん、市場原理による「正しさ」が「正義」と合致するとは限らない。むしろ合致しないのではないかという懸念を示したのがサンデルであった。

拝啓、いつかの君へ

自分の信じた正義なら選んで進んでみせてよ

拝啓、いつかの君へ

今ココにあるものすべて

 

「あんたの正義に覚悟はあるのか?」

拝啓、いつかの君へ

(同上)

 

 常に「生存」という正しさに従って機能する身体ほど明確に「正しさ」が決まるなら、人間はそれほど苦労はしなかっただろう。けれども人間は社会の中で生きる以上は、他者の正しさとぶつからざるをえない。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと矛盾しないでいられる保証などないのだ。

    それでは、自分にとっての正しさとどう向き合えばいいだろう。それは集団レベルで「正しい」とされることとぶつかるだけでなく、過去や未来の自分ともぶつかるものだ。いつかの自分にとっての正しさは、今の自分にとっての正しさと同じである保証はなく、今の自分にとっての正しさは、未来の自分にとっての正しさと同じである保証はない。未来の自分が後悔しないかどうかという視点で正しさを捉えるにせよ、あるいは「まだ純粋だったあの頃」(そんなものは幻想だと私は思うが)の自分の視点で捉えるにせよ、今の自分の視点で捉えるにせよ、自信が持てるかどうかは最終的には直観によらざるを得ない。それさえあれば安心できる、究極的な根拠などありはしない。

本当にこれで合っているのか。

本当にあの人にこんなことを言うべきだろうか。

本当に黒のポロシャツとジーパン風のジョガーパンツの組み合わせで合っているのか。

日常の様々な局面で「正しさ」が問われ続ける。

 

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

ハッシュタグで情報を減らす

 ネット上に色々な人が色々なことを書き込むようになればなるほど、そこから自分の欲しい情報だけを取り出すのは難しくなるというのは、すでに多くの人間が指摘してきたことだ。まとまった量の文章を書くことはできなくても、140字なら書くことがあるという人がたくさんいたからこそ、Twitterは今も続いている。

 自分のフォローしている人間たちの投稿に限定するのではなく、ある特定の事柄についてタイムラインを見ていくと、その流れる速さは凄まじい。次から次へと、たくさんの人間が同じようなことをツイートし続けて冗長であり、いちいち確認するのは時間の無駄でしかない。ストレスだ。

 情報の洪水の中で、検索エンジンがやっていることは、大量のウェブページを集めてきて、それをランク付けし、上位から表示する、これだけだ。上位のページに限定すれば、目にする情報を減らせるが、同じような内容のページが複数存在する場合はそれらをいちいちチェックして回る羽目になる。そして被った内容の文だけ時間を無駄にする。あるいはこれとは別に、自分の知りたいことについて、それにズバリ答える内容が書かれたウェブページがそもそも存在しなかったら、それになるべく近い内容のウェブページが並び、やはりそれらを複数チェックする羽目になる。ランク付けによって情報は減ったかもしれないが、まだまだ面倒だ。

 Twitterにはフィルタリングがほとんどないから、洪水のように情報が生まれている。同じ内容の記事を色々な人間のアカウントがハイパーリンク付きでツイートしているが、そのほとんどは読まれることはない。こんなのははっきり言って資源の無駄だと思う。もう少しうまい使い方を考えた方がいい。それは個人個人の心がけという話ではなく、プラットフォームがそういう無駄をなるべく生まないように設計されていることが望ましい。もちろん何をもって「無駄」と定義するのか、全ての無駄が本当に無駄なのかといえば話は別だが、もう少し無駄は減らせる。

  少し前から、私はTwitterの使い方にアレンジを加えてみることにした。自分のツイートについて、オリジナルのハッシュタグをつけることで、過去の自分の特定の内容のツイートだけを簡単に取り出すことができるようにしたのだ。例えばこんな風に。

「#HiroyukiF感情」という名前のハッシュタグは自分しか使っていないから、このタグ名で検索すれば、過去の自分のツイートだけが検索できる。アカウント名とおおまかなカテゴリー名をくっつけてツイートすれば、自分の過去のツイートについて、カテゴリーごとに検索できる。カテゴリーの数が増えてもそれを自分が忘れてしまう心配はない。こうすればいいからだ。

「#HiroyukiF」で検索すれば、他の全てのタグ名を含むツイートがヒットするから、これでタグ名をいちいち全て記憶していなくても問題ない。ハッシュタグは濫用されている感があるが、情報を整理するためにもっと面白い使い方が出てこなくてつまらなかった。この使い方がそれほど「イケてる」とは思わないが、濫発よりはまだ面白いと思っている。

 もちろんこれでは自分のツイートしか検索できず、他者の考えを記した文章を簡単に調べられるようになるわけではない。だから情報の洪水問題は根本的に解決したわけではない。けれども、自分というフィルターを通して情報の洪水に向き合ったら、何のフィルターも通さないよりもベターな結果が得られる。単にGoogleだけを利用するよりも、一度は自分が関心をもったことに限定して情報を検索した方が、自分の知識との結びつけが楽だ。情報を減らすために、とりあえずはTwitterにどんどん投稿し、それを後から簡単に検索できるようにすれば、より自分の記憶に近い形で自分の記憶を外部化できる。

 このはてなブログという場も外部記憶のひとつだけれども、私の記憶は全て文章にまとめられているわけではない。FeedlySmartnewsで気になった記事、適当にGoogle検索したらたまたま見つけた面白いウェブページ、知人友人から教えてもらったウェブページなどを、一旦はTwitterに通して、Twitter経由で後から参照する。Evernoteを活用するなど、もっとうまい方法はある気もするが、さしあたりこれでいってみようと思う。Evernote自体は他者との共有を前提としていないから、ネットの利点が活かせないのだ。

 

 私の暫定のサーフボードは、「ユニークなハッシュタグ付きの投稿」だ。